ぬくもりの記憶 2


 夜の十一時も近い頃、小百合の部屋を訪れた青年・紺野直人。彼は彼女の住むこのマンションから徒歩七、八分離れたところで、祖父母と一緒に一戸建てで暮らしている。彼の祖父が、このマンションのオーナーだった。
 紺野家は、かつては大地主としてその名を馳せていた。しかし、現在では代々所有して来た土地はもうあまり残っていない。祖父がその残った土地に、家族向けの賃貸マンションを二棟と、このマンションを順次建てた。このマンションが建てられたのは、直人が大学を卒業する間際で、自宅もその頃に建て替えられていた。自宅の敷地面積は百二十坪ほどあるが、これでも紺野の家が隆盛を極めていた頃と比べたら半分以下の広さしかなかった。
 小百合は母からこっそり教えてもらった。
『お父さん、直人さんのところだから許したのよ』
 直人の全面的な協力があったから、小百合の独立の希望が実現したとも言える。
『いずれ直人さんに持って行かれるんだろうから、遅いか早いかの違いだけで、引き止めても無駄だろうってね』
 両親は二人のことを見守ってくれている。
『それに小百合には直人さんの一言が、何よりも効果があるって』
 これを言われると小百合は耳が痛い。
 小百合は直人を頼りにして、彼の存在に慰められていた。一人暮らしは自分から言い出したことではあるが、やはり一人では寂しい時も心細い時もある。そんな時、いつも心に浮かぶのが、直人であった。

 小百合は、直人の顔色が悪いと感じた。彼が玄関内に入って来た時、こんな風に顔色が冴えなく見えたことは今までなかったから、照明のせいではないだろう。
「顔に血の気がないわよ……頬もこけているし……」
 小百合は直人の全身に目を走らせた。彼は色褪せたドライフラワーのようで、触れるとぼろぼろ崩れてしまいそうな感じがした。身体が縮んでしまったようにも見えた。小百合は顔を曇らせた。
「気が抜けたらどっと疲れてしまって、もう見栄もへちまもなくなっているからだろう」
 直人は困ったように目を細めて言った。
 小百合がこのマンションで暮らし始めて半月ほど経った頃から、直人は仕事の方が忙しくなった。書類やデータの持ち出しは一切禁止となっているので、休日も当たり前のように出勤していた。彼は会社の帰りに小百合の部屋に立ち寄っていたのだが、仕事が進むにつれてどうしても彼の訪れる回数は少なく、時間も遅くなりがちだった。
 そういう日が続いていたので、彼が十一時前に姿を見せたのは、近頃では早い方だった。
「ここのところ、小百合にも随分心配をかけさせたが、俺がやらなければならないことは、今日で終わった。これで明日からはそんなに帰りは遅くならない。それと纏まった休みが取れそうなんで、旅に出ようかと考えている」
「そうなの。よかった――。ほんと大変だったわよね。ご苦労様でした――。ねえ、上がって行く?」
 小百合はほっとしながら言った。
「とにかく寝たいから今日はもう帰る。明日はそれこそもっと早い時間に来るよ」
 直人の言葉に、小百合は残念そうに眉を顰めた。
「明日の夜は、実家に行くことになっているのよ。お母さんからさっき電話があって、姉さんのことで兄さんたちが来るから私にも来るようにって。でも、どうしようかしら……」
 小百合は迷った。
「それは行くべきだ」
「そう……。直人がそう言うんだったらそうするわ」
「明後日はどうだ」
「それなら大丈夫」
「それじゃ、明後日の夜にな」
 直人は小百合の頭に手をかけて引き寄せると唇を重ねた。それから小百合の耳元で、
「お休み」
 と、内緒話をするように小さな声で囁いた。
「お休みなさい」
 彼女も囁くように言いながら彼に微笑みかけた。
「ふわあ」
 直人は、綺麗な顔が崩れるほど大口を開けて欠伸をして玄関から出て行き、それを見送った小百合もまた大きな欠伸が出て、目尻に涙が浮いた。

