ぬくもりの記憶 5(回想編)


 十月初旬の土曜日。昨夜から降り始めた雨が降り続く、肌寒い日であった。
 朝、小百合は目覚めても直ぐには起き上がらないで、布団の中で雨の音を聴いていた。
 昨夜の雨は、ぱらぱらと静かで優しい音を立てて降っていた。夜、寝床に入った小百合は、雨の音を子守歌のように聴いていた。
 ところが、今朝の雨は、昨夜とは打って変わって、ざあざあと激しい音を立てて降っていた。
 今日は授業もバイトもないから、いくらでも降って下さいと心の中で言いながら、小百合はもぞもぞと布団に頭まで潜り込むと、その中でぬくぬくしていた。そうしたら、小学生の時、学校から帰る時に雨が降っているとよく祖母が迎えに来てくれていたこと、祖母と二人で傘を差して雨の中を歩いたことが思い出されて来た。それから、そうして歩いていると、しばしば何かを発見したものだと思った。それは人そのものであったり、物そのものであったり、何かの行為であったり、自然の現象であったりしたが、小百合の心を引きつけてやまない素晴らしいものだった。だから、いつの頃からか、雨の日には魅力的な何かに出会えると考えるようになった。それで小百合は、雨が嫌いではなかった。
 お腹が鳴った。小百合はくすりと笑うと、掛け布団をはねのけて起き上がった。
 現在、小百合は十九歳。鼻がもう少し高ければいいのにとか、身長がもう三・五センチ伸びて百六十センチになればいいのにとか、姿を見ると蹴りたくなるくらい嫌いな奴が大学にいるとか等々、悩みはいくつかある。しかし、どれもこれも深刻に考えたり、自分のうちに抱え込んで悶々とするものではない。闇の中で一人うずくまったまま立ち上がれない程の悩みは、彼女にはなかった。
 小百合は着替えて廊下に出た。そうしたらお味噌汁のいい香りがした。また小百合のお腹が鳴った。
 ご飯、ご飯と頭の中で言いながら階段を下りきって食堂の方へ行きかけた彼女であったが、不意に身体の向きを変えると、短い廊下の先にある祖母の部屋へ向った。風邪をひいて昨日一日寝込んでいた祖母のことが気になったのだ。
「お婆ちゃん、起きている?」
 小百合は閉じられた障子の前に立って声をかけた。
「小百合ちゃんかい? 起きているよ」
 障子の向こうから返事が返って来た。
「開けるね」
 小百合は言うが早いか障子を開いた。まだ布団は敷かれてあったが、祖母は寝間着を着替えて正座していた。
「小百合ちゃん、おはよう」
「おはよう。具合はどう?」
「もう大丈夫だよ」
「ねえ、何を見ているの」
 小百合は祖母のそばに寄ると手を両膝に置き腰を屈めて、祖母が手に持っているものを覗き込んだ。それは、着物姿の若い男女が写っているセピア色の写真だった。
「へえ、なんだか古そうな写真ね」
「お婆ちゃんがお爺さんと二人で初めて撮った写真だよ。見せたことなかったかね。どうせならきちんとした格好で撮ろうということになって、お婆ちゃん、一番いい着物を着たんだ。お婆ちゃんにもこんな時があったんだよ――」
 祖母は小百合に写真を差し出した。
 写真を受け取った小百合は、立ったまま写真に目を当てた。
「これは初めて見たわ。――こうして見ると、姉さんとお爺ちゃんは本当に良く似ているわね」
「小百合ちゃんは、その写真のお婆ちゃんにそっくりだろう」
「うん、私が写っているって思ったもの」
 小百合は写真の中の祖母を見ながら言った。
「面差しだけではなく、気質も紅葉ちゃんはお爺さんの、小百合ちゃんはお婆ちゃんのものだ。小百合ちゃんを見ていると、昔の自分を見ているようだよ――」
 祖母は小百合を見上げていた。
 小百合は目の前にいる祖母へ目を移すと、
「お婆ちゃん、なんだか困ったような顔をしているけれど……どうかしたの?」
 と言った。
「そう見えるかい?」
 祖母はそう言って口元を綻ばせた。それから、
「若い時の私は、思ったことを直ぐ口にしたもんだ。そうするとお爺さんは、ほらまた、お前は口が軽い。そう言ってよく私を叱った」
 と言った。
「でも、お婆ちゃんは嘘を言ったわけではないんでしょう? 嘘はいけないけれど、自分が思ったことを思ったとおりに言った正直者のお婆ちゃんを叱るなんて、お爺ちゃんの気が知れないわ。心が狭かったんじゃない」
 小百合は祖父のしたことに反発を覚えながら言った。
 祖母は目で微笑みながら、
「お爺さんは立派な人だったよ。――小百合ちゃんはいい子なんだけれど、頭で考えるよりも先に口が動いて、ありのままを口が語ってしまうようだから、それがちょっと……。率直さは美点だけれど、欠点でもある。――お爺さんは寡黙な人だった。言葉には不思議な力が宿っていると言って、言葉を大切にしていた。――今日は、お爺さんの命日だから、お墓参りに行って来るよ」
