ぬくもりの記憶 8(回想編)


 小百合と祖母が墓参りに行った翌日の日曜日。朝食を済ませた小百合は自室にいた。
 明るい陽光で薄いレースのカーテンが白く輝き、半開きの窓からは清々しい空気が部屋に入り込んでいた。レースのカーテン越しの柔らかな光に照らされた机の上には、下書きしたレポートと清書用の用紙が並べて置かれてある。清書用の方は、用紙の半分以上が空白だった。
 小百合は床に腰を下ろし、ベッドに背中を寄りかからせて、光る君の物語を漫画で読んでいた。通り雨がしたあとの夕方に、亡くなった北の方の兄が光る君を訪ねて来る場面でのことだった。
「小百合ー、電話よー」
 と母の声がした。
 小百合が部屋の外へ出ると、母は二階へ上がって来ていた。
「バイト先からよ」
 母が言った。
 小百合は、何かしらと思いながら気持ち急いで階段を下り、電話に出た。
「もしもし、神谷です。おはようございます。――いいですよ。――はい、これから直ぐに行きます」
 小百合はよそ行きの口調で言うと電話を切った。そして、丁度そばを通りかかった母へと声をかけた。
「お母さん、私、これから出かけて来るわね」
「バイトに行くのかい?」
「そう。人数が足りなくなっちゃったから、早めに来れないかって」
 小百合は一旦部屋へ戻ると、机の上のレポートを重ねてその上に光る君の漫画本を重石代わりに乗せた。それから身支度をし、窓は開けたままで再び一階へ下り、母を捜した。母は居間で父と一緒に、昨日仲人を務めた結婚式の引き出物のカタログを見ていた。
「お母さん、部屋の窓は開けてあるから。帰りは多分、夕方になると思う。行って来ます」
 小百合はスニーカーを履いて玄関を出た。爽やかな空気を感じ、気持ちいいと思いながら歩き始めたところ、深い庇の下に置かれた縁台に座っている祖母に目が留まった。
 どうやら祖母は居眠りをしているようだった。
 小百合は、大丈夫かしら? と思って足を止めた。縁台はコンクリートの上に乗っていた。もし縁台から転げ落ちたら大変なことになるかもしれないと考え、祖母に近づいて行った。
 縁台の上には仏様用の花瓶が置かれてあり、花瓶には友禅菊と吾亦紅が活けてあった。どちらも祖母が庭で育てている花だった。
 墓参りに行ったことは、父にばれてしまった。それで昨夜、小百合と祖母は父に怒られた。
「怒られちゃったね――」
 小百合はおかしそうに笑いながら言った。
「心配してくれているのはわかるんだけれど、ちょっとしつこかったね。さすがはこのお婆ちゃんの息子、よく喋ると思ったよ――」
 祖母もおかしそうだった。その祖母は、風邪がぶり返すこともなく、今朝の食事の時も普段と変わらなかった。
 小百合は祖母のそばに立った。祖母は両手を膝の上に置いて俯いたままだった。やっぱり寝ていると小百合は思い、このまま一人で置いておくのが心配になった。それで起こそうとして、お婆ちゃん、と言葉を発しかけた時だった。
「小百合ちゃん、傘を持って行きなさい」
 祖母が顔を伏せたままはっきりした声で言った。
 これに小百合は驚いて戸惑い、声が喉で止まってしまい、口を開けたまま目を丸くした。
 祖母はゆっくりと顔を上げた。
 自分に向けられた祖母の表情が、小百合には妙にすっきりしたものに見えた。
 なんだ起きていたのね――。
 そう思って口元を綻ばせた小百合は、視線を頭上へと向けた。
 澄んだ青い空に、白い雲の小片が魚のうろこのように並んで浮かんでいる。天気予報では降水確率は一日を通して十パーセントとなっていた。
 小百合は空を仰いでお日様のにおいを感じながら、傘などいらないと思っていた。
「小百合に傘を持たせてやれって、お爺さんに言われたんだよ……」
 そんな声がして、小百合は、はあ? と奇異に思い、視線を下ろした。
 祖母は嬉しそうな顔をしていた。
 どうしてここでお爺ちゃんが出て来るの――?
