ぬくもりの記憶 7


 小百合はマンションの自室で、窓際の床に腰を下ろし、レースのカーテンのかかっているテラス窓に目を当てていた。外はだいぶ暗くなっている。雨音は激しく、雨はベランダにも降り込んでいた。小百合は、雨が心の中にまで降り込んで来ているような気がしていた。ベランダに降る雨水は排水溝に流れて行くが、心に降る雨水はどこにも流れないで心の中に溜まって行き、心を重く寂しくさせていた。
 小百合の瞼に、直人と祖母の顔が浮かんで来た。
 あの朝の降りはもっと凄かったけれど、寂しいなんて少しも思わなかった――。
 小百合はそう心の中で呟いた。祖母と墓参りに行った日の朝の雨が思い出されていた。あの時には祖母がいた。父も母も、姉もいた。でも、今は一人だった。
『ずっとそばにいるから――』
 直人は小百合にそう言った。
 でも、こうして私を一人にさせているじゃない――。
 小百合はそう胸中で言った。そうしたら悲しくなって来て、鼻の奥がつーんとした。宿に電話をするのは簡単なことだが、電話では空元気を出して、電話が終わったあとで余計に寂しくなりそうな気がした。
「雨の牢屋の中に閉じ込められるのって、こんな感じなのかしら? 自分がどんどんじめじめして来るのがわかる。ここでどんなに叫んでも、私の声はあの人には届かない……」
 知らず知らずそう口から漏らしていた。
 すると、携帯電話の着信音が響いた。
 小百合ははっとして立ち上がると、ベッドの上にあった携帯電話を手にした。電話がかかって来たことで気分が変わった。そして、かけて来たのが健介だとわかったら、俄かに楽しくなって来た。義理堅い健介のことだから結果を知らせるためにかけて来たのだろうと思い、彼の心遣いに感謝しながらにこにこ顔で電話に出た。
「はい」
<矢麦です。あのですね、神谷さんから教えてもらった番号にかけたら、全然関係のないところに繋がったんですよ>
 電話から流れて来た健介の声は、どうしたらいいものかと困っているような感じだった。
 小百合の表情が訝しげなものに変わった。
「ちょ、ちょっと待って」
 小百合は、間違えちゃったのかしらと思いながら、ベッドの上に置いてあった宿泊先が書かれたメモを手にした。
「もう一度言うわね――、いい?」
<どうぞ>
 小百合は、直人が今日泊まることになっている宿の名前を言ってから、電話番号をゆっくりはっきり口にした。
<そうです。その番号にかけました。でも、繋がったのは、宮川賢二記念館です>
 宮川賢二と聞いた瞬間、小百合はぴんと来て、
「わかったわ。あの人、そこに行くって言っていた――!」
 と声を上げた。すると電話から、
<ああ>
 と察したような健介の声が聞こえて来た。
 直人は作家・宮川賢二の童話や詩を愛読していた。
 記念館へ行くのを楽しみにしていたから、おそらく書き間違えたのだろう。これは役に立たない。そう思いながら、小百合は憮然たる面持ちでメモを見た。
<どうやら、もともと違っていたようですね。彼のことだから、それもありだな……だったら……わかりました。僕が宿の名前で調べてみますよ>
「それ、私がやります」
 小百合は、咄嗟に言っていた。
<そうですか? 神谷さんがそう言ってくれるのなら、お願いしようかな――。あのですね、今夜の七時までは図書館で免許証を預かってくれるそうですが、七時を過ぎると落し物として警察に届けるという話です。図書館は、たいてい日曜日はやっているでしょう。その感覚で会社に電話をして来た感じでしたね。明日は休館なので、今夜の七時までなら預かれるってことです。直人にそう伝えて下さい>
「図書館に、今夜の七時までね」
 小百合は念を押すように言った。
<そうです。落とした直人が悪いんですから、また警察に取りに行けばいいというのが本当のところなんですが、せっかく先方がそう言ってくれているのです。時間までに連絡が取れれば、それに越したことはないし、それに連絡を受けてしまった以上、早く伝えないと僕が落ち着かなくて。他のことが手につかなくて弱っているんです>
