ぬくもりの記憶 6(回想編)


 盛りを過ぎた萩の残り少ない花が雨でこぼれ落ち、鮮やかで艶やかな紫色の小さな実をびっしりとつけた小紫式部の枝は重たげに垂れている。背後の山を切り崩した斜面には木が生い茂り、『長楽寺墓苑』の看板がある。そこは広い墓地であった。
 小規模ながらかなり昔から存在していた長楽寺の墓地は、二十年ほど前に拡張工事が行われて現在の規模に広がった。
 小百合は、まだほんの幼い頃に、この墓地で転倒して膝と肘を擦りむき、「お家に帰る!」と号泣したのを覚えている。他に、墓地に着いて車から降りた途端、嘔吐したことも覚えていた。その時は、家で祖母の作ったおはぎを三つか四つ食べてから車に乗り、車が走り出すと直ぐに「お菓子が欲しい、くれなきゃお家に帰る!」と泣き叫ぶので、やむなくお菓子を与えたと両親から聞かされている。
 このように、小百合はこれまで墓参りでいい思いをしたことがなく、それに自分が生まれる前に死んでしまった祖父にはなんの情も沸かず、もう十年以上墓参りには来たことがなかった。
 そして今日、初めて自分から墓参りに来てみたというのに、またもや嫌な思いをすることになってしまった。雨の日は心引かれるものと出会えるはずなのに、一番会いたくないものと遭遇してしまった。
 紺野直人が墓地にいるのに気づいた瞬間、小百合は、あるはずのない青い薔薇を見たような心地がした。バイオテクノロジー技術によって作り出されてはいるが、青い薔薇は自然界には存在しない、まさにあり得ないことの代名詞。
「小百合ちゃん、どうしたの?」
 祖母が、立ち止まっている小百合へ声をかけた。
「うん……ちょっと昔のことを思い出していたの。私ってお墓参りのたびに泣いていたなって」
「そういえば、そうだったかもしれないね。さあ、こっちだよ」
 祖母はそう言って、なんと彼のいる方へ歩いて行く。小百合は驚き戸惑いながらも、とにかく祖母について行くしかなかった。
 祖母は綺麗に区画されて、似たような形状の墓石が立ち並んでいる中をたどたどしい足取りで進んでいた。排水溝は設けられているが、砂利が敷かれた通路には所々に水溜りができて雑草も生えている。
 墓地には大きさも形もまちまちな墓石が不規則に立ち並んでいる一画があった。
 そちらを祖母は指差して、
「あそこら辺がうんと昔からあった墓地だよ。あそこにある墓石は、苔むしているやら、磨耗しているやらで、何が書いてあるのかわからないのが多いんだ」
 と言った。
「お婆ちゃん、そんなことはいいから。お願いだからよそ見しないで、ちゃんと足元を見て歩いてよ」
 小百合の声は必死だった。
 ちょこっと行って帰ってくればいいと軽く考えて小百合は家を出たのだが、直に後悔した。何しろ道は雨で濡れて滑りやすくなっているし、おまけに祖母の歩き方は頼りなかった。祖母が転ばないように注意していた小百合は、何度もひやりとさせられた。雨は霧か小雨かという微妙な降り方であった。だからと言って油断して濡れれば、気温が低く肌寒いので身体が冷えてしまう。自分ならこれくらいの雨や寒さはへっちゃらだという自信が小百合にはあったが、祖母は風邪がぶり返すかもしれない。小百合は自分の若さや健康を基準として考えてしまった思慮のなさを痛感し、自分から誘ったのだから何かあったら自分のせいだという祖母に対する重い責任を感じて精一杯気を使っていた。
「これがお爺さんだ。――お爺さん、小百合ちゃんが連れて来てくれたんですよ」
 祖母はそう言いながら二段の階段を上がって墓前にしゃがんだ。
 小百合は祖母から傘を預かるとそれを祖母に差しかけて、これで半分終わったと一先ずほっとした。祖父のお墓の場所はわかったから、あと自分がすることは、祖母と一緒に家へ帰ることだけだと思った。それでようやく紺野直人のことを気にする余裕が出て来た。
 大学構内で紺野直人は一人でいるか、矢麦健介といるかのどちらかだった。その健介は、小百合の親友の智子とつき合っている。結果、小百合は大学構内で直人と一緒になることが比較的多かった。とは言うものの、小百合は直人とまともに話したことがなかった。小百合は不本意ながら彼と顔を合わせているだけであり、彼も同じ気持ちだろうと思われた。
 直人は蔑むような冷たい目つきをしてそこにいるだけで、自分からは決して喋らず、健介が彼に話しかけた時だけ、「ああ」とか「さあ」とか短い言葉を漏らした。
 紺野直人は自分を特別な人間だと思って、自分を高いところに置いている、と小百合は考えていた。
 その直人のことを健介はいやに信用していた。健介が直人の何を信じているのかが小百合にはわからなくて、腰巾着と言われても仕方がないような気さえする。