 小百合は解せないと思いながら首を傾げた。
「小百合が会いに来てくれたって、お爺さん、喜んでいたよ」
 祖母はそう言って、一段と嬉しそうな顔になった。
 ひょっとすると夢の中の出来事かしら――?
 小百合はそう思いつき、
 やっぱり寝ていたのね。夢にお爺ちゃんが出て来たのね――。
 と、自分の心の中で一人で納得した。
「直ぐに帰って来るのかい?」
 祖母が言った。
「直ぐには帰らないわ。バイトに行って、バイトが終わってからお買い物をするつもりでいるの。帰るのは夕方過ぎになると思う」
「それだったら尚更だ。お爺さんの言うことを聞いて、傘を持って行った方がいい」
 祖母はそう言って縁台から立ち上がり、犬走りの上に干してあった長傘を手にした。それは昨日、小百合が差していた傘だった。
「もう乾いているよ」
 祖母はそう言うと傘を畳み始めた。
「お婆ちゃん、持って行くなら折り畳みにする……」
 小百合は気乗りしない口調で言った。正直、ありがた迷惑でしかなかった。
「秋の空は移ろいやすいからね。こっちの方がいいって、お爺さんが言っているよ」
 祖母が傘を差し出した。
 小百合は、また夢の中の話? と思いながら、仕方がなしに傘へ手を伸ばした。
 指先が傘に触れた瞬間のことであった。ふわりと薔薇の香りがして、雨に濡れながら父の墓前に立っていた紺野直人の姿が瞼に浮かんだ。
 ほんの一瞬、手の動きを止めた小百合であったが、直ぐに傘を受け取り、
 昨日、これを差しながらあいつのことを見て、あいつのことを聞いた。だから、これはあいつと繋がっている――。
 と、傘を見ながら思った。
 あの場に居合わせられたのが、嬉しい。今まで知らなかったあいつを知ることができて、良かった――。
 そんな想いが頭に浮かんで来て、何故か胸が妙に熱くなって行った。
 これもお爺ちゃんのお陰だから、言うことを聞いてこれを持って行こう――。
 そう心の中で言った。
 小百合は傘から祖母へ視線を移し、
「お婆ちゃん、ありがとう。それと、私の部屋の窓、開けたままだから、降って来たら閉めてね。それじゃあ、行って来まーす」
 と澄んだ声で言い、長傘を持って、元気いっぱいに出かけて行った。
 祖母は、優しい笑みを満面に湛えて孫娘を見送っていた。
 小百合は、あいつ昨日風邪をひかなかったかな、明日大学で会えるかな、などと、紺野直人のことをいつになく楽しい気持ちで考えていた。

 正午頃から空が曇って来て、三時頃から小雨がぱらつき始めた。
 バイトを終えた小百合は、お爺ちゃん、お婆ちゃん、感謝します、と心の中で言いながら傘を開いた。
 祖母に買い物をするとは言ったが、特に買いたいものがあるわけではなかった。気ままに歩き回って眺めて楽しみ、気に入ったものがあれば買おう、とそういうつもりでいた。それが、雨に降られてしまった。今のところは小雨であったが、そのうち本降りになりそうな気配があった。
 小百合は、帰った方がいいのかもしれないけれど……と思いつつも、お店のウインドウを適当に覗きながら雨の街をそぞろ歩きしていた。
「お汁粉が食べたいな……。食べて、それで帰ろうかしら?」
 小百合は小さな声で言うと、こっちに甘味処があったはずと思い、角を曲がった。途端、彼女は驚いてその場に棒立ちになった。なんと、紺野直人が向こうの方にいたのだ。
「今日も会っちゃった……」
 小百合は目を瞬かせながら言った。
 小百合が見守る中、直人は歩道の車道寄りに植えられている背の高い街路樹の根元にしゃがみ、手にしていた花束の包装を解いて、それを土の上に置くとひっそりしゃがんでいた。一分かそこらしてから、彼は身体を車道の方に向けながら立ち上がった。
 その車道は上下二車線であまり渋滞することもなく、いつも車がびゅんびゅん飛ばして走っている。今日も雨が降っているというのに、どの車もかなりの速度で走っていた。
 直人は道路の方を向いたままじっとしている。
 そんな彼の様子を、昨日父親の墓前にいた時と雰囲気が似ていると思いながら、小百合は一歩も動かずに見据えていた。
 直人は傘を持っていなかった。
 小百合は、あいつ雨に濡れるのが趣味なのかなと思い、やっぱりどこか変わっているとも思った。それから、祖母が彼にお線香に火を点けてもらったと言ったのを思い出した。
 お婆ちゃんがお世話になったんだから、孫としてお礼をするべきよね――?
