ぬくもりの記憶 3


 直人が小百合の部屋に泊まった次の日は、五月晴れの爽やかな日だった。滝を見に行こうという直人の提案に、小百合は一も二もなく賛成した。
 直人の運転で、高速道路インターから渓谷方面へ向った。混んでいることを覚悟していたのだが、意外に空いていて、一時間ほどで目的地に到着した。渓谷入り口にある有料駐車場に車が止められた。
 車から降りた小百合は、鶯の鳴き声を耳にして、思わず顔を上げて辺りを見回した。鶯の鳴き声は聞こえていても、姿は容易には見つけられない。
「鶯が鳴いているわ」
「ああ、聞こえるな」
「どこにいるのかしら」
 小百合は頭上の木々の枝に目をやりながら歩いた。
 直人は売店の中に入って行った。小百合は外で鶯の鳴き声に耳を澄ませていた。眼前を燕が一羽すっと横切った。
 売店から出て来た直人は、ペットボトルのお茶を二本持っていて、一本を小百合へ差し出した。
 二人は、かなり傾斜のある細い道を滑らないように注意しながら下りた。
 さらさらという水の音が聞こえ、木々の間から川が見えた。川面はきらきらと輝いている。
 川辺に下り立った小百合は、川を覗き込んだ。川の水は澄み切っていた。
 ここは、その時期にはまだ早いが、鮎釣りができる。また紅葉の名勝でもあり、秋は紅葉が燃えるように美しいが、風薫る今は新緑が眩しいほどに輝いている。
 二人は、川に沿って設けられた二キロ余りの遊歩道を新緑を楽しみながら歩いた。
 遊歩道の途中にも小さな滝がいくつかあるが、その最奥にある滝は、落差三十メートル、幅四十メートル、延長八十メートルほどで岩肌を滑るように流れ落ちている。
 小百合は滝を間近に見ながら身体を思いきり伸ばした。
「うーん、いい気持ち。力が漲ってくる感じね」
「そうだな。――それにしても、暑いな」
 強い日差しが照りつけていた。直人は額に滲んだ汗を手の甲で拭うと、ペットボトルのお茶を喉をごくごく鳴らして飲んだ。そうしたら、
「流石だね」
 という小百合の声が聞こえた。小百合はと見れば、彼女はそばにあった岩の上に腰かけたところだった。それから、これよと言うようにペットボトルを顔の高さまで持ち上げてにっこりした。
 直人は小百合の隣に腰を下ろすと、彼女が白い喉をこくこくと鳴らしてお茶を飲むのを見ていた。
「こんなに喉が渇くとは思わなかった。水はたくさんあるけれど、飲むのはちょっと……」
 ペットボトルから口を離した小百合は、川の方へ視線を向けた。川の中には何人もの人が入って水遊びに興じている上に、犬まで入っていた。禁止や警告等の看板はどこにも見当たらないからいいのだろう。
「私は水分補給なんて考えていなかった。流石は直人だね」
「別に流石でもなんでもないよ。小百合が抜けているだけだろう」
「うん、その通り――。私って抜け抜けで、そうね……太くて頑丈だけれど中は空っぽですかすかの土管のような神経をしているのよね」
 小百合はいやに真剣な顔で言われていないことまで言った。
「よくわかっているじゃないか」
 直人は鼻先で笑った。
「わかるようになったの……」
 小百合はしみじみとした感じで言って顔を伏せると、
「私も行きたかったな……」
 と気落ちしたようにこぼした。
「旅行のことか? 次は二人で行こう」
 直人が言った。
「うん――。また二人で行こうね」
 小百合はやや元気を取り戻したような声で言って直人に微笑みかけた。
「ああ――。また二人で行こうな」
 直人は言って晴れやかな笑顔を見せた。
 太陽が西に傾いた頃、二人は紺野の家に戻った。
「今夜は、俺のところに泊まるか」
 直人が旅行の支度をしながら言った。
「それでもいいんだけれど、着替えたいから一度戻るわ」
 靴を脱いで川の中に入ったり、川原に腰を下ろしたりして服が汚れていた。だいぶ汗もかいた。小百合はシャワーを浴びてから着替えたかった。
「それだったら、今夜も小百合のところにするか」
 明日は小百合のところから出発することにした直人は、服を着替えた。
「それ、洗っておきましょうか」
「そうしてくれるか……だったら、まだあるんだ」
 直人は、脱いだ衣類と溜めていた洗濯物を不透明なレジ袋にぎゅうぎゅう詰め込んで、それを小百合に渡した。
 二人が家の外に出てからいくらも進まないうちに、家の中から電話の呼び出し音が聞こえて来た。
 直人は上着のポケットから取り出した鍵で玄関の錠を外すと、戸を開けたままで下駄箱の上に置かれてある子機を手にした。
「はい。――おお、久し振り。――ああ、俺は元気だし、爺さんたちもぴんぴんしている。今、別荘に行っている。今月いっぱいは向こうにいるって言っていた。――来たのか。俺も、昼間出かけていた。――いや、仕事じゃないんだが、ついさっき戻って来て、これからまた出かける。――いや、爺さんたちのところじゃない。仕事が一段落したから、俺は俺で旅行に行くんだ。――二週間だ。――そうか、羨ましいか。――ああ、帰って来たら顔を出すよ。それじゃあ、旦那さんに宜しく」
 直人はご機嫌な様子だった。
 小百合は玄関先で待っていた。
「お袋だ。昼間来たんだが、誰もいなかったから何かあったんじゃないかと心配になったらしい」
 直人は玄関を出ながら言った。
「普通に母子している――」
 戸に錠をかけながら少し小さめの声で言った。
「俺のこと、兄さんって呼んでくれて、会うと喜んでくれるんだ。兄らしいこと、なんにもしていないのに――」
 そう言って照れたような笑顔を小百合に見せた。
「そう――。よかった」
 小百合は安心したような微笑を浮かべると先に立って歩いて行った。手に提げたレジ袋を大きく揺らしながら歩く彼女の背後姿は、楽しそうに見えた。
 直人は鍵を上着のポケットへ入れたのだが、ふと思い直してリュック内側のポケットへ移し、財布と免許証もジーパンのポケットからリュック内側のポケットへ移した。
 翌日。
「三十日に帰る。土産を楽しみにしていろ」
 直人はそう言い残してリュック一つを担いで北の方へと旅立って行った。

