ぬくもりの記憶 1


 神谷(かみや)家には、男の子と女の子がそれぞれ二人ずついる。
 一番上は男で一輝(かずてる)、二番目も男で滋郎(じろう)、三番目が女で紅葉(もみじ)、そして末っ子が小百合(さゆり)。一輝、滋郎、紅葉は年子だが、小百合と直ぐ上の紅葉は六歳離れている。
 一輝と滋郎はどちらも既に結婚して家を離れていた。そして、今年三十路を迎える、中学校の教師をしている紅葉も結婚に向けて動き出した。
 さて、この紅葉だが、結婚しても神谷姓を変えたくないと言い出し、お相手の佐々木氏は、神谷姓になって、神谷の両親と一緒に暮らしてもいいと言っている。佐々木氏は女一人と男五人の六人兄弟の末っ子で、彼も中学校の教師であった。
 佐々木氏のご両親は息子の考えに異を唱えなかった。また、神谷の両親にしてみても、娘夫婦がそばにいてくれる方が、戻る気があるのかないのかはっきりしない息子たちを当てにするよりもいいだろうと考えて、家を建て替える話もちらほらと出るようになった。
 現在の家は、亡き祖父が建てた平屋に二階を増築していた。
 神谷家はごく普通のサラリーマン家庭である。財産といえるものは住んでいる家くらいだが、敷地の広さは八十坪ほどあり、これだけでも結構な価値があった。
 それは、佐々木氏を交えたある日の夕食時の出来事だった。
 佐々木氏はすっかり神谷家に溶け込んでいた。
「佐々木の親も、ご挨拶に伺わなければと言っているので、なるべく早く両家が会う席を設けるつもりです。時間の融通が利く身とはいえ、年も年ですし、ここまで来るのがひと苦労なところにいますので、礼を欠いて申し訳ないと言っています」
 そう言った佐々木氏は、離島の出身だった。
「ご都合はどうでしょうか。神谷のお義父さんは勤めておいでですし、紅葉さんと自分もそうですから、土曜か日曜と考えているのです。――小百合さんもその方がいいですよね」
 佐々木氏は、一番端の席に座っている小百合に顔を向けると、その時は是非来て下さいというような笑みを浮かべた。
 小百合は、自分には関係のないことだと内心では思いながら、一応笑顔でその場の雰囲気を壊さないような返事を返したが、それ以上は話の輪には加わらなかった。
 佐々木さんは誰とでもそれなりに上手くやって行ける、巧みに世の中を渡って行く人だわ。多分、姉さんが、お母さんたちと一緒に暮らしたい、神谷姓になってくれないかとか佐々木さんに言ったんでしょう。姉さんにとってはその方が、何かと都合がいいものね。
 そう思っていた小百合は、佐々木氏のことが別に嫌いなわけではなかった。しかしながら、好きか嫌いかに関係なく、彼女は今後の自分の身の振り方を真剣に考えるようになっていた。
 兄さんたちにもそれぞれ考えがあるだろうし、今の段階ではどの方向に話が進むかまだわからないけれども、どのみち私は、いつかはこの家を出る身だし……。
 少しずつ生活の流れが変わって行くのを実感している小百合は、周囲によって作られた流れにただ流されて行くのではなく、自分の力で流れを作って漕ぎ出したいという気持ちが湧いて来た。
 小百合はその日、家を出て独立することを密かに決意した。

 二階の自室で、小百合は思案顔をして椅子に座って机に向っていた。机の上には通帳と電卓、数字をたくさん書いた紙が置かれてある。一人暮らしをしている会社の仲間に、どのくらいの費用がかかるのか訊いてみたのだが、なかなか厳しい結果が出た。中でも、一番の悩みどころが家賃だった。
 一階の廊下にある電話の呼び出し音が微かに聞こえて来た。
 小百合は、はっというような表情になった。きっとそうだろうと思って椅子から立ち上がるとドアを開けた。しかし、その時には既に電話は受けられていた。
「はい、神谷です――」
 そう言ったのは父の声だった。
「おお、こんばんは。元気かね。――そうか、それは何よりだ。私は、腹が出て来て。今のところメタボには引っかからないんだが。これでも若い時には君に負けないくらいのスタイルだったんだ。今度来たら写真を見せてやろう」
 小百合は、父の話し振りからまず間違いないと思いながら階段を下りきった。
「小百合が来た。今、代わるよ。――お前にだ」
 父は小百合に受話器を差し出した。小百合は受話器を受け取ると耳に当てた。彼女は女性らしいしぐさや表情を見せていたのだが、そんな娘を見る父は寂しそうな複雑な表情を見せていた。
「もしもし……、ちょっと待って」
 小百合は受話器を耳から離して通話口を手で塞ぐと父を見やり、
「お父さん、お風呂へ行くんじゃないの」
