ぬくもりの記憶 14(回想編)


 ある日の昼飯時も過ぎた頃。矢麦健介は一人で通りを歩いていた。健介は、ファーストフード店の前で足を止め、ガラス越しにファーストフード店内を見た。客の入りはまあまあという感じで、カウンターの中では神谷小百合が働いていた。健介は再び歩き出した。彼は、ファーストフード店の並びにある書店に行って目についた雑誌を購入すると、来た道を引き返してファーストフード店に入った。しかし、何故か彼は出入り口のそばに立ち止まったまま、笑顔で元気に明るく接客している小百合を眺めていた。
 矢麦健介は、何か迷っているような様子だった。
 小百合の前から客がいなくなった。すると、意を決したように健介はカウンターに向かい、彼女の正面に立った。
「いらっしゃいませ。お決まりですか?」
 小百合は屈託ない笑顔を浮かべながら言った。
「はい、いらっしゃいましたでございますの、お決まりでございますですの、こんにちはでございますです」
 健介は愛嬌たっぷりに言うと、ブレンドコーヒーとアップルパイを注文した。
 小百合は商品をトレーに揃え、
「ごゆっくりどうぞ」
 と、カウンターの上のトレーを健介の方へ心持ち滑らせた。
 健介は片手をトレーに添えると、視線をトレーに当てたまま、
「神谷さん……」
 と、喉の奥から絞り出すように言って、
「是非聞いてもらいたい話があるんですが……」
 と、ためらいがちに言いながら小百合に視線を移した。
「矢麦君が私に?」
 小百合は、彼の様子をおかしいと思って小首を傾げた。
「仕事は何時までですか?」
「三時だけれど」
「それまで待っていますから、そのあと少しつき合って頂けますか?」
 そう言った彼の顔を、小百合はまじまじと見ながら、
「私は構わないけれど……」
 と、少しこもった声で言った。
 健介はほっとしたような表情を見せた。
「それじゃあ、あとで」
 健介は言うと、片手でトレーを持ってカウンターから離れて行った。
 今日の矢麦君、珍しく弱気になっているみたいだけれど、どうしちゃったのかしら……?
 小百合はそう思って気になったが、次のお客が待っていた。中学生の男の子三人組で、その後ろには親子連れがいた。今は仕事を優先するしかなかった。
 そして、カウンターの前からお客がいなくなった。そうしたら、一緒にカウンターに入っていた母親くらいの年齢のパートの主婦が小百合に擦り寄って来て、
「さっきの、コーヒーとアップルパイの眼鏡のハンサムさんは、小百合ちゃんの恋人なの?」
 と小さな声で言って、客席の方に目をやった。
「友人の恋人です」
 小百合も小さな声で言いながら、主婦が見ている方へと目をやった。彼女たちの視線の先には、道路に面した窓際の二人がけの席について、雑誌か何かを読んでいるような健介の斜め後ろ姿があった。
「あのこ、悩み事を抱えている顔をしていたわ。小百合ちゃんを頼って来たんだろうから、じっくり話を聞いて上げなさい」
 主婦はいかにも親切そうにひそひそと囁いて離れて行った。
 小百合は、しっかり聞いていたのね、と心の中で迷惑そうに呟いた。それから、彼に何があったのかわからないが、どうして相談相手に自分を選んだのだろうか、と不可解でならなかった。

 私服の小百合が雑誌に目を落としている健介に近づいて行くと、その気配を察したのか健介は顔を上げた。
「お待ちどおさま」
 小百合は言いながら健介のそばに立った。
「ここではちょっとなんですから、場所を変えましょうか」
 健介は言った。彼が入店した時よりも、店内は人も多く、騒がしかった。
 一人の女性店員が商品を乗せたトレーを持って二人に近づいて来た。
「神谷さん、お疲れ様でした」
 店員は言い、健介をちらっと見て通り過ぎた。
「あのこ、私たちより三つ下よ……そうね、出た方がいいみたいね。先に行っているわ」
 そう言った小百合は、頭の中では友人・鈴木智子のことを考えていた。聞いたもらいたい話とは、おそらく智子がらみだろうと思った。だから、外に出て来た健介に向かって、
「智子と何があったの?」
 と言った。が、健介は小百合に目を当てたまま黙っていた。
「話って、智子のことじゃないの?」
「いえ……直人のことで、おじが神谷さんに会いたいと言っているんです」
「おじ……?」
