ぬくもりの記憶 12(回想編)


 あれほど嫌っていた紺野直人とお汁粉を食べに行く気になろうとは。それは神谷小百合にとって、つい先日までは考えられないことだった。
 小百合の直人に対する見方が変わったのは、霧のような雨の降る日に、祖父の命日だから、とお墓参りに行きたがった祖母を連れて足を運んだ墓地で、直人に会った時からだった。
 彼は傘も差さず墓前にひとりで力なく佇んでいた。
『あのこは父親を交通事故で亡くしている』
 小百合はそう祖母から教えてもらった。
 墓参りから二週間が過ぎた金曜日。一週間ほど前に誕生日を迎えていた小百合は、二十歳になっていた。

 その日、小百合は、昨夜遅くまで課題に取り組んでいたのと、本日二時限から講義だということもあって、いつもより遅く起き、まだ完全に目覚めていない状態で食堂に入った。しかし、そこには誰もいなかった。食卓テーブルの上には小百合と祖母のご飯茶碗と汁椀が伏せられて、お箸も一緒に置かれてあった。小百合は食卓テーブルの前で欠伸をしながら思い切り身体を伸ばした。
 洗濯機の回る音がしている。
 小百合は、母は洗濯をしているのだろうと思いながら顔を洗うために洗濯機の置いてある洗面所に向かった。
 洗面所にも母はいなかった。
 小百合は家の中の気配に注意を払った。家の中に人の気配というものが全くないように思われた。洗濯機のモーター音と水の音が異様に大きいような気がして、ひどく耳障りだった。静か過ぎて五月蝿いような、洗濯機だけが慌ただしく動いて、それ以外のものは静を保っているような、妙な感じを覚えた。
 朝ってこういうものだったかしら……。
 小百合はそう思いながら顔を洗った。いつもの朝とは何かが違うような気がしていた。
 昨夜は随分頑張ったから、昨夜の疲れが取れていなくて、それでいつもと違うように感じるのかしら。十代と二十代の差は大きいわ。年は取りたくないものね……。
 そんなことを思いながら顔を拭いた。
 洗面台の横に置かれてある洗濯機が止まった。
 小百合は籠の中の汚れ物に目をやった。
 これも洗うのよね。どうしようかな……。
 そう考えながら鏡に向かい、自分のよりも高級な姉の化粧水を手にした。
 どこにいるのかしら……。
 化粧水を顔に塗りながら母のことを考えていた。
 玄関ドアの開く音がした。
 小百合は髪の毛をちょいちょいと直して洗面所から出た。廊下に母の姿があって、小百合はなんだかほっとした。
 母は小百合を見るなり、
「やっと起きたのね、この寝坊助。ご飯は自分でやりなさい」
 と、歯切れのいい口調で言いながら小百合に向かって歩いて来る。
「はーい。ねえ、お婆ちゃんもご飯がまだみたいだけれど」
 小百合は言った。
 小百合の前に立った母は食堂の方に視線を向けながら、
「お婆さんも起きていらっしゃったのね。用意しなくては。――いいわ、あんたの分もついでにやってあげる」
 と言って小百合に視線を戻し、仕方がないというような笑顔を見せた。
「お婆ちゃんは食堂にはいなかったわ。お婆ちゃんのお茶碗が伏せてあったから、それでよ。お婆ちゃんにしてはお寝坊よね」
 小百合が言うと、何故か母の顔が曇った。
 母は少し間を置いてから、
「そう……そうね……」
 と、はっきりしない返事をしながら祖母の部屋の方を向いた。
 小百合には、母は何かを迷っているように見えた。
「お婆ちゃん、近頃何かおかしくない?」
 小百合は言った。それはここ最近気にしつつも、なんだか言い出せないでいたことだった。それが母の雰囲気に触発されて、不意に口からこぼれ出た。
 小百合に背を向けて歩き出しかけていた母が、足を止めて振り返った。
 母は何か言いよどんでいるような表情を見せていた。小百合は、何かがおかしいと直感的に感じながら言葉を続けた。
「昨夜、お婆ちゃんと一緒にテレビで時代劇を観ていたら――」
「あんたが観ていたのは、時代劇じゃなくてアイドルでしょう。近頃の時代劇は、必ずと言っていいほどアイドルを使うらしいじゃない。あんたは昔からお婆さんを出しにしてチャンネル権を確保していたわね」
 母は小百合の言葉を遮って言うと、呆れたような、困ったような顔をした。いつまでも幼さの抜けない甘えん坊の末娘。彼女の軽はずみな言動は、心配の種であった。しかし、その一方で、彼女の天真爛漫さは、強張った気持ちを和らげて、時には胸に希望の灯さえともしてくれる。不思議な力を持つ娘だと思っていた。