 と言った。
 これを聞いた小百合は、えっ! と思った。それと同時に、
「駄目ですよ」
 という声が聞こえた。小百合は首を動かした。開いている障子の向こうの廊下に父が立っていた。
「こんな日に何を馬鹿なことを言っているんですか」
 父は呆れた口調で言った。雨の音は先程よりも激しくなっていた。
「風邪がぶり返すといけませんから、今日は一日家でおとなしくしていて下さい」
 父はそう言うと廊下を歩いて行った。どうやらお手洗いへ行く途中だったらしい。
「お父さんの言うとおりだと思うよ。それよりもご飯にしよう」
 小百合はそう言いながら祖母に写真を返すと、
「先に行っているね」
 と、部屋から出て行った。
 座ったままでいた祖母は、写真に向って、
「こんな大雨になるとは……最後の今日だったのにね、お爺さん」
 とがっかりしたように呟いてから、そろりと立ち上がった。
 その日は午後から、父の部下の結婚式があった。その仲人を務めることになっている両親は、初めての経験で緊張していた。特に上り症で本番に弱い父は、落ち着かなかった。
「この雨では、皆さん大変ね」
 朝食を取りながら母が心配そう言った。
「雨の日の婚礼は、縁起がいいんだよ。雨は天からの祝福、幸せが降っているんだ」
 祖母が言った。
「これは降り過ぎよ。一生分の幸せが、今日一日で降り尽くしちゃうんじゃない」
 小百合が言った。
「今が雨のピークみたいよ。これから徐々に弱くなって来るって、天気予報で言っていた」
 紅葉のそんな声が、食堂の隣のテレビが置かれてある部屋から聞こえて来た。紅葉は今日、部活動の大会に生徒を引率する。
「このまま降り続かれると厳しいなと思っていたから、助かったわ」
 紅葉はほっとした様子で食卓についた。
「母さん、わかっていますね。今日は、外出禁止ですからね。――この天気なのに、父さんの墓参りに行くなんて言うんだ」
 父は祖母から母に視線を移しながら言った。
「ああ……そう言えば今日はお義父さんの命日でしたね。――お義母さん、お気持ちはわかりますけれど、お体のことを考えたら、今日は止めた方がいいですよ」
 母が言った。
「お婆ちゃん、お願いだから今日は止めて」
 紅葉が言った。
 祖母は小さくなって黙っていた。
「今日は、授業があるのか?」
 父は小百合に向って言った。小百合は首を左右に振った。
「ないんだな? それだったらお婆ちゃんの相手をしてやりなさい。――母さん、もし出かけたら、その時は小百合を叱りますから。いいですね」
「ちょっと、お父さん。それって卑怯じゃない!」
 小百合はそう叫ぶと、ぶすっとした顔になった。
「小百合ちゃん、ご免ね」
 そんな祖母の声が小さく聞こえて来て、小百合は祖母を見た。祖母は済まなさそうな顔をしていた。それから父をちらりと見、また祖母を見、そして視線を手元に落として考えた。
 父から無体なことを言われた小百合は、天の邪鬼になりつつあった。

 十時半を過ぎた頃。お風呂掃除を終えた小百合は窓に目をやった。窓には目隠しがされていて、外の様子がよくわからない。しかし、雨の音はしなくなっていた。
 小百合は祖母の部屋へ向かった。その途中、彼女は廊下のガラス戸を開けて外を見た。灰色の空から霧のような細かい雨が音もなく降っていた。これならと思って、小百合はにやりとした。そしてガラス戸を閉めると、祖母の部屋の前まで行った。
 祖母の部屋の障子は開け放たれていて、小百合は廊下から部屋の中を見た。畳の上には所狭しと様々な物が広げてあって、押入れの襖が開いていた。祖母は畳の上に座って、箱から出したものを、再び箱にしまっているようだった。
「これ皆、押し入れの中にあったの。こんなに広げちゃって、何か捜しているの」
 小百合はそう言いながら祖母の部屋に入った。
「ちょっと整理しておこうかと思って……そんな大層な物はないんだけれど……小百合ちゃん、ここにお座り」
 祖母は物を退けて座る場所を作った。
 そこに腰を下ろした小百合は、「ふーん」と声を漏らしながら畳の上に置いてある色々な物を一通り見、それから部屋の片隅にある高さ百五十センチほどの家具調の仏壇を見上げた。祖父の位牌がそこには祀られてあった。
 小百合の家は、本家から分かれた祖父が初代。正確には相続の問題で、祖父は自分の意思で故郷と親族から離れたと言うことで、祖父方の親戚とは疎遠であった。
 小百合は祖母に向き直って言った。
「お墓参りに行こう」
 小百合は祖母の喜ぶ顔が見られると思っていた。ところが、何故か祖母は困ったような顔をして黙っていた。
「皆出かけちゃったし、ねえ、行こうよ」
