ぬくもりの記憶 13(回想編)


 長楽寺墓苑の入り口に六地蔵があった。その前で小百合は足を止めた。六地蔵はそれぞれに赤いよだれかけをかけていた。
 祖母を連れて墓参りに来た時、祖母は六地蔵を拝んでいた。小百合は六地蔵にちらっと目をやっただけで、祖母が動き出すのをぼうっと突っ立って待っていた。葬儀当日に祖母の納骨をしに来た時には、目もくれなかった。ところが、今日は六地蔵が妙に気になった。小百合は六地蔵のお姿一体一体にじっくりと目を当てた。
 地蔵とは、いつでも、どこでも、誰のどんな願いでも聞き届けて下さる、あらゆるものを育てる大地の恵みを仏格化した菩薩。
 小百合は、たまたま知っていたそんなことを思い出していた。と、「小百合ちゃん」という祖母の声が聞こえたような気がして、小百合はゆっくりと首を動かした。薄紫色の紫苑と黄色の女郎花の花に目が留まった。女郎花には黒アゲハが一羽止まっていた。まるで喪章だ、と小百合は黒アゲハを見て思った。
 黒アゲハが女郎花からふわりと離れ、石仏のように静かに立ち尽くしている直人の周りをひらひらと舞ってから、すうっと飛んで行った。
 直人が無言で歩き出した。一拍遅れて小百合も歩き出した。
 小百合は彼のあとをついて行きながら、自分の想いは彼に伝わるのだろうかと考えた。心にあるものを言葉にして発することの難しさと一言の重みをひしひしと感じていた。ここで口を開いたら言葉よりも先に心臓の方が飛び出してしまいそうな気がして口元を引き締めた。
 神谷家のお墓には花が供えられてあった。花には黒アゲハが止まっていた。
 小百合は、さっきのアゲハだろうかと考えながら、直人と並んで墓前に立った。すると黒アゲハは軽やかに舞い上がり、二人の頭上を何遍か旋回してから飛び去って行った。
 小百合は花入れに入った新しい花々を見て、どうしようかと考えた。彼女は、直人が買ってくれた花束を持っていた。
「うちの婆さんが来たんだろう」
 直人の言葉に、小百合はそうなの? と思いながら彼の方に首を動かした。
「うちのところにも、同じものがある」
 直人は紺野家の墓地の方を見ていた。小百合もそちらの方を見た。確かに同じような花々が花入れに入っていた。
 小百合は持っている花束に視線を落とした。そして、
「これはうちに持って帰って、小祭壇にあげようかしら……。それでもいい?」
 と言って、直人に視線を向けた。
「あんたの好きにすればいい」
 そう言った直人は、墓誌を見ていた。それから、
「俺たちの生まれた年に亡くなったこの百合之介という人が、お爺さんなのか?」
 と言って、小百合に振り返った。
「そうよ――」
 小百合はそう言いながら墓前にしゃがむと、ここにしゃがんでいた祖母の姿を思い出しながら瞼を落として手を合わせた。
「あんたの名前はお爺さんからもらったのか――」
 直人はそんな風に呟くと膝を曲げた。
 小百合は、隣に直人がしゃがんだ気配を感じて、そちらを見やった。目を閉じた彼の横顔が直ぐそばにあった。
「ありがとう」
 小百合は小さく口にしたが、手を合わせていた直人からはなんの反応も返って来なかった。
 直人は静かに立ち上がった。少し時間を置いてから小百合も立ち上がった。彼女は通路に立っていた直人の前を無言で通り過ぎて紺野家の墓地に行くと墓前にしゃがんだ。
 直人は、小百合の雰囲気が変わったと感じていた。

 神谷小百合と墓地で会ったあの雨の日。俺が受けた電話が、母親からだった。俺は、込み上げてくる嫌悪感と苛立ちを抑えながら適当に応対すると、祖母と電話を代わった。しかし、興奮は募るばかりで、話しかけて来た祖母に向かって自分でもわけのわからないことを口走ると家を飛び出した。逃げ場を求めて雨の中をさまよって、結局父親のところに来てしまった。こうすれば頭も冷えるんじゃないか、と馬鹿な気を起こして傘を閉じた。
 神谷のお婆さんから声をかけられた時には、だいぶ気持ちも落ち着いていた。