 小百合は言って首を傾げるしぐさをすると、怪訝そうな眼差しを健介に向けた。
「直人と一緒に一度会っているはずなんですが……、おじも直人が神谷と言ったのを聞いたと言っていました」
 健介の言葉に、小百合ははっとしたように目を見開き、
「わかったわ!」
 と、声を上げた。
「えっと、矢麦君のお父さんの従兄弟にあたる、とか紺野君が言っていたあの人のことね」
「そうです」
「でも、あれから随分経っているわよ。去年の、確か暑くなる前じゃなかったかしら」
「あの日のことが、おじは頭から離れないんだそうです。――神谷さん、おじと一緒にいた女性と子供を覚えていますか?」
 小百合は頷いた。
「それが誰かを知っていますか?」
 小百合は再び頷いた。
「知っているんですね。――このあとは、どうするつもりだったんですか?」
「多分、そのまま家に帰ったと思う」
「歩きですか?」
「そう……歩いて三十分くらい」
「それだったら、歩きながら話します」
 小百合は三度頷いた。
 二人は歩き出し、健介が話を切り出した。
「神谷さんが知っていることもあるかもしれませんが、先ずは僕の話を聞いて下さい。――おじも中学に入って直ぐに父親を病気で亡くしているんです。男は自分ひとりだからと母親を助けて、父親の代わりに妹二人の面倒を見て、二十歳の時に母親が亡くなってからは、妹たちがそれぞれに家庭を持って落ち着くまではと母親の分まで頑張って、自分のことは後回しにして来た人なのです。結果として、いい人に出会えたと言っていますが……」
 それが紺野君のお母さん、と小百合は思った。おじの顔もお母さんの顔もほとんど思い出せないが、紺野君とお母さんの顎のラインがそっくりだったことは覚えていた。
「僕の祖父がおじの父親の兄だったので、何かと相談に乗っていて、僕の父とは兄弟同然に育って、僕のことも可愛がってくれた人です。それで、おじの奥さんの実家、紺野家の事情というのが僕の耳にも入って来て……」
 人とはどこでどう繋がっているかわからないものだ、と小百合は思った。亡くなった祖母と直人が知り合いだったことにも驚いたものだった。
「高校に入って、そこで紺野直人の名前を見つけて、奥さんには直人という名の僕と同い年の子供がいると知っていたので、もしかすると彼がそうなのかなと思ったんです。矢麦の名前は珍しいでしょう。それで、身内かもしれないと僕のことを警戒していた、とあとになって直人から聞きました。そんな彼の気持ちはなんとなく伝わって来ていたので、僕の方も避けてはいたんですが、避ければ避けるほど何故か遭遇してしまって。なんだかんだで、今に至ったわけです」
「矢麦君と紺野君の関係っていいなって、いつも思っているの。――うちと紺野君の家のお墓が同じ墓地のごく近いところにあって、うちの親も、紺野さんのお爺さんは顔が広い人だとかくらいは知っているんだけれど、そんなに詳しく知っているわけじゃないの。紺野君は、自分のことを私にはあまり話してくれないのよ」
「神谷さんにはわりと話している方ですよ。僕だって直人から直接聞いたことはありません。そういう人間関係があったから、偶然知っていただけです」
「いいな……」
 小百合は思わず呟いた。そして、
「あのね、紺野君が私を呼ぶの。実際に声に出して呼ぶわけじゃないのよ。心の声で呼ばれたって言えばいいのかな。私の中に、確かに彼の声が響くの。だから、私も心の中で呼びかけてみるの。そうすると、紺野君の心が逃げるのよ。でも、逃げながらもやっぱり私を呼んでいるの。紺野君のそばにいて、ずっとそんな風に感じている。――私、紺野君のことをもっと知りたい。矢麦君の知っていることを教えてくれない?」
 小百合は、健介のおじに会った日、直人と母親の間に極度に張り詰めた険悪な空気が漂っていたのを思い出した。母子なのにどうしてそうなるのか、今更ながら気になった。
「僕は直人に近過ぎます。そして、神谷さんにも近い。近過ぎると言い難いこともあるんです――」
 全てに繋がっている健介は間に挟まれて、複雑な気持ちを抱えてやって来たのだろう、と小百合は思った。
 直人君のことで彼女と話してみたい。彼女に会わせてくれないか? と健介はおじから繰り返し頼まれた。今のタイミングでおじの口から聞かされることが、小百合にとっても、直人にとってもいいことなのかどうか迷い、おじの話が小百合の精神面に及ぼす影響を心配した。