 祖母が墓参りを終えるまで、小百合は祖母に傘を差しかけることくらいしかやることがなくて、暇だった。それで、彼のことを余計に気にしてしまう。
 天上天下唯我独尊を地で行くような男に故人を懐かしむ情があるとは思えないが、それでもここにいるのは墓参りをしに来たからだと考えるのが妥当だろう。それにしてもこんな雨の降る中、わざわざお墓に出かけて来るなんて、やっぱり普通の神経じゃない。
 小百合は祖母を見守りながらそう考えた。そして、思い切って彼の方へ顔を向けた。
 神谷家のお墓から四区画目の墓地に直人はいた。霧のように細かい雨が降る中、彼は傘を畳んで墓石の前に首を垂れて立っていた。
 傘を差していなかったから、遠くからでも紺野だってわかったんだけれど、見たくないものほど、どうして目についちゃうのかしら……。それにしても、情けないくらいしょんぼりしているわね。あの俺様紺野が、叱られてぺしゃんこになった子供のようになっているわ。いつもはお前など俺の足元で這いつくばっていればいいのであって、俺と同じところに上って来ることは許さないとでもいうような目つきでこっちを見下ろして来るけれど、今は私の方が紺野を見下ろしている気分だわ。――うんと、あら? なんかあんまりいい気分じゃないわね。あそこにいるのは確かに紺野なんだけれど、いつもの傲慢オーラが出ていなくて、紺野らしくないからかしら……。
 その日、小百合は紺野直人のこれまで知らなかった一面に触れた。
 たとえば、晴れた日には眩しい光の中に溶け込んでしまう白い花が、雨の日にはくっきりと浮かび上がって異なった印象を与えてくれるように、条件の違いで見慣れているはずのものが見知らぬものとして、突如目の前に現れる時がある。その瞬間、今までの想いは一蹴され、新たな感動が沸き起こり、それは深く心に記される。
 ――――どうしたのかな? 何だか息苦しい。
 小百合は胸が詰るような感じがした。
 ――――ここ、空気がおかしい気がする。
 空気がゆらゆらと揺れているような不可思議な感じに包まれながら、軽い眩暈を覚えていた。
 ――――風邪のひき初めかな。
 背中がぞくりとして、震えがさざなみのように全身に広がって行った。
 頭を振って視線を落としたら、亡き夫と無言で会話をしているような祖母がいた。ふと思って直人へ視線を戻した。彼も誰かと話しをしているように見えた。
 小百合は周りの様子がついさっきまでとは違うような気がした。
 この時、静かに降る雨に包まれた非日常の空間には祖母の想いが、直人の想いがあった。
 この日、祖母が無難に過ごせるように神経を尖らせていた小百合は、感じ易くなっていた。
 彼女は、それとは気づかずに二人の想いを感じ取っていたのかもしれない。
 小百合は直人を見守っていた。雨に濡れて墓前に佇む彼は儚げで、今にも消えてしまいそうに見えた。小百合はどうにも落ち着かなかった。
 直人が身体を動かした。
 小百合はどきりとして、咄嗟に顔を背けると自分の姿を隠すように傘を持ち直して目を閉じた。ざっざっと砂利を踏む音が近づいて来る。その音を、小百合は息を凝らして背中で聞いていた。
「こんにちは」
 それは祖母の声だった。そして、
「こんにちは」
 と帰って来た。
 紺野の声だ、と小百合は思った。砂利を踏む音は止んでいた。
「久しぶりね。まあ、暫く見ない間に立派になって」
 そう言ったのは祖母だった。その声には親しみがこもっていた。
 小百合はびっくりして目を開いた。
 ちょっと待ってよ? もしかして、お婆ちゃんは紺野のことを知っているの、うっ嘘でしょう……。
 小百合はそう思い、思わぬ展開に頭の中がこんがらがってしまった。祖母が立ち上がった。小百合は祖母に傘を渡すと、直人へおずおずと向き直った。
 直人は傘を差していなかった。彼の髪も服も、しっとりと濡れていた。
 露を帯びた青い薔薇――――。
 彼を見た瞬間、小百合はそう思った。そして、妙に気恥ずかしくなって顔を伏せた。
「会うたびごとに一段と見事になって行く。紺野さんも、さぞかし先を楽しみにしていることでしょう。――お二人ともお変わりありませんか?」
 祖母が言った。
「お陰さまで二人とも元気にやっております」
 直人が言った。それは丁寧で柔らかな口調だった。
 明らかにいつもと違う彼の声色に、小百合は怖いもの見たさに顔を上げた。目の前には、親しげな笑みを浮かべている直人がいた。
 うっ嘘だ。紺野が笑っているなんて、これは何かの間違いだ。――なっ何よこいつ、いつもと全然違うじゃない!