 そんな考えが頭に浮かんで来て、なんとなく自分が差している傘を見上げた。
 紺野との相合傘――? うん、悪くないかも。なんと言っても、見た目だけなら最高なんだから。
 そう思ったら、急に興奮して来た。
「よし!」
 短いかけ声を発した小百合は、彼に向かって歩きながら、
 昨日、色々聞いちゃったもんね。
 と思っていた。
 祖母から彼のことをほんの少し聞かされただけで、彼のことなら良く知っているつもりになってしまっていた小百合は、彼に対して親しみを感じると同時に優越感をも感じていた。
 直人は、背後から近づいて来る小百合には気がつかないようだった。
 小百合は黙って背後から彼の頭の上に傘を差しかけてやった。直人の肩がぴくりと動き、顔が肩越しにこちらを向いた。彼は何が起きたのかわからないような顔をしていた。
「傘、持っていないんでしょう。入れてあげる」
 小百合は浮き立った声で言った。
 直人は小百合に目を当てながら、嫌そうに形の良い眉を顰め、薄い唇を噛んだ。
 しかし、小百合は彼の表情の変化などお構いなしに、
「ここで何をしていたの。これからどこへ行くの。私、暇でぶらぶらしていたところだったから、つき合ってあげてもいいわよ」
 と、矢継ぎ早に言葉を浴びせ、
「濡れたら風邪ひいちゃうわよ」
 と言った。が、言った本人の方が濡れていた。
「いらん」
 直人は低い声で威嚇するように言うと目を逸らした。
「あっ、そう……?」
 小百合は拍子抜けした声で言った。がっかりしながら傘の柄を自分の肩に乗せると、所在無く辺りを見回した。すると地面に置かれてある花束に目が行った。不意に彼の父親は交通事故で死んだという祖母の話が頭に浮かび、自然に言葉が口から出てしまった。
「お父さんが交通事故に遭って死んだのって、ここなの?」
 この言葉に、その場を立ち去りかけていた直人は足を止めて振り返り、小百合に冷たい視線を投げかけながら、
「なんであんたが知っているんだ?」
 と、鬱陶しそうに言った。
 彼が冷たい目で人を見るのも、鬱陶しそうに話すのもいつものことである。だから、小百合はまるで気にしないで、
「お婆ちゃんがそう言っていたから」
 と答えた。
「昨日か……。あんた、神谷さんの孫だったんだな」
 直人は眉間に皺を寄せながら言った。
「そうよ。祖母がいつもお世話になっています。お婆ちゃんね、紺野君のことをいい子だって言って、すごく褒めていたわよ。ねえ、お婆ちゃんとはいつもあんな感じで話しているの?」
 小百合はそう言いながら少し離れていた直人に近づいて行って、彼の目の前に立った。
「あんたには関係ないことだ」
 直人はぷいと横を向いてしまった。
「まあ、そうだけれど……」
 小百合はくぐもった声で言った。彼は取りつく島もない態度を見せている。小百合は、面白くないと思いながら、彼とは反対の方向に視線を向けた。そちらは車道だった。
 小百合はふと疑問を感じた。