 その言葉に続いて、喉の奥で笑っているような声が電話から小さく聞こえて来た。
「また迷惑をかけちゃったわね。いつも気を使ってくれてありがとう」
<彼と僕とは持ちつ持たれつ、お互い様ですから、迷惑とか、そういうのとは違うんですけれどね>
「そうだったわね――」
<あの、神谷さん。手元に免許証がないことに、彼は自分で気づくと思いますか?>
「レンタカーでも借りるんならともかく、気がつかなくてこそ、直人なのよ。そのまま帰って来ちゃうわよ」
 小百合はかなり本気でそう思っていた。
<そうでしょうね!>
 健介は普段よりも一オクターブほど高い声で言うと、
<それと、直人と連絡が取れたら、一日一回は会社に連絡を入れるように言って下さい。彼宛の問い合わせがいくつか来ているんですが、彼に聞かないと答えられないものもあって、回答を保留したままなんです>
 と、やや重い声で言った。
「わかりました。――ねえ、今更こんなことを言うのもなんだけれど、矢麦君は会社にいるのよね? 今、あれって思ったのよ」
<いますけれど、何があれなんですか?>
「他にも誰かいるの?」
<僕一人です>
「今日は日曜で、もう夕方を過ぎたこんな時間でしょう。それであれっ、どうしてって思ったのよ」
 小百合はそう言いながら、健介がいなかったら留守番電話に繋がっていて、直人に連絡を入れるのは早くても月曜の朝で、その時には直人はもうそこにはいなかったかもしれないと考えていた。
<直人の仕事も一部引き受けているので全体的に遅れているんです。日曜日の方が邪魔も入らないからできるだけやっておこうと思って、朝からずっといます。でもまあ、直人が帰って来るまでの間のことですから。もう、彼の休みは半分終わったし。神谷さん、一応言っておきますけれど、僕、七時にはここを出ますから>
 健介は言った。
 小百合はふっと思いついて口にした。
「もしかして、今夜は智子のところに行くとか――」
<そうです。なんでわかったんですか? 夕飯を作って待ってくれているんです>
 健介の声は嬉しそうだった。
 それは良かった――。
 小百合はそう思ってほっとした。直人にあとを任されている健介の仕事量が増えて、健介が仕事漬けで余裕のない生活をしているのではないかと心が痛みかけたところだったのだ。
「あとのことは私が引き受けるから、もう心配しないで。雨、かなり降っているから、気をつけて帰ってね。――智子に宜しく」
<はい。では、これで。――直人に宜しく>
 それで電話を終えた。そうしたら、
「ふふふ」
 と、小百合の口から笑いが漏れて来た。
 こちらに手落ちがあると、『浮ついたことばかり考えているから、注意力に欠けるんだ』と直人は偉そうに言ってくれるが、気持ちが浮つけば注意力がなくなるのは彼だって同じだった。馬鹿正直でくそ真面目で、慎重な性格の彼だから、彼がぽかを一つやると、それが小百合には三つも四つも一度にやったようにさえ思えて、妙におかしかった。
 今回は実際に二つやったわけだから、小百合はもうおかしくておかしくてたまらなくて、木漏れ日のようにきらきらと顔を輝かせて笑い転げた。部屋の中に明るい笑い声が大きく響いていた。
 しかし、いつまでも笑っている場合ではない。小百合は、二度三度と大きく息をして呼吸を整え、目尻に溜まった涙を指で拭いながらパソコンに目を向けた。
「やっぱり、これでしょうね。ネットが繋がっていて良かった」
 小百合はメモを持ってパソコンの前に腰を下ろすと、メモに視線を落として考えた。
「まさか宿の名前まで違っているなんてことはないわよね……」
 不安を覚えながらそう言うと、『山水荘』と打ち込んだ。
「鬼怒川……岩手……名古屋……福岡にもあるのね……。でもまあ、ここでしょう」
 岩手の山水荘をクリックした。