「どうとでも好きなように言ってよ。とにかく二人で観ていたら、お婆ちゃんが居眠りを始めたの。それで布団に入った方がいいと思って起こしたら、私を眩しそうな目で見ながら、帰って来たんだね、小百合ちゃんの力の方が強かった、とか言って、それで笑うのよ――。風邪をひいたあと、お爺ちゃんのお墓参りに行った頃から、何か引っかかるものがあるの。あれはただの風邪だったの。お婆ちゃんはもっと別の大きな病気にかかっているんじゃないの?」
「寝ぼけていただけでしょう――。昼間は部屋の片付けをしたり、庭の草むしりをしたり、これまでと変わらずほどほどに動いているわよ」
 母は目を細めて、なんでもないような口調で言った。
「そうなの……それだったらいいんだけれど……」
 小百合は口ごもった声で言った。納得しかねていた。
「昨日なんかは、町田先生がお昼過ぎにひょっこりいらっしゃって、縁台に座って暫くお喋りしていたわ」
「それってお爺ちゃん先生の方?」
 小百合は、近所にある個人病院の院長をしている白髪頭でひょろりとした体付きの医師の姿を思い浮かべながら言った。
「前に私を診てくれたのは息子の方だったけれど。あれはいつだったかしら――。お爺ちゃん先生は、お婆ちゃんより年は上だっけ、下だっけ。まだ現役なの?」
 神谷家全員が町田医師親子の世話になっていた。
「確か二つ三つ上だったと思ったけれど――。老先生にお願いしたいという人もいて、都合で診察も受け持っているわ。まだまだかくしゃくとしたものよ」
「うわあ、すんごおい」
 小百合はおどけて大袈裟に驚いてみせると、
「お婆ちゃんの様子を見て来るわね。ご飯を食べるようだったら、私がやるわ」
 と、気楽な調子で言って祖母の部屋に向かって歩き出した。
 その小百合の腕を母が掴んだ。
「何よ?」
 小百合は母に向かって言った。
「小百合ももう二十歳になったんだから、いつまでもお婆ちゃんに甘えていては駄目よ」
 母は小百合の腕を掴んだまま怖いくらい真剣な表情で言ったが、次にはふっと顔を綻ばせて腕を放すと、「忙しい忙しい」と言いながら洗面所に入って行った。
「なんなのよ……」
 小百合はわけがわからないというような表情を浮かべて言うと、改めて祖母の部屋に向かった。
 祖母の部屋の障子はぴちっと閉じられていた。
「お婆ちゃん、起きている、ご飯食べる」
 小百合は廊下側から障子越しに声をかけた。しかし、返事はなかった。やっぱりどこか身体を悪くしているんじゃないか、と俄かに心配になって来た小百合は、障子を開けた。祖母はまだ布団の中にいた。小百合は部屋に足を踏み入れた。部屋の中は寂しいくらい綺麗に片付いていた。
「お婆ちゃん……」
 小百合は布団の横で身を屈めて上から祖母の顔を覗き込んだ。祖母は行儀良く仰向けに寝ていた。とても静かな寝顔だった。しかし、そのあまりに静かな様子に小百合は違和感を感じて、ためらいがちに膝を折って座ると恐る恐る手を出して祖母の顔に触れてみた。
「お婆ちゃん……」
 そっと呼びかけた。そして、
「まだ、温かい……」
 と、愛しそうに呟いた。目を細めて、頬をゆっくりと何度も撫でた。
「一人じゃ寂しいわよね。お母さんや皆を呼んで来るわね……」
 小百合は言うと、静々と立ち上がって部屋を出た。廊下で洗濯物を抱えた母に会った。
「お婆さん、ご飯どうするって。――小百合? ――どうしたの!」
 小百合には母の姿が霞んで見えていた。
 小百合は初めて人の死に、それも大切な人の死に直面した。大好きな祖母の身体からぬくもりが失われて行く。『小百合ちゃん――』。あの優しい声を聞くことはもうない。最後のお別れで棺の中に白い百合の花を入れた。百合は、自分にも祖父にも通じる花だから。
 葬儀のあと、小百合は母から封筒と手に乗るくらいの大きさに畳まれた半紙を渡された。
「その時が来たら小百合に渡して欲しいって、お婆さんから預かっていたの。お母さんを信用して預けてくれた……。わかっていたから、お爺さんの命日にお墓参りに行きたがったのよ。あんたが連れて行ってくれて、良かったわ」
 小百合も、父に叱られはしたが、あの日に行って良かったと心から思っていた。
 半紙からはセピア色をした写真が出て来た。あの日に見た、若い頃の祖父母の写真だった。封筒の中には手紙が入っていた。