 思い返すと、自分でも意外に思ったのだが、お婆さんと実際に会った回数はそれほど多くなかった。しかし、お婆さんとの出会いは、時間的にも短いものだったが、どれも心に残るものだった。話したことと言えば、ほとんど世間話のようなものだったが、話していると気持ちがほぐれた。お婆さんとはそういう巡り合わせだったのか、それともお婆さんの天性の何かがそういう風にさせたのか、俺はお婆さんを無視することができなかった。
 お婆さんと一緒にいたあいつを見て、そう言えばあいつも神谷だったと思ったが、それだけのものでしかなかった。
 翌日は、母親が実家に来るので逃げ出して、図書館で過ごしていた。そのうち雨が降って来た。俺は、事故現場に行かなければならないと思った。行きたくはない場所だが、行かないことが自分自身で許せない、そんな場所だった。
 そうしたら、何故かまたあいつと会ってしまった。
 相手にする気など毛頭なかったのに、あいつがいかにも知った風に、遠慮会釈なくものを言うものだから、堪え切れなくなって大きな声を上げてしまった。そのあとは、俺という人間はどうしようもない奴だ、とひたすら自己嫌悪に陥っていた。
 そんなところにあいつがひょっこりやって来たかと思ったら、大きな声で色々さえずってくれた。もう、喧しいことこの上なかった。そうしてしまいには、汁粉を食べに行かないかと言い出した。
 こっちも声を荒らげて悪かったという気持ちがあったので、ここでこいつの気の済むようにしてやれば、自分の中でどす黒く渦を巻いている嫌なものも消えるかもしれない、早いところそうしたいものだと考えて、汁粉の誘いを受ける気になった。それで終わるはずだった……。
 あいつはまるで薮蚊だ。ぶうんぶうんと飛び回って、ちくりちくりと刺してくれて、五月蝿いやら痛いやら痒いやら、気になって仕方がない。

 小百合が手を身体の前で重ねて顔を伏せ気味にしたしおらしい様子で、直人のそばにやって来た。
「気は済んだのか?」
 直人の問いかけに、小百合は目を伏せて答えなかった。
「なんで俺を連れて来た?」
 そう小百合に問いかけながら、彼は自分自身に問うていた。
 俺は今日、なんで彼女の誘いに応じてついて来たんだ?
 直人は、汁粉につき合った理由はどうであれ、彼女と一緒に行動するうちに開放的な気分になって行く自分が不思議でならなかった。そんな自分の変化に戸惑いを覚え、恐ろしささえ感じて、彼女を避けながら過ごしていた。そうしていたら、神谷のお婆さんが亡くなったと聞いた。なかなか大学に出て来ない彼女のことが気がかりだった。これまでなら、彼女は即、言い返して来たのだが、今は黙りこくっている。これも気になった。
 小百合は、祖母と直人の父親の前で、心のうちに描いていた想いを言葉に乗せて直人に伝えたいのだが、それを実行に移せずにいた。口を開こうとしても上下の唇は糊づけされたようにくっついたまま離れず、出ぬ言葉たちが胸に詰まって苦しかった。言葉とはどう発するものだったかと考えたが、これまで無意識にして来たことを意識してやろうとすればするほど、どうすればいいのかがますますわからなくなって行く。
「あんたらしくないな……」
 直人が呟くように言った。
 それを聞いて、小百合は瞼を閉じた。雑念を追い払って気持ちを集中させようとして、鼻から大きく息を吸い込むとゆっくり吐き出した。乾いて貼りついていた唇を動かして湿らせて、瞼を開いて、顔を上げた。小百合はおもむろに話し始めた。
「私、紺野君に謝りたかったの……。紺野君のお父さんや私のお婆ちゃんがいるここで謝りたかったの……」
 直人は訝しげな表情を顔に浮かべた。彼は、彼女がこんな場所で謝罪しなければならないようなことが、自分と彼女の間にあっただろうかと考えた。しかし、ここ暫く小百合と直に会っていなかった彼には思い当たるふしがなかった。何を謝っているのかわからなければ、あまりいい気はしないし、かえっていらぬ苛立ちが生じることもある。
「謝ってもらうような心当たりが、俺にはないんだが……」
「お父さんのことで、私は貴方にひどいことを言った」
 小百合の言葉に、直人は一瞬眉を顰めた。