 直人が出かけてから一週間が過ぎた日曜日の夕方。その間、直人から小百合へ連絡は一度もなかった。
 その日、小百合は自分の部屋でテーブルの上にパソコンを置いて弄っていた。やっとインターネットのできる環境が整ったのだ。
 実家では家族でパソコンを共用していた。一人暮らしを始めてから、なんとかパソコンを安く手に入れようとして、会社に出入りしている業者の高校の同級生でもあった営業マンに話してみた。

「どんなのが欲しいんだ。――それで予算は?」
「五万!」
 小百合は五指を開いた掌を営業マンに向けて強気で言い切った。
 営業マンはちょっと考えていたが、時間がかかってもいいのなら探してみるということになった。
 希望に沿った、しかも新品を持って来たのは、それから二箇月後だった。同じクラスのものを量販店で購入したら予算の三倍はかかる。
「約束だから五万プラス消費税でいいけれど……神谷さん、変わっていないね。敵わないや」
 営業マンは苦い笑いを顔に浮かべた。

 小百合はそれを思い出して、なんでも言ってみるものねと思った。その時、携帯電話の着信音がした。ディスプレイに向かっていた小百合はびくっとした。
「誰かしら……直人のはずはないし……会いたいな……」
 小百合は直人のことを想って独り言を言いながら、バッグの中から携帯電話を取り出した。
 電話をかけて来たのは、直人の友人であり同僚でもある矢麦健介(やむぎけんすけ)であった。
 大学卒業後、直人とは別の会社に勤めていた健介は、やがて、入社以来可愛がってくれた上司が早期退職して立ち上げた新会社へ移った。健介からその話を聞いた直人も、参加を申し出てその新会社へ移った。そして、新会社設立以来一番大きな仕事を直人が取って来て、それに一箇月半かかりきりだったのだ。
 小百合は携帯電話に出た。
「はい」
<もしもし神谷さん、矢麦です。直人が今日泊まる宿の電話番号、わかりますか。家の方にかけても繋がらなかったので。彼、今日寄った図書館に免許証を落として、免許証入れの中に名刺があったとかで、図書館から会社の方へ連絡が来たんです>
「ええー、また落としたの」
 小百合は素っ頓狂な声を上げた。
<またです>
 健介の声は笑いを含んでいた。
 直人はポケットに収まるサイズのものは、やたらにポケットへ突っ込む癖がある。勿論、免許証もだが、どういうわけか他のものは落とさないのに、免許証は落とすのだ。

