落花流水 3(学生時代)


 静馬は大学に入学した。
 新入生に対して、最初に科目の概要説明や履修登録の仕方、学内施設の見学やその利用方法等、これから大学生活を送るのに必要な事項の説明があり、健康診断も行われた。
 そうした日々を過ごす中で、静馬は、環境の変化に戸惑いを覚えながらも、これまでのような受身ではなく、自らの責任で講義に出席して学んで行かねばならないことを自覚して行った。
 そんな緊張感の漲る、将来への希望に溢れた大学生活が始まって、十日あまり経った日の出来事だった。

 その日、静馬は、同じ高校の出である青木や大堀と校舎の前で立ち話をしていた。青木と大堀は高校の時からの恋人同士である。
 その頃、静馬は、大学に入ってから新たに知り合った、親しいと呼べるような仲間をまだ持っていなかった。会話を交わす相手と言えば、同じ高校の出身者にほぼ限られていたが、もともと口数が少ないので、それで充分だった。
 そのうち、静馬は、これまでに少なくとも青木の口からは聞いたことのなかった名前、それを青木の口から聞かされた。
「諸岡ってのと話したんだが、これがなかなか面白い奴だった」
「いい意味で、風変わりな人だったわね」
 大堀も知っていた。
 ところが、静馬は、諸岡と言われても、まるで見当が付かないので黙っていた。
 そんな静馬の様子を見て、青木は補足するように言った。
「俺たちや支倉と同じ政治経済学部の新入生だよ。諸岡……なんだっけ」
 尋ねるように大堀の方を見た。
「諸岡孝明君よ」
 大堀が答えた。
「諸岡孝明ね……」
 静馬は、大学に入ってから誰の顔も名前も覚えていなかったので、諸岡孝明と言われてもぴんと来ず、現実感に乏しかった。
「眼鏡をかけている奴だよ」
「青木、眼鏡をかけている奴なんて珍しくないだろう。お前だってかけているじゃないか」
「支倉君て、相変わらず周りのことに関心ないのね。見ているようで、全然目に入っていないんだもん。今だってこっちから声をかけなければ、私たちがいることに、気が付かなかったんじゃないの」
 大堀の言葉を、静馬は聞き流しておいた。丁度校舎から外に出た時、大堀に声をかけられたのだ。
「なあ、支倉。俺たち、今が一番自由な時なんだぜ。そんな俗世からかけ離れたような、超越したような顔をしていないでさ、もっとこう、一生懸命楽しもうぜ」
 青木は、なあ、と大堀に同意を求めた。大堀は何やらぼそぼそと言っていた。それらを、静馬はあえて無視しておいた。
「それじゃ、俺たち行くから――。また、何か面白い情報を仕入れたら教えてやるよ」
 青木の言葉に、静馬は、余計なお世話だ、と心の中で返しておいた。
 青木と大堀は、銀杏並木を寄り添って歩いて行く。
 それを見送りながら静馬は思っていた。
 ――――別に超越などしていない。色々な感情が心中で激しく入り乱れ、争っている。だからと言って、何か発言したり、行動したりしても、無意味なことの方が多いと知っているだけだ。
 青木と大堀の姿が小さくなり、やがて視界から完全に消えた。
 静馬は二人の去って行った方に目を当てながら、冷めた気持ちで思っていた。
 ―――― 一生懸命なんて馬鹿らしい、何を浮かれているんだ。どんなに一生懸命になっても、叶わないことだってある。叶わなかった時、一生懸命でやったらやっただけ、より大きな空しさ、寂しさ、絶望感を味わうんだ。
 幼少時の思い出が脳裏に浮かんで来た。
 ――――お仕事なんだから、とまだ幼かった自分を残して出かけて行く母親を、お母さーん、と必死に泣き叫びながら、一生懸命に追いかけた。途中で誰かに抑えられたこともあるし、何かにつまづいて転んだこともある。母を引き止めることは叶わなかった。この幼少時の経験で、必死に一生懸命になることの無意味さを知った。
(今は、傍にいられても、煩わしいとしか感じないがな)
 そう思いながらも、母を追いかけていた幼い頃の気持ちが胸に甦り、それがいつだったか定かではないが、追いかけていた日の情景が瞼に浮かんでいた。
 何となく感傷に浸っていた静馬だったが、不意に「ん?」と目を細め、次いで「母さん?」と驚いて目を瞬かせた。しかし、直ぐに「違う」と乾いた気持ちで否定した。
 静馬の目には向こうから歩いて来る一人の女が映っていた。見知らぬ女だった。だが、何故か一瞬、母親に見えた。そうだと思ってしまった。
 静馬はなんだか急にばつの悪さを感じて、もう一度校舎の中に戻ろうと身体の向きを変えて歩き出した。
 と、どこからともなく、お母さーん、と切ない声が聞こえて来た。
 その声に、弾かれたかのように身体が翻った。
 半ば走るようにして女に近づくと、おい、と鋭い声を上げながら女の手首を掴み上げた。
 女は短い叫び声を上げた。
 静馬は女の顔に目を当てた。
 女は怯えた様子を見せていたが、そんなことなど静馬は構わず、女の顔を瞬きもしないで見詰めていた。
 垢抜けない素朴な感じの女だった。支倉グループ副会長で洗練された雰囲気の母親とはこれと言って似ていなかった。それなのに、何故かさっきは、母親に思えてしまったのだ。
 静馬は、目の前の女と似た雰囲気を、ずっと前に感じたことがあるような気がしていた。知っているような気がしていた。
 甘くも酸っぱい親しみ、切ない懐かしさが、胸に込み上げて来る。
 昔、支倉グループの規模がまだ小さかった頃、母親はこの女と同じ雰囲気を持っていた――――?