「そのことだったら、あんたはもう謝っているだろう。謝罪は一度で十分だ。頼むから、もう触れないでくれ。正直迷惑だ」
「でも、紺野君、私――」
「あんたが今、気持ちが不安定だっていうのはわかるよ。そんな時にはわがままを言ってみたくなるもんだっていうのもわかる。だが、あんたのわがままを聞いてやる義理なんて、俺にはないんだ」
「私が紺野君に聞いてもらいたいの。そうしないと私の気が済まないのよ……。確かに自分勝手なわがままなことをしているのかもしれないけれど……。お願いです。私のわがままを聞いて下さい」
 直人は黙っていた。彼は、気が進まないような様子ではあったが、かといって立ち去るような様子はなかった。
「あの時は、ただ謝罪の言葉を並べただけなの……。ちょっと悪いことを言ったかな、一応謝っておこうかなくらいの軽い気持ちで、心から謝っていたわけではないの……。私、人が死ぬってどういうことか知らなかった。お婆ちゃんが亡くなって、大事なものをなくすことがどういうことなのか初めてわかった……。お婆ちゃんは病気でも事故でもなくて、天寿を全うしてお爺ちゃんのところに旅立った。あやかりたいと言う人までいたけれど、私は悲しくて寂しいだけだった……。それで紺野君のことを考えて、もう一度きちんと謝ろうって決めたの……。私、紺野君のことを思いやりのない、人の気持ちのわからない嫌な人だってずっと思っていたんだけれど、嫌なのは私の方だった……。今まで本当にご免なさい」
 小百合は涙ぐみながら一言一言に想いを込めて直人に伝えた。
 直人は小百合を冷めた目で見下ろしていた。そして、
「泣くのは卑怯だ――」
 と、冷たい声で突き放すように言った。
 小百合はびくっとして肩を竦めた。駄目だった、と思った。卑怯だと言われても、溢れ出、流れ落ちる涙を止める術はなく、直人の視線から逃げるように顔を伏せると、せめてもと固く瞼を閉じた。
「迷惑だった……?」
 小百合は消え入るような声で言った。
「俺はそう言ったはずだ」
「そうだったわね……」
「迷惑この上ないんだが、なんで俺はここにいるんだろうな……? ここから動けなくて、実に困っている……」
 直人は独り言めいた呟きを漏らすと、自分の左手を見た。なんでついて来たかと言えば、この手に触れたこいつの手が温かかったから、それに心引かれて、ついて来ずにはいられなかったのだ。五月蝿くて痛くて痒くて、そして温かくて、どうしようもなく気になる女だと思った。
「いつの間にか青空が出て来た――」
 直人がわざとらしい口調で言った。
 決まりが悪くて手で顔を覆って下を向いていた小百合は、彼の言葉を聞き、不意に光を感じて、おずおずと空を仰いだ。青い空が雲の切れ間から覗き、幾筋もの光が雲の隙間から降り注いでいた。
「もういいよ――」
 優しい直人の声がした。
 小百合は、どうにも気恥ずかしかったが、思い切って彼の方に顔を向けた。
 直人はきょとんとした顔をしたかと思ったら、
「あんたの顔、潰れたおはぎみたいになっている」
 と言っておかしそうな笑顔を見せた。
「俺は五時限目の授業に出たいから大学に戻るが、あんたはどうするんだ?」
「私も五時限目があるから、戻るわ」
 そう言った小百合は、はっとした。直人が急に真顔になったのだ。
「親父のところに参ってくれてありがとう、神谷さん――」
 彼はそう小さく口にすると、さっと身を翻した。
 この日を境に、小百合は、時間が許す限り彼のそばにいようとした。
「なんであんたがいるんだよ?」
「私、この時間は授業が入っていないのよ」
「だからって、なんでここにいるんだ――?」
「別に履修登録をしていなくても出席は自由でしょう。ここにいれば紺野君と一緒にいられるって思ったのよ」
「邪魔だ!」
「邪魔にならないようにおとなしくしているから」
「あんたはいるだけで邪魔なんだ――!」
 なんだかんだ理由をつけてついて来る彼女を、直人は口ではつっけんどんに扱いながらも、退けるようなことはしなかった。

 小百合の祖母が亡くなってから、幾つかの季節が流れた。
「無料入場券があるが、行くか――?」