『小百合ちゃんへ
 この写真を持っていて下さい。
 小百合ちゃんが素敵な人と出会って、きれいな花嫁さんになる時には、お爺さんと二人で、こっそり見に行きます。
 ありがとう。
                                                みねより』     

 朝、小百合は大学に向かってのろのろ歩いていた。背後から誰かが近づいて来る気配を感じてはっとしたが、自分を追い抜いて行く人を見てがっかりする。それを何回繰り返したことだろう。
 いないかな……。
 小百合はそう思って周囲に目を配りながら歩き、大学の門をくぐって、テニスラケットを持つ女性像の前で立ち止まった。ここで紺野君と待ち合わせたのだと思いながら視線を上げた。鈍色の空が広がっていた。
 小百合は祖母のことを考えた。彼からのお土産を祖母に渡したら、祖母は怪訝な顔をした。彼と同じ大学だと言ったら、そうだったのかいと笑った。祖母は、彼が大学に進学したことは知っていたが、どこの大学かまでは知らなかったと言った。
 小百合は自分の手に視線を落とした。
 この手で触れたお婆ちゃんのぬくもりを、私は忘れない。
 そう強く思い、ぎゅっとこぶしを握った。
 大丈夫。
 心の中で自分に言い聞かせるように呟くと瞼を落として祖母の顔を思い浮かべた。と、「小百合」と呼ばれたような気がした。思わずお婆ちゃんと想いながら瞼を上げ振り返った。鈴木智子の姿が目に入った。智子は「おはよう」と言ってにっこりした。
 まだまだみたい……。
 小百合は苦い想いを胸に抱きながらも笑顔を作って、「おはよう」と返した。
「やっと出て来たわね」
 智子はしみじみとした口調で言った。祖母の死後、小百合は大学を休んでいた。
「昨日が初七日だったでしょう……そろそろ動き出そうかなって思ってね……。智子、お焼香に来てくれてありがとう」
 小百合は友人たちの中で、智子だけに祖母の死を知らせた。
 智子は控え目に微笑みながら小さく頷いた。
「小百合、すっかり元気をなくしていたから、どうしているのかなって心配していたのよ」
「ありがとう――。もう大丈夫だから」
「健介さんも心配していたわ。午前中の授業は休講ってことだから、お昼頃来ると思うけれど。小百合を見たら、あの人も安心すると思う。それと、紺野君にも小百合のことを訊かれたわ」
「紺野君が……」
 小百合は急に落ち着かなくなった。彼に言わなければならないことがあったのだ。
「昨日のことよ。まだ休んでいるのかって……それだけだったけれど」
「そう……」
 小百合はよそよそしい口調で言った。智子と一緒にいるのが窮屈だと初めて思った。行き交う学生たちを眺めながら、紺野君に会いたい、と小百合の中にはそれしかなかった。
 小百合が直人に会ったのは、昼食を終えてから三時限目の授業が行われる教室に向かう途中、中庭でのことだった。鳥のさえずる声がして、その声に小百合は誘われるように顔を上げた。空はまだ曇っていたが、朝よりは明るくなっていた。それまでまったく風はなかったのだが、不意に弱い風が吹いた。風が運んで来たのだろうか、小百合はこれまでなかった匂いを感じた。いい匂いだと思った。その匂いに引かれて視線を転じた先に直人がいた。
 彼は小百合をじっと見詰めていた。小百合も彼をじっと見詰め返した。
 お汁粉を食べに行って以来、小百合は彼と擦れ違ってばかりで、一度も話していなかった。だいぶあとになってから、彼はきまりが悪そうに、『近づき過ぎて怖くなって、逃げていた』と告白した。
 友人たちとお喋りをしながら歩いていた智子は、小百合が立ち止まっていることに気がついた。訝しく思いながら小百合の視線の先を見た。そして納得したように顔を緩ませると、「小百合、先に行っているわね」とさりげなく声をかけた。
 直人がすっと動き、すたすたと近づいて来た。
「お婆さん、亡くなったんだってな。うちの婆さんとは話し仲間だったから、婆さんもどこからか聞いて来て、こればかりはどうしようもないと言って、寂しそうにしていた」
 小百合は黙って彼に目を当てていた。
 彼は困ったように顔を顰めて、
「一応言っておくが、慰めて欲しいんだったら、俺以外の奴に頼め。俺は慰めの言葉を持っていない」
 と冷ややかな口調で言った。
 小百合は思った。
 慰めの言葉をかけられると、かえって辛い時もあるってわかった。今がそう。こんな時に欲しいのは言葉じゃない。そばにいて欲しいって思える人が、黙ってそばにいてくれるのがいい――。
 紺野直人のそばにあって、神谷小百合は改めてつくづくそう思うのだった。
「紺野君……」
 小百合は言って、右手で彼の左手に触れた。彼の体温が感じられた。小百合はそうしてみたくなって、彼の左手を両手に包み込むようにした。
 彼は眉間に皺を寄せて目を細めた。
「これからお婆ちゃんのお墓参りに行こうと思うんだけれど、一緒に来てくれる……?」
 小百合は彼の顔に目を当てて言った。
「これから授業だ」
 彼は突き放すように言って左手を小百合の手の中から抜くと身を翻した。
 失敗しちゃった……。
 小百合はそう思って、自分から離れて行く彼を見守っていた。が、彼は途中でぴたっと立ち止まった、と思うと、こちらの方に早足で戻って来た。
「気が変わった」
 彼は素っ気なく言った。
 小百合は彼の横について歩いていた。彼の方が小百合の歩調に合わせてくれている。その彼は、左手を気にするような素振りを見せている。それが小百合は気になり、訊いた。
「左手、どうかしたの?」
「痺れている感じがして……なんでもない!」
 それから彼は、左手を気にする様子を見せなくなった。





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