「ここって、人が渡れるようにはなっていないわよね。お父さんの事故って車を運転している時に起きたの。ここは、飛ばす車が多いじゃない。だからお父さんもスピードの出し過ぎが原因だったの、それとも脇見運転だったの。単独だったの、車同士の衝突だったの。あるいは、酔いつぶれて車道で寝てしまって車に轢かれちゃったっていうのを時々ニュースや新聞で見るけれど、それだったの。でも、それは寝ている方が悪いのよね。そんなのを轢いちゃった方が気の毒だし、可哀想よね。馬鹿なことをした人のせいで、運転手さんの人生台無しじゃない」
 車道を見渡しながら思うままにぽんぽん言って、それから直人に視線を戻した小百合は、ぎょっとして目を見開いた。彼は体をわななかせ、ぎらぎらと燃えるような怖い目でこちらを睨みつけていた。
「何も知らないくせに勝手なことを言うな!」
 直人は小百合に怒声を浴びせた。
 通行人たちの視線が二人に注がれた。しかし、それも瞬間的なことで、振り返り振り返りしながらのろのろと歩いているのも二人か三人いたが、ほとんどの人はさっさと通り過ぎて行く。
「あんたに何がわかるって言うんだ!」
 直人は殴りかかるような勢いで怒鳴り、先程とは打って変わった氷のような目でひと睨みすると、さっと身を翻してその場から早足で離れて行った。途中、手にしていた包装紙をコンビニのごみ箱に捨てていた。
 小百合はと言えば、目を丸くして口をぽかんと開けて立ち尽くしていた。彼のあまりの勢いにびっくり仰天で、怖いも何もなく頭の中が真っ白になっていた。ややあって我に返ると、
「あいつ、やっぱり嫌いだあ……」
 と恨みのこもった声で吐き出した。親切にも傘に入れてあげようと声をかけたのに、なんで怒鳴り声が返ってくるのか、と彼の態度に理不尽さを感じた。それと同時に、あれでこの先やって行けるのだろうか、と彼を不憫に思う気持ちもあった。
「もっと考えて行動しなさい」
 思わず漏れ出た言葉は、小百合が母からよく言われるもので、口調も母にそっくりだった。
 と、小百合は急に思い出したような顔をすると、直人が街路樹の根元に置いた花束に目を落とした。黄色と薄桃色の小菊、竜胆、白い孔雀草が、輪ゴムではなく、おそらく自然由来のものだろう、で束ねてあった。これまでにもこの場所に、こうして包装を解かれた花束が置かれてあるのを何度か目にしていた。
 いつも紺野が置いていたのかな――?
 花束を見ながら思った。
 ここには水仙が植わっているのよね。この花もいずれ枯れて土に還って肥料になるのかな――?
 そんなことも考えた。
 小百合は疲れたようなため息を一つ吐くと、小雨がしとしと降る中を歩き出した。昨日と今日と、雨の中で見た彼の色々な表情、笑ったり怒ったりしょんぼりだったり、が、彼女の瞼に浮かんでは消え、浮かんでは消えて行く。
 彼にだって、こんな表情もあんな表情もあったのね。どれも間違いなく紺野君本人。――それにしても、そんなに私の傘に入るのも、私と話すのも嫌だったのかしら。だからって、あんな風に睨んで怒鳴ることはないじゃない。
 小百合は心の中でこぼすと、空に視線を向けた。
 あんな態度を取られたら、蹴ってやるー! ってこれまでだったら思った――。そんな気持ちもなくはないけれど、それよりも今は、紺野君に触れてみたい、って思っている――?
 雨の落ちてくる空を見上げながら、不思議な気持ちになっていた。




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