 小百合は座ったままで祖母にずいと詰め寄った。彼女の中には、雨の日には魅力的な何かに出会えるという想いがあって、その想いが彼女の瞳を輝かせていた。
「これくらいの雨だったら大丈夫よ。寒くないようにして、私も一緒に行くから」
 小百合は重ねて誘ったのだが、祖母からは色好い返事が返って来なかった。
「もう行きたくなくなっちゃったの……」
 小百合は言って、つまらなそうな顔をした。
「小百合ちゃんが、お父さんに叱られるから……」
 祖母が言った。これを聞いて、小百合は愉快になった。
「さっと行ってさっと帰ってくれば、お父さんなんかにはわからないわよ。もしばれても、お父さんに叱られるのはいつものことだから、平気平気、気にしない気にしない。あれくらいで私がおとなしくしていると思うお父さんが、甘い甘い」
 小百合は手を上下にひらひらさせながら、父を小馬鹿にする口調で言うと、
「それに私、お爺ちゃんのお墓がどこにあるかわからないから、この機会に覚えようかなってちょっと思ったのよ」
 とも言った。
 祖母は意外だというような表情を見せると、
「小百合ちゃんを連れて行った覚えがあるけれど……」
 と言った。
「小さい頃に行ったのを覚えているわ。墓地の場所ならわかるんだけれど、そのどこにお爺ちゃんがいるのかまではわからないの。私だけお爺ちゃんを知らないでしょう。お爺ちゃんの話をされても全然わからないからつまらなくて、私には関係ないもんってなっちゃったのよ」
「そうだったね……。でも、小百合ちゃんは知らなくても、お爺さんはお母さんのお腹にいた小百合ちゃんを知っているよ。今度は女の子だって言って、生まれる日を楽しみにしていたんだ。小百合って名前は」
「それはもう止めて!」
 小百合は祖母の言葉を遮った。
「お爺ちゃんが百合之介(ゆりのすけ)だから、私が小百合……もう何度も聞かせれて厭になっているのよ。とにかく私はお爺ちゃんって人を知らないんだから……」
 小百合は、祖父と結びつけられることを心底迷惑に思っていた。
 祖母は困ったように目を細めると口を開いた。
「お爺さん、突然逝ってしまったからね……庭で倒れているのを私が見つけて、救急車を呼んだんだけれど、救急車が着いた時には、もう……この家はお爺さんが苦労して建ててくれた家だから、この家から送り出して欲しいって私が言ったんだ。私がお爺さんに最後にしてやれたのは、それだけだった……いろんな人が励ましの言葉をかけてくれたけれど、それがかえって辛くて……もう二度と、『峰(みね)』って呼んでもらえないんだなって思うと寂しくて堪らなくて、この先一人でどうしたらいいのかわからなかった……そうしたらだよ、お母さんが予定日より早く産気づいて、小百合ちゃんが生まれた。その時お婆ちゃんね、光が見えた……小さな小百合ちゃんを見ていたら、身体の中が暖かな光でいっぱいになった……救われたと思ったよ」
 祖母はそう言うと両手を小百合の頬に当て、
「小百合ちゃんの中にはお爺さんがいる、お婆ちゃんもいる。だから、悲しまなくてもいいんだよ。小百合ちゃんが悲しんだら、お爺さんもお婆ちゃんも悲しいからね。初めは辛く悲しいかもしれない。だけれども、喜びが生きる力となるように、悲しみもまた力になる。乗り越えるんじゃなくて、包み込むんだ。喜びも悲しみも自分の中に包み込んで、それを心の糧として、強くなっておくれ」
 と言った。
 小百合はきょとんとしていた。祖母の話はちんぷんかんぷんで、さっぱりわからなかったのだ。
 祖母は目を細めて、皺だらけのごつごつした手で小百合の頬を撫でていた。
「お婆ちゃん……どうしちゃったの? なんかおかしいよ」
 彼女は、大好きな祖母に頬を撫でてもらっているというのに、安心よりも不安を感じた。
「小百合ちゃんに一度言っておきたいと思っていたことを言っただけだ……。さて、せっかく言ってくれたんだから、出かけましょうか。それと、誕生日には何が欲しい? これが最後になるから」
 小百合は一週間後の誕生日で二十歳になる。両親が誕生祝いをしてくれたのは十歳までだったが、祖母はその後も祝ってくれていた。
 お婆ちゃんも今年で終わりか、と思いながら小百合は、
「考えておく」
 と答えた。
 小百合と祖母はバスを使って、お寺さんが管理する寺院墓地に来た。そこで小百合は、思いがけないものを見た。
 あれ、紺野じゃない。なんであいつがここにいるのよ!
 小百合は心の中で驚きの声を上げた。
 冷たい霧のような雨が音もなく降る中、小百合は直人に会った。
 雨の日は、心引かれるものと出会える――――。





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