「なんで一度しか会っていない私に会いたいなんて思ったのかしら……」
「何度会っても印象に残らない人もいれば、たった一度出会っただけで忘れられなくなる人もいます」
 小百合が立ち止まった。健介も歩みを止めると小百合の方に首を動かした。
「おじさんに、会わせてくれない? おじさんが一番公平に紺野君を語ることができる人のような気がする」
 小百合は言った。彼女の大きな瞳は真摯な色を宿してきらきらと輝いていた。その瞳に、健介は彼女の強さを見た。彼は、目の前が大きく開けて行くような気がした。
 この人に望みをかけてみよう。
 健介は思った。
 直人も、自分と同じものを既に彼女の中に見、感じているのだろう。おじも、何も知らないで偶然会ったからこそ、彼女から純粋に何かを感じ取ったのかもしれない。
 二人を良く知る健介は、そうも思った。

 その六日後の昼下がり。小百合は健介に案内されて白壁のこじんまりした二階建ての建物に着いた。一階にはドアと出窓が一つ、二階には縦長の窓が二つあり、外観はなかなか洒落ている。今日のことは、勿論直人には内緒だった。
「一階が喫茶店、二階がカクテルバー。二階が開くのは夕方からで、この時間は一階だけです」
 健介が言った。
「矢麦君はこういうところで飲むの?」
「以前、この近くで、おじにばったり出くわして、その時は、お前と二階で飲めるのはもう少し先だなって言われて、一階でコーヒーをご馳走になりました。入ったのは、それ一回きりです」
 二人は店の中に入った。
 出窓から外光が差し込んでいるものの、結構奥行きのある店内は仄かに暗く、温かみのあるオレンジ色の明りが灯され、客席数は三十席ほどで、アールヌーボー調で統一されていた。古木を利用したあらわし梁が、木の優しさと柔らかさを感じさせる。どこかロマンチックな、静かで落ち着いた雰囲気の店だった。
 奥まったテーブル席に座っていた男性が立ち上がった。それに気がついた小百合は、どきっとして、俄かに不安になって来た。その男性の方へと健介は進み、小百合は緊張しながら健介の後ろをついて行った。その男性とは一度会っているとは言え、顔を覚えていないのだから、小百合にとっては見知らぬ人も同然だった。
「おじさん、かなり待ちましたか」
「そうでもない」
 小百合は、二人の声が似ていると感じて、思わず二人の顔を見比べた。どことなく血の繋がりを感じさせる部分があって、健介のおじ・矢麦氏に親しみが沸いて来た。
「矢麦です。今日はお呼び立てして、申し訳ありません」
「神谷です」
「僕はカウンターにいます」
 健介はそう言うと、大丈夫ですよね? というような目で小百合を見た。
 小百合は少し気持ちがぐらついたが、頷いた。
 矢麦氏は、小百合に座るように勧めながら自分も椅子に腰を下ろした。
 小百合は白いテーブルクロスのかかった丸テーブルについた。
「何にしますか?」
 矢麦氏が訊いた。
 小百合はメニューを見、ちょっと考えてカプチーノにした。
 矢麦氏は注文すると、小百合に向かって微笑み、話しかけた。
「貴女といた直人君は本当に楽しそうでした。あんな彼を僕は初めてみました。僕が声をかけたことで、彼の機嫌を損ねてしまいましたが……。先日、健介と話していたら、直人君の話になりまして、直人君が変わって来た、と健介が言うんです。それで、貴女に会った時のことを話したら、貴女と直人君は親しい間柄だ、と健介は教えてくれました。僕はもう一度貴女に会ってみたくなって、健介に頼みました。健介なりに考えていたようですが、神谷さんにおじさんの知っていることを話してあげて欲しい、と言ってくれた。――神谷さん、僕の話に暫くおつき合い願えますか?」
 小百合は矢麦氏の顔を見ながら大きく一つ頷いた。

 直人の母・絵美子は柔順な性格で気概に乏しかった。夫とは見合い結婚だったが、夫婦仲は良かった。夫の死は、恵まれた環境で生きて来た絵美子が初めて味わった苦難だった。幸い息子の怪我は軽くて大事には至らなかった。絵美子はそれにほっとして、あとはもう夫が突然この世からいなくなってしまったという事実が重くのしかかって来た。すっかり打ちのめされてしまった絵美子は、泣くことしかできず、寝込むことも多かった。