 翌日、定時で会社を退けた小百合は、実家に向かった。会社から実家まで電車と徒歩で一時間ほどかかる。
 まだ明るさを残す空の下を実家へ向って歩いていた小百合は、前方に見えて来た鮮やかな青紫色に目が吸い寄せられた。それは道に沿ったフェンスに絡まってたくさん咲いている大輪のクレマチスの花で、この花の開花を彼女は毎年楽しみにしていた。
「今年も咲いたのね――」
 小百合は花の前で足を止めて呟くと、少しの間見入っていた。
 実家に着いた。小百合は頭上に目をやった。祖父が植えた柿の木が、若草色の葉を茂らせていた。下に目を移せば、祖母が好きだった紫陽花は、小さな蕾をつけていた。
 「こんばんはー」
 小百合は玄関の戸を開けて声をかけた。
「小百合、お帰りなさーい。元気だった」
 姉の紅葉が食堂から出て来た。
「お帰り。待っていたわよ」
 続いて母も出て来た。
「姉さん、今日は休みだったの?」
 小百合は、姉がこの時間にいるなんて珍しいと思いながら玄関の上がり口に足を乗せた。
「やることだけやって、急いで帰って来たの。なかなか休めない仕事よ」
「皆、食堂にいるの?」
 食堂から複数の人の声がしている。小百合は、今日はまた随分賑やかだと思いながらそちらの方に目を向けた。
「お父さんたちが飲んでいるのよ」
 紅葉が言った。
「佐々木さんもいるの?」
「さっき顔を見せに来てくれたんだけれど、これから家庭訪問なんですって。あの人が帰ってから、男三人で飲み始めたのよ」
「あんたたち、いつまでも玄関で突っ立って話していないの。――小百合、話があるからこっちにいらっしゃい」
 姉妹の会話に割って入って来た母は、今は客間になっているかつての祖母の部屋に入って行った。それに小百合、紅葉と続いた。
「あっちは放っておいていいの?」
 小百合は食堂の方を指差して母にそう訊きながら畳の上に腰を下ろした。
「お父さん、男にしかわからない話だって威張って言っているから、兄さんたちに相手をさせておけばいいわ。一輝と滋郎が二人揃って来るなんて滅多にないでしょう。こんな機会でもないとなかなかできないことだから、少し三人でやらせておきましょう」
「兄さんたちは、姉さんの結婚について、なんて言っているの?」
「やっと決まったな、おめでとうだって。二人とも絶対小百合が先だと思っていたって」
 紅葉がにんまりした。
「私も小百合の方が早いかもと思った時があったわよ。それでね、兄さんたちにはもう話したんだけれど――」
 母の話を一通り聞き終えた小百合は言った。
「兄さんたちがそれでいいって言うんなら、それでいいんじゃない。私は特に言うことはないわ」
「あんたならそう言うと思ったけれど、こういうことはちゃんと話してきちんとしておくべきだからね。それじゃあ、これで話しは済んだから――、小百合は今夜、どうするの? 兄さんたちは泊まる考えでいるけれど」
 小百合は直人のことが頭に浮かんで来た。しかし、今日は直人には会えないと思って、泊まることにした。
「お夕飯は、まだよね?」
 母が訊いて来た。
「まだよ。仕事が終わってから、真っ直ぐ来たんですもの」
「私と紅葉も、小百合が来てからにしようって、まだなのよ。食堂はあの三人で喧しいから、ここに運んで来ましょうか」
「向こうに行くわ。兄さんたちと会うのは久しぶりだし、お父さんとも二箇月ぶりだから、相手をしてやらないとね」
 そう言って立ち上がりかけた小百合は、服を引っ張られた。母は先に部屋から出て行った。服を引っ張ったのは姉だった。
「何?」
 小百合は姉に向って訊いた。
「あとは小百合だけね。直人さんからそういう話は出ないの」
「うーん、特には……」
 小百合は座り直した。
「直人さんは、いつも家の電話にかけて来ていたでしょう。それでお父さんたち、親しみを感じて、それが信頼に繋がったみたい。私、直人さんからそういう話しがあって、それで小百合は家を出たんだって、そんな風に思っていたんだけれど」
 小百合は姉たちへの遠慮も多少あったのだが、それを言う必要はないと思っていた。
 ところが、姉は、
「私たちに遠慮するような神経が、あんたにあるとは思えないしね」
 と言った。
 絶対にあり得ないと決め込んだような姉の態度に小百合はかちんと来た。と、ふと誰かに見られているような気がして首を動かした。
「ねえ、お婆ちゃんが笑っている――」
 小百合は、長押にかけられている祖母の写真を見上げた。
「いつだって笑っているじゃない。あの写真は、小百合が高校に入学した日に撮ったのよね」
「卒業式から帰って、それから一緒に撮ったのよ。あの横には私がいるのよ」
「そうだったけ――。小百合、皆のところへ行こうよ」
 紅葉は部屋から出て行ったが、小百合は写真に近づくとじっと目を当てた。
「絶対にいつもより笑っているわよ。皆が揃ったから、お婆ちゃんも嬉しいのよね」
 小百合は微笑みながら呟いた。
 と、「小百合」と父の声がして、足音が近づいて来た。
 そのあくる日、小百合は、母が作ってくれたお弁当を持って父と一緒に出勤した。兄たちは二日酔い。父もちょっと辛そうだった。
「お父さん、飲み過ぎよ。歳を考えてよ」
「歳とはなんだ。お父さんは、まだ五十代だ」
「だって次の誕生日で……、五十代の終わりも秒読みの段階じゃない」
「小百合は、父さんの歳も誕生日も覚えてくれているんだな。嬉しいよ……」
 父は感心したように言った。
「こんな当たり前のことが嬉しいの」
「そうか……当たり前のことなのか……」
 父は含みのある呟きを漏らすと口元に笑みを浮かべた。そして、
「なあ、小百合……たまには顔を見せに来てくれ……」
 と、ひっそり言った。
「気が向いたらね」
 小百合はとりあえずそう言っておいた。