 と、尖り声で言った。
 着替えを持って突っ立っていた父は、娘のご機嫌があまり宜しくないとわかったのだろう、逃げるようにその場から立ち去って行った。
「お待たせ、何? ――明日の夜……いいわよ。実は、貴方に相談したいことがあったから、丁度良かった。――それは明日、会った時に話すわ。ねえ、携帯の方にかけてくれれば嬉しいんだけれど。今だってお父さんが背後霊してて追い払ったのよ。今時珍しいって、皆が言っているのよ。――それは……確かに用は足りているし、こそこそ隠すようなことでもないけれど」
 最後の方は不満そうな口調だった。
「君里駅に七時ね。――お休みなさい」
 小百合は受話器を置くと、特に父にはまだ知られたくないという気持ちから周囲を見回した。そして、大丈夫そうだとわかると、気持ちを明日に飛ばしながら自室へ戻って行った。
 翌日のアフターファイブ。
 小百合は、レストランのテーブルを挟んで座っている青年に、独立しようと考えていることを打ち明けた。
「小百合がそう考えているのなら、マンションの部屋に空きがある」
 青年が言った。
「それってもしかして、お家の近くのあのマンション?」
 小百合のくりくりした可愛い目が輝いた。
「そうだ」
「そこにするわ!」
 小百合は勇み立って言いながら、青年に向って身を乗り出した。
「ただし、神谷のご両親ときちんと話し合って、許可が下りてからの話だ。念のために言っておくが、勝手に飛び出すなんてことは絶対に駄目だ」
「そんなことはしないわよ」
 小百合は即座に言ったが、青年は不信感に満ちた眼差しをこちらに向けている。
「そんな目で見ないでよ……。それは、ちょっと前ならやったかもしれないけれど……」
 小百合は青年の目力に圧倒されていた。
「こんなことで、神谷の親父さんとの間にしこりが残るなんて、俺は嫌だからな」
「わかりました。ちゃんと許可をもらいます。それと、ねえ、その時は安くしてくれるわよね? 引越しをしたら私の貯金、なくなっちゃうと思うし、私のお給料ではかなり厳しいのよ」
 小百合の声が、だんだん鼻にかかったものになって行った。
 青年は少し間を置いてから、
「考えておいてやる……」
 と仕方なさそうに言った。
 一人暮らしをしたいと小百合から願い出られて、両親は顔を見合わせた。
「暫く考えさえてくれ……」
 父は歯切れの悪い返事を返すと、顔を伏せて沈黙してしまった。
 それから三日後の夜、小百合は父から厚みのある紙封筒を渡された。
「なんなの?」
「開けてみなさい」
 父に言われて小百合は封筒の中を覗いた。中にはかなりの額のお金が入っていた。
「一人暮らしを経験してみるのはいいことだ。小百合は以前と違って軽はずみなことをせず、自分の言動に責任を持つようになった。お前なら大丈夫だろう。例え反対しても、大人しく言うことを聞くようなお前ではないしな。色々金がかかるから、それを何かの足しにしなさい」
 父は小百合を認め、理解してくれた上に、独立資金まで援助してくれたのだ。どこか淋しそうではあったけれども。
 さて、そうと決まれば行動の早い小百合である。早速、引越しの準備を始めた。
 母は娘のために、
「気に入ったものがあれば、持って行きなさい」
 と、物入れや戸棚の奥に眠っていた細々した生活用品を出して来た。
 引越し当日、小百合は仏壇に向って手を合わせ、
「たまには帰って来るからね」
 と、亡き祖父母に挨拶を済ませると、新しい生活への期待を胸に抱いて生まれ育った家を離れた。

 小百合が一人暮らしを始めてから二箇月ほど経ったその日。
 一日の勤めを終えた小百合が最寄り駅から自宅マンションに向かって歩いている時、携帯電話が鳴った。神谷の家からだった。
「はい」
<小百合、お母さんよ。どう、元気でやっているの?>
「うん」
<あんた、時々来るからとか言っていたくせに、一度も顔を出しに来ないじゃない。休日が続いたから、その間に来るのかと思っていたのよ>
「私も色々あるのよ」
 そう言った小百合だが、休みの間は、部屋でひたすらごろごろだらだら、その辺をちょっとだけぶらぶらしていた。
<お父さん、ああは言ったけれど、本当は心配で心配で仕方がないのよ。お酒が回って来ると、小百合小百合とぶつぶつ言って涙を浮かべているの。そんなに気になるんだったら電話でもすればと言うと、途端に不機嫌になって、おかしいのよ>
 母の声には笑いが含まれていた。
 小百合は、新しい生活に慣れるのに精一杯で、最初のうちは余裕がなかった。慣れたら慣れたで、顔を見せに行こうかと思わないわけでもなかったが、いつでも行けると思うと、ついついあとであとでとなってしまう。