 それは直人と駅から高速バスに乗って出かけた時のことだった。
 バスが動き出して間もなく、直人は免許証のないことに気づいた。
「お家に置いて来たんじゃないの」
「さっき、財布を出した時にはあったような気がするんだが……」
 直人ははっきりと覚えていないようだった。
「財布と免許証をジーパンのポケットに入れて来たと思うんだが……昨日着ていたスーツの中かな……」
 ジーパンとシャツのポケットを繰り返し探っている。
「出さなかったのか……いや、出したぞ……いや、やっぱり出さなかったのかな……最後に免許証に触ったのいつだっけ……」
 一生懸命思い出そうとしているようだった。
 探すところは限られている。持っていないのは明らかだと小百合は思いながら、焦って混乱している直人を見ていた。
「くそっ、気になる。帰ろう」
 二人は途中でバスを乗り換えて引き返した。
 紺野家の門を入ったら、庭にネットを張ってゴルフの練習をしていたお爺さんから、
「おや、もう帰って来たのか。小百合さん、いらっしゃい」
 と言われた。
 家の中に入ったら、座敷で和紙人形作りをしていたお婆さんから、
「あら、早かったのね。いらっしゃい、小百合さん」
 と言われた。
 直人は昨日着ていたスーツのポケットの中を探したけれど、免許証はなかった。ポケットというポケットの中を探しても、くしゃくしゃに丸められたハンカチは出て来たが、免許証は出て来なかった。
 それから二人で部屋の中と車の中を探し、お爺さんとお婆さんも巻き込んで家中を探し回ったが、免許証は見つからなかった。
「会社かな……」
 直人は首を傾げながら、ともかく警察に電話をかけた。
 そうしたら、免許証は駅前の交番に届けられていた。高速バスの乗車場で拾われたそうだから、財布を取り出した時に落ちたのだろう。
「なんで小百合は落ちたのに気づかなかったんだ。お前がしっかりしていないから、こんなことになったんだ。全く役に立たないな」
 そんなまるでこちらが悪いような言い方をされた小百合は、それは直人のことでしょうと思いながら心の中で舌を出した。
 この一件以外にも警察から免許証が届いているとの連絡が二、三回あったのだが、直人は連絡を受けて初めて手元に免許証のないことに気づいた。このことを直人は小百合に黙っていたが、紺野のお婆さんが教えてくれた。そして小百合が健介に面白おかしく話した。

 小百合はそんなことを頭の中によぎらせながら、
「わかるわよ」
 と答えながら固定電話の方へ向った。
<こんな時、携帯を持っていれば直ぐに連絡ができるんですが。彼、携帯を持たない主義だから。社長も彼に携帯を持たせるのを諦めたみたいだし>
 健介はどうしようもないという感じで言った。

 直人は携帯電話を徹底的に嫌っていた。
「電話を持ち歩くなんて、猫の首に鈴をつけるようなものだ。俺はここにいます、とわざわざ知らせるようなものじゃないか。こっちの事情にはお構いなしに追い回して来るやら、どこまでもしつこくつきまとって来るやらで好かん。俺はそんなものに縛られるのは御免だ」
 これが直人の口癖だった。
 気まぐれな直人は正に猫科の生き物、誇り高き野良にゃーだった。
 不必要だとの意識が強いのか、小百合の携帯電話にかけてきたためしがない。偏屈と言うか、頑固と言うか、へそ曲がりと言うか。
 ついでに言うと、直人はマニュアル車を愛用している。
「マニュアル車は、俺が車を動かしていると思える。車との一体感を感じるし、車の声が聞こえるんだ。オートマ車は、俺が車に操られているようで好かん。無機質で何も言ってくれない。冷たいんだ」
 直人は、人との生きた繋がりを大事にして人の深いところにある感情を肌で感じようとする、言うなればアナログ思考の持ち主。相手が見えなくて怖いから、とメールでの問い合わせを苦手としている。発言には常に慎重な直人だった。ただし、気が置けない矢麦健介と、恋人の小百合には言いたい放題だった。

 小百合は、またそんなことを頭の片隅に置きながら固定電話脇にある直人から渡されたメモを手にすると、今日宿泊を予定している宿の名前と電話番号を健介に伝えながらベッドの上に腰を下ろした。
<わかりました。僕が宿に連絡します>
「お願いします。野良猫直人に宜しくね」
<直人は野良猫ですか>
「そう。誇り高き野良にゃーよ」
<ははは、ぴったりですねえー。じゃあ、これで>
 電話が切れた。人の声が絶えた。
 携帯電話を閉じた小百合は、何故か異質な空間に迷い込んだような錯覚を覚えた。先程までとは何かが違った。雨の音がやたらと耳につく。
 日中はどんよりと曇っていて、夕方から雨が降り出し、今はかなり強く降っている。
 小百合は、雨音に呼ばれているような気がしてベッドから立ち上がると窓辺に寄ってレースのカーテンを除けて外を見た。昼間でも灰色で薄暗かった街は、夕闇に沈み始めている。薄い闇に浮かぶ街の灯りが雨でぼんやりとかすんで見える。それを灯りが泣いているようだと小百合は思い、そうしたら降りしきる雨の音がまるでこの世界の明けぬ悲しみを嘆く曲のように聴こえてしまって、寂しさが込み上げて来た。
 小百合はふと思った。
 よく考えもしないで、やりたいことや思ったことをずばずば口にしていた思慮の浅い愚かな私だった。多分、直人と話すようにならなければ、自分自身を見詰め直すことなどしなかっただろう。
 私は自他共に認める図太い神経をしているけれど、一見強気で自信の塊のように見える直人は、本当は濃やかで繊細な人。出会った頃の彼は人付き合いを好まず、人をそばに寄せつけない雰囲気を放っていた。けれども、それは、誰かを傷づけることを恐れて、自分を殻の中に閉じ込めているからだった。
 あの人のいるところにも、この雨は降っているのだろうか――。
 一人きりの雨の夕方、小百合は直人のことを想った。





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