 小百合はそう思って唖然とした。
 祖母と直人の間には、いい雰囲気が流れていた。しかし、小百合が入り込めるような余地は、そこにはなかった。小百合は一人だけ弾き出されてしまったような気がしていた。
「そうですか。お元気で何よりです。お二人に宜しくとお伝え下さい――」
 祖母は言って、直人に軽く頭を下げた。
「はい。では、これで失礼します――」
 直人は祖母には丁寧な会釈を返したが小百合には目もくれず、霧のような雨に濡れながら立ち去って行った。
 彼の背後姿を呆気に取られながら見送っていた小百合は、彼の姿が視界から消えると訝しげに口を開いた。
「今の人と随分親しそうだったけれど、知り合いなの?」
「小さい時分から知っているよ。確か小百合ちゃんと同い年のはずだ。本当に立派になって、お父さんも安心しているだろうね。あのこは、紺野直人君というのだけれど、お父さんを交通事故で亡くしているんだ」
「そうなの……」
 小百合は、直人の父親のことは初めて知った。と言うか、彼のことは何も知らないに等しかった。
 それだったら、あれはお父さんと話していたのね。
 小百合は先程の直人の様子を思い出して、そう思った。
「あそこのお婆さんとは、ここ暫くは会っていないけれど、会えば挨拶もするし、話しもする。お婆さんと言っても、私よりもずっと若い人だよ。ご本人は十八かそこいらで娘さんを産んで、その娘さんは二十一、二でお母さんになったと聞いたよ。お父さんが婿養子だったんだよ」
 その言葉から、祖母は直人の事情に詳しそうだと小百合は感じた。
「ねえ、あの人のこと、他にも何か知っていたら教えてくれない――。ほら、なかなかハンサムだったじゃない。かなり好みだから、もっと色々知りたいなあって」
 小百合はそう言って、笑いながら肩を竦めた。
 祖母は、おやまあという顔をすると口を開いた。
「お爺さんのお墓を建てたのとほとんど同じ頃に、紺野さんがここにお墓を移して、それで知り合ったんだよ。旧いお家で、ご自分の地所にご先祖様のお墓があったのだけれど、不便だったり、他にも何かと事情があったようで、そこは手放すことにしたんだって。そうしたら、あれはお爺さんが亡くなって何年してからだったか……お婿さんが事故で亡くなられて、まさか自分たちより先に逝ってしまうとはって、お爺さんもお婆さんも嘆いていた。その後、娘さんは、あのこのお母さんだけれど、再婚してお嫁に行って、直人君は紺野の跡取りだからお爺さんたちの養子になって一緒に暮らしている――。お婆ちゃんが知っているのはこれくらいだ」
「それじゃあ、あの人、お母さんとは暮らしていないのね」
「そういうことだ――。いつだったか、風の強い日で、お線香がなかなか点かなくて困っていたら、直人君が丁度やって来て、点けてくれた。優しくて礼儀正しい、本当にいいこだ」
「お婆ちゃんは、あの人のことが好きみたいね」
 小百合は祖母の口ぶりからそう感じた。
「ああ、気持ちの優しいこだからね。直人君のことを知りたいと思う小百合ちゃんの気持ちが、お婆ちゃんにはよくわかるよ」
 祖母はそう言って小百合に微笑みかけた。
 小百合は返す言葉が見つからず、目を瞬かせていた。
「さあ、私たちも帰ろうか。――小百合ちゃん、連れて来てくれてありがとうね」
「うん。――あっ、ねえ、誕生日のことだけれど、私、お婆ちゃんの作ったおはぎが食べたいな」
「それならお安いご用だ。他にはないのかい? 洋服とかアクセサリーとか、欲しいものがあったら、買ってあげるよ」
「お婆ちゃんのおはぎが食べたいの。あんこが美味しいんだもん。それで、お婆ちゃんの味を覚えたいから、私も一緒に作るわね」
 思わぬ収穫があった。まさしく幸運の雨だったと思いながら、小百合は祖母と共に家路についた。





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