<元気ならそれでいいけれどね。あのね、明日、一輝と滋郎が家に来るのよ。ほら、紅葉のこととか家のこととか、皆が揃ったところで、一度きちんと話しておきたいから。一輝たちにそう言ったら、どうやら二人で話したらしくて、その先になると仕事がどうとか、ごちゃごちゃ言っているのよ。それで、あんたも明日、いらっしゃい。何か予定はあるのかい?>
「予定はないけれど、仕事が終わってからだから、夜になるわよ」
 小百合は、自分は何か意見できる立場ではないと思って、家や姉のことは事後承諾でいいと言っておいたのだ。それで、あまり気が進まなかった。
<兄さんたちは昼間来ることになっているけれど、あんたは夜でもいいわよ。じゃあ、明日。お休み>
「お休みなさい」
 小百合は電話を終えるとため息を吐いた。結婚は当人同士だけの問題では済まないのだとつくづく思った。
 一輝は大学進学と共に家を出て、滋郎は高専の寮に入っていた。そして二人は、卒業しても家に戻らずに就職して結婚した。
 一輝の奥さんは二人姉妹の長女で、かなりもめた。土地の習慣だと形式にこだわり、派手な結婚式だった。
 滋郎の奥さんは一人娘だったので、またかと身構えたのだが、こちらはすんなり決まった。実にさばさばしたものだった。ところが滋郎は、どうも奥さんの家の方に引っ張られている様子。それも大事にされているようで、神谷の家よりも居心地がいいらしい。
 そして紅葉である。小百合は両家の顔合わせには遠慮した。
 多くの人の思惑と利害が絡み合って、なんとも複雑になる。面倒なものだと思うが、小百合は、結婚しません宣言などする気はない。好きな人と一緒に暮らして、その人の子供を産んで二人で育てたいと思っている。
 小百合の住まいは駅から徒歩で十分ほどのところにある単身女性向けの賃貸マンションで、三階建ての全室南向き、部屋数は十二室。小百合の部屋は二階の一番東側、八畳のフローリングの1K。神谷の家とマンションは二十キロほど離れているが、通勤時間はどちらからでもほぼ同じだった。
 着替えてから夕飯を作り、それを居室の低いテーブルの上に並べると床に座ってテレビを観ながら一人でのんびり食べた。節約のためになるべく自炊して、お弁当も作っていた。
 夕飯の後片付けをしてから食事をしたテーブルで小説を読んでいたら、コーヒーを飲みたくなった。
 夜はカフェインレスのインスタントコーヒーにしていた。インスタントコーヒーを少量のお湯で練ってからお湯を注ぐ。こうすると、ただお湯を注ぐだけよりも美味しい気がした。砂糖を入れないで、牛乳だけを入れた。
 コーヒーの香りを嗅いだら何かつまむものが欲しくなり、職場の同僚からもらったクッキーを思い出して、コーヒーを持って居室に戻るとバッグの中からクッキーを取り出した。それは手作りの人参クッキーだった。
 小百合はクッキーを口に入れた。なかなか美味しい。どうやったらこんなに美味しくできるのか今度聞いてみようと思い、小説からお菓子作りの本に替えた。彼女は、お菓子作りが苦手だった。レシピ通りにやっても、どうしても上手く行かない。
 ふっと亡き祖母の顔が瞼に浮かんだ。
「お婆ちゃんの作ったおはぎ……お婆ちゃんの手作りのあんこ……美味しかったな……」
 小百合は呟くと、床に仰向けに寝転がった。祖母と一緒におはぎを作った時のことがしきりに思い出されて来る。祖母から教わった通りに作っても、味が浅いとでも言ったらいいのか、お婆ちゃんの味には程遠かった。
「今夜はどうなのかな……」
 小百合は天井に目を当てながら呟くと、何時だろうと思って壁にかけてある時計に目を移した。時刻は十時四十分を少し過ぎた頃。
 と、その時、呼び鈴が鳴った。
 その音で小百合は床から跳ね起きると、壁にあるインターフォンの受話器を取った。
「はい」
「俺だ」
 そのやり取りだけで受話器を戻した小百合は、キッチンを通り抜けて玄関に着くと、玄関のドアを開けた。
 長身の青年が入って来た。彫りの深い目、すっと筋の通った鼻、細面の綺麗な顔立ちの青年だが、神経質な感じもする。
「十一時前なのに、今日は早いのね」
「この時間で早いと言われてもな……」
 青年は大きなため息を吐きながら肩を落とした。
 青年の名前は、紺野直人(こんのなおと)。
 小百合は、直人が訪ねて来るのを楽しみにしていた。





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