「純和風。文士も愛した歴史を誇る名湯。檜と岩の露天風呂。郷土料理が自慢ね……。安宿ばかりだと言っていたのに、随分立派なところじゃない……。ここだといいんだけれど、泊まっていますかって訊いたら教えてくれるものなのかしら? 教えられませんなんて言われたらどうしよう……。どうして今日の宿だけ一泊なのよ。一日くらいは贅沢しようってことかもしれないけれど、間が悪いわね。これも日頃の行いの報いだったりして。あの人、私に威張ってばかりいるから。それでも、いざという時には頼りになるから、大概のことは大目に見ているんだけれど……って、今がいざって時じゃない? 全然頼りになっていないわ……。悪いことって重なるから、これ以上悪いことが起きないように落とした運を早く回収させてやりたいんだけれども、私がここでやきもきしてもどうにもならないのよね。とにかく、野良にゃーさんを早いところ捕獲しないと……。そもそも直人が携帯を持たないから、私がこんなことをしているんじゃない……」
 小百合は、なんとも言い難い表情を顔に浮かべて、独り言を呟き続けた。直人に連絡を取る唯一の手段であったメモがその用を成さないということが実感として迫って来て、彼女はだんだん情緒不安定になって行った。
 ここであることを祈りながら、小百合はネットで調べた岩手の山水荘へ電話をかけた。
 三回のコールで繋がった。男性が出た。発音がしっかりした聞き取りやすい声だった。
 自分がどこの誰なのかを名乗ってから、小百合は直人の氏名と住所、電話番号も伝え、予約が入っているかを尋ねた。
<紺野直人様ですね。――本日、ご予約を頂いておりますが、まだ、お着きではございません>
 野良にゃーの今夜のねぐらを突き止めた、と小百合は取り敢えずほっとした。
「では、紺野が着きましたら、神谷小百合の自宅に電話を入れるように伝えて下さい」
<神谷小百合様、でございますね。紺野様は、神谷様のご自宅の電話番号をご存知ですか?>
「私の名前を言えば、それでわかりますから。お願いします」
<私、中村と申します。紺野様がお着きになられましたら、神谷小百合様のご自宅へ電話をするよう、お伝えします>
 これであとは直人からの連絡を待つしか、小百合にできることはなかった。
「間に合うのかしら……」
 小百合は心もとなげに呟いた。七時を過ぎてしまっても、取り返しのつかないことではないのだし、直人が自分で蒔いた種なのだから、そうなっても仕方がないと思う。でも、時間までに連絡が取れれば簡単に済むことだった。なんとか図書館で免許証を受け取らせてやりたいと小百合は思っていた。
「どこをほっつき歩いているのかしら? こんなことになっているとも知らずに、今頃のんびり遊んでいるんでしょうね」
 とんでもないことになったと思いながら、小百合は首をきょろきょろさせ、壁にかかっているカレンダーに視線を止めた。
「まだ半分しか終わっていないのね……」
 直人の休みのことを考えながら言った。それから立ち上がってCDを無造作に選んでかけると、部屋の隅に腰を下ろした。そこには雑誌が積んであった。一番上の雑誌を手にすると、何を読むでもなくただページをめくった。そうしたら、現在は俳優として活躍している元アイドルの写真が載っていたので、そのページで手が止まった。
「この人、直人に似ているのよね。言うと直人はあまりいい顔をしないんだけれど。――もう、これ喧しいだけだわ!」
 小百合はむっとしながら立ち上がるとCDを止めた。それから掛け時計を見て、目覚まし時計も見た。
「なんかもう嫌……」
 ぽつりと漏らした。
 何をする気も起きず、聞くともなしに雨の音を聞いていた小百合は、やがて目を閉じて心持ち顎を上げた。
「あの日も雨が降って来て、雨の中をあの人は――」
 懐かしむ口調で呟いて目を開けた。
 小百合の顔に優しい笑みが浮かんで行った。
 直人――。
 小百合は心の中で彼を呼んでみた。





                                     HOME 前の頁 目次 次の頁