 その日も小百合は、定時で退社するつもりだったが、仕事の区切りが悪くて残業になってしまった。大急ぎで家に戻って夕飯を二人分作った。作り終えてようやく落ち着いた時、呼び鈴が鳴った。八時少し前だった。
「はい」
「俺だ」
 インターフォン越しに直人であることを確認してから、小百合はドアを開けた。直人は、先日とはまるで様子の違う彼本来の活力に溢れた姿を見せていた。
「明後日から出かける。帰るのは三十日だ」
 直人は嬉しそうに顔を輝かせてそう言いながら、部屋に上がった。
「旅行のこと? 今日は金曜だから、日曜から出かけるのね。三十日って、直人の誕生日じゃない」
「そうだ」
 直人は居室の床に胡坐を組んで座った。
「いつか行こうと思って計画だけは立ててあったから、この機会に行って来る。休みの間の引き継ぎはして来たし、仕事のことは考えないようにする」
 小百合は壁にかけてあるカレンダーを見た。明後日は十七日。つまり直人は十七日から三十日まで二週間旅行することになる。
「よくもまあ、そんなに休みが取れたわね。どうやって脅したの」
 小百合は直人のそばに腰を下ろした。
「人聞きの悪いことを言うなよ。休日返上だったし、よくやったと社長からのご褒美だ」
「そうでした。頑張ったんだから、それくらいしてもらわないとね――。直人は、あっという間に会社の主力選手ですもの、凄いわ。私なんて、未だに下っ端その壱よ」
「俺を小百合と一緒にするな。実力が違うんだよ」
 直人はそう言って鼻を高くした。この前は気の毒なくらい萎んでいた彼だが、今日ははちきれんばかりに膨らんでいる。
 すっかり天狗になって、この威張りたがり屋、と小百合は小憎らしく思った。
「明日、二人で出かけようか」
 直人はそう言って優しげに目を細めた。
「でも、旅行の支度は」
「そんなものささっと済ますよ。――小百合、俺、腹ぺこなんだ」
「夕飯、直人の分も作ったんだけれど……」
「そいつはありがたい」
「でも、お婆さんも食事の支度をして待っているんじゃないかなって……」
「婆さんたちなら別荘に行った。それで、実は小百合に期待していたんだ」
 直人はそう言うと小百合の肩に手を回して抱き寄せ、唇を重ねた。濃密な口づけに小百合から甘い声が漏れ出て来る。
 唇が離された。
「今夜は泊まる――」
 直人が扇情的な眼差しで小百合を見詰めながら呟いた。
 小百合はにわかに落ち着かなくなってそわそわしながら、
「うん――」
 と答えた。そうしたら、何故か不意に思い出して、
「そうだ――」
 と口から出ていた。
「なんだ?」
「姉さんたちのこと。あのね、佐々木さんがお婿さんになって、あの家で同居することに決まったのよ。家も建て替えるって」
「婿養子になるのか」
「神谷姓になるだけ。あの家は、姉さんのものになるってことなのかしら。正直なところ、兄さんたち、家に戻る気はなかったから、姉さんがそうしてくれる方が助かるみたいよ。だから、それでいいって。でも、何もいらないとは言っていないのよ。何がどれだけあるのか知らないけれど、どう分けるかはこれからでしょう。私は抜けるから三人でやって、とそういう風に言っておいたから、もう知ーらない」
「小百合にだって権利はあるんだぞ」
「そうなんだけれど……私は、お父さんが出してくれた独立資金で十分だと思っている。直人のお陰で使わずに済んだし、あれはお父さんの気持ちだから大事にするわ。――ご飯にしましょう」
 小百合は立ち上がったのだが、直人に手を引っ張られた。
 直人は腿の上に小百合を座らせて抱き締めた。そして彼女の首筋に唇を這わせながら、
「俺がずっと小百合のそばにいるから……それでいいんだよな……」
 と、熱っぽく囁いた。
 小百合はこくりと頷いた。直人のぬくもりが身体には勿論、心にも伝わって来て、とても温かかった。





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