 直人が小百合に言った。肩書きをいくつも持っている祖父のお陰で、彼は無料入場券や割引券を手に入れやすい環境にあり、それを利用して良く小百合を誘った。
 小百合は、自分は無料割引女か? という疑問はあるものの、これが彼の精一杯の誘い文句であることがわかっているし、彼の方から誘ってくれるようになったのが、何よりも嬉しかった。
 その日も小百合は直人から美術展に誘われた。二人は歩いてスーパーの駐車場の前を通りがかった。小百合の冗談に、直人は小さな笑い声を立てた。他の人はともかく、小百合相手だと、彼は冗談にも応じるようになっていた。そこに、「直人君」という声がした。小百合が声のした方を見ると、駐車場からひとりの男性がこちらに向かって歩いて来る。
「誰?」
 小百合が言いながら直人に目を向けたら、彼は嫌そうな困ったような顔をしていた。
「暫くぶりだね。元気そうで良かった」
 やって来た男性の声には親しみがこもっていて、顔には人の良さそうな笑みが浮かんでいた。男性は、五十歳は過ぎていると思われる、中肉中背で、地味なこれといった特徴のない顔立ちをした会社員風の人である。
「矢麦さんもお元気そうで……」
 直人の声は小さくて低かった。
 小百合は二人の顔を代わる代わる見ていた。どうやら直人は、その男性を警戒しているらしかった。
「直ぐにお母さんも来るよ」
 男性がそう口にした時には、直人は男性の後方を見ていた。小百合も直人の視線を追いかけた。
 荷物の入ったカートを押している女性が、「直人!」と変に上擦った声で叫んだ。女性のそばには女の子と男の子がひとりづついた。
 女性は小走りで寄って来るや否や、
「直人、元気でやっているの? もう、家に行ってもなかなか会えないから会いたかったのよ」
 と、彼の機嫌を取るような口調で言った。女性は四十代半ばくらいで、身長は小百合とほぼ同じ。綺麗な顔立ちで、上品な雰囲気の優しそうな人である。
 女性は感極まった様子で目を潤ませていた。ところが、直人の方は何故か蔑むような目で女性を見ていた。
 直人と女性の間には張り詰めた空気が生まれていて、小百合は二人の様子を固唾を呑んで見守っていた。
「お前たち、こっちに来て挨拶をしなさい」
 男性が離れたところにいる女の子と男の子に声をかけた。小学生の姉と弟だろう。二人して首を横に振ると、女性が置きっ放しにしたカートにしがみついて、そのまま動こうとしなかった。
「俺たち、急いでいるから。――神谷、行くぞ」
 直人は言って歩き出した。しかし、緊張した空気に当てられて心身ともに強張っていた小百合は、直ぐには反応できず、その場に突っ立ったままでいた。
「お急ぎのところ、お引き止めして申し訳ありませんでした」
 男性が丁寧に詫びた。
「いえ、別にそんなことは……」
 全然急いでなどいなかった小百合はかえって恐縮してしまって、自分の顔の前で手を振りながら言った。
「失礼します」
 男性はそう言うと、気落ちしているような女性の肩を軽く一度叩くと子供たちのところに向かった。女性も申し訳なさそうな笑いを顔に浮かべながら小百合に短い挨拶をすると、背中を見せて去って行った。
 あの人が紺野君のお母さん……顎のラインが紺野君にそっくりだわ。ご主人と、子供さん……紺野君の父親違いの妹と弟……あの子たち、紺野君に怯えていたみたいだった。
 小百合は四人に目を当てながら思った。そして、
「よし!」
 と、掛け声をかけると急ぎ足で直人のあとを追い、横に並んだ。
「あの人と健介の父親が従兄弟同士だ……」
 直人が前を見据えたまま口ごもった声で言った。
「あの人っていうのはあの男の人のこと? そういえば矢麦さんって言っていたわね。そうだったんだ……」
 小百合は、直人と健介にそんな繋がりがあったことを初めて知った。
「これでいいだろう。もう、何も言わないでくれ……」
 直人は苦しそうな表情で虚空を見据えていた。
 小百合はただ黙っていることしかできなかった。





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