 ある日、絵美子は、自分を見ている息子の目つきが、他人を見るようなものであることに気がついた。触れようとして手を伸ばしたら、息子は逃げて行った。
 父の死後、活発で腕白だった息子はあまり口をきかなくなっていた。ひとりでいることを好み、何よりも母を遠ざけた。
 矢麦氏とは仕事で知り合った。

「事故後、精神的な問題もあって孫からは勿論目が離せない。そして娘も、とても直人君に付き添えるような状態ではなくて、お爺さんもお婆さんも大変だったそうです。知り合った頃の家内は、見ていると危なっかしくて、ほうっておけなかった。直人君との関係は悪くなる一方で、精神的にぎりぎりのところにいたんです。僕も十三の時に父親を亡くしているし、身内に直人君と同い年の男の子がいて、健介のことですが、その相手を良くしていたので、直人君とも上手く行く、とちょっとした自信を持って彼に会ったんです。ところが、戸惑うことが多かった。あまりにも反応がなさ過ぎて、そのくせ、時折蔑むような冷たい目をする。正直なところ、あの目は恐ろしかった」
 私のこともそういう目であの人は見ていた、と小百合は初めて直人に会った時のことが思い出されて来た。
「紺野のご両親は僕たちの結婚に賛成してくれましたが、心配なのは直人君がどう受け止めてくれるかでした。彼はこう言ったんです。『いいよ。でも、僕はお父さんのそばにいる』。紺野さんも、娘と孫のぎくしゃくした関係を心配していました。それで、思い切って環境を変えること、それと、直人君の立場をはっきりさせておきたいと先のことも考えて、自分たちの養子にしたいと言ったんです」
 矢麦氏はひとつ息を吐いた。そして、
「これはあくまでも直人君を見続けて来た僕の考えですが、直人君は自分自身を憎んでいるのではないかと。泣き悲しむ母の姿を見ながら、彼はこんな風に思ったのかもしれない。自分の軽はずみな行動が父の命と母の幸せを奪ってしまった。母を不幸にした自分は、母に触れてはいけないんだ。触れたら母をもっと不幸にしてしまう。自分は人を不幸にする。――そんな風に僕には見える」
 小百合は、多分その通りだろうと頷き、あの人があの蔑むような冷たい眼差しで見ていたものは、あの人自身だったのかもしれないと思った。
「家内が言うんです。一番傷ついていたのは、直人だったのに。どうしてあの時直人のそばにいて、抱き締めてやらなかったのか。それができなかった弱い自分が憎い。――やっぱり母子です。良く似ている」
 小百合は息を殺してじっと聞き入っていた。
「僕は、僕の生き様が父親の生きた証だと思ってこれまでやって来ました。直人君は父親の死を自分の中でどう処理していいのかわからないでいる。彼の場合は、事情が事情だから難しい問題ですが、いつまでもこのままでは……」
 矢麦氏は深くため息をついた。
 小百合は、運ばれて来ていたカプチーノの入ったカップを口に運んだ。もう、冷めていた。亡き祖母の言葉が、小百合の脳裏に甦って来た。『小百合ちゃんの中にはお爺さんがいる。お婆ちゃんもいる。悲しまなくてもいいんだよ。悲しんだら、お爺さんもお婆ちゃんも悲しい』
「矢麦さん、話して下さってありがとうございました」
 小百合は疲れを感じながら言った。
 健介が小百合の傍にやって来た。おじに目で合図されたのだ。
「なあ、健介は、直人君と親しくなった頃、彼からおもしろいことを言われたんだよな」
「おじさん、良く覚えていますね」
「お前は最強の悪運の持ち主だから知ったことではない、だったな?」
「そうです。そう言ってにたりと笑ったんです。ほんと気味が悪かった」
 健介と矢麦氏は抑えた声で笑った。小百合もなんだかおかしくなって、下を向いてくすくすと笑った。
 矢麦氏とは店を出たところで別れた。
「就職活動は進んでいますか?」
 健介が言った。
「ぼちぼちやっているわ」
「忙しくなりますね」
「そうね……」
「僕、なんでこんなに時間が経つのが早いのかなって、嫌になる時があるんです」
「私もよ……」
「僕はこっちですから。では、また大学で。さようなら」
「さようなら。色々ありがとう……」
 一人になった小百合は思った。
 紺野君が好き。どうしようもないくらい好きになっちゃった――――。





                                    HOME 前の頁 目次 次の頁