 絶対そうだ、とははっきり言い切れないが、多分そうだったんだろう、と考えていた。
「なんでしょうか?」
 女はおずおずと言った。
 静馬は、はっ、と我に返った。いつの間にか、息がかかる距離にまで顔を近づけていた。あっ、と自分のしていることに気づき、女の手首から手を離し、女と距離を置くと、
「済みません、人違いでした」
 と、内心の動揺を押し隠して謝罪の言葉を口にした。だが、どうしようもなく気まずくて、思わず顔を伏せてしまった。すると、本が目に入った。それはハードカバーのかなり厚みのある本で、女の足元近くにあった。
(この人のだろう)
 そう考えながら、本を拾った。本の角が潰れていた。
(今か?)
 とんだことをしてしまったと思った。申し訳なさでいっぱいになりながら本の汚れをはたき、
「これは、貴女のですよね。角が潰れてしまった。本当に済みませんでした」
 と、女に本を差し出し、その顔に目を当てた。女は硬い表情をしていた。こちらをかなり警戒しているのが見て取れた。
 女は疑わしげに静馬を一瞥すると、本を受け取り、潰れた角に目を当てながら眉を顰めた。
「これ、図書館のなんです……何か言われるかな……どうしよう……」
 独り言のように呟きながら、指で潰れた箇所を弄っている。
「それ、いつ返すんですか?」
「今から行くところでした」
「だったら、俺、一緒に行きますよ」
 静馬はそう言うや否や、女の手から本を奪い、
「俺がやったって、ちゃんとそう言います。さっ、行きましょう」
 と、先に立ってさっさと歩き出した。廊下の角に差しかかった時、足を止めて肩越しに振り返ったら、女がびくっとしたように立ち止まるのが見えた。思ったよりも二人の距離は開いていた。
「早くしろよ」
 静馬は急かすように言った。
 女はあたふたと駆け寄って来て、静馬から三歩ほど離れた後ろに付いて歩いた。
 図書館で本を傷めたことを謝ったら、次からは気をつけるようにと軽く注意されただけで済んだ。
「はあー、よかった」
 女はため息交じりの声でほっとしたようにそうこぼすと、
「どうもありがとうございました」
 と、いくらか和らいだ表情を静馬に向けた。
「礼はいらないよ。悪いのは俺の方なんだから――。俺、支倉と言います」
「私、皆川です。政治経済学部の一年です」
「なんだ、俺と一緒か――。なあ、次の講義、必修だよな。一緒に行こうか――。あ、その前に、コーヒー飲まないか? 学食のだけど、お詫びにご馳走するよ」
 静馬はそう言い終えると、彼女の意向は確かめずに、ここでもさっさと歩き出した。
 彼女はなんとも言いようのない顔をして、静馬から二歩ほど離れた後ろを付いて行った。
 静馬と彼女は椅子に腰を下ろした。そして静馬がコーヒーカップを口に運んだ時、初めてだわ、と言う呟き声が聞こえた。
「こっちに来てから、一緒に何かしようって言ってくれたの支倉さんが初めてなんです……」
 彼女はひどくしょんぼりした様子で言った。
「私、こっちの生活に馴染めなくて……、一緒にいてくれる人がいなくて……、お母さんの作ってくれたご飯が食べたくて……」
 彼女の目がだんだん潤んで行く。それを見た静馬は、これはホームシックだと思った。彼女の言葉には地方の訛りがあった。
 静馬が目の当て所に困って視線をさまよわせていたら、青木と大堀の姿が目に入った。
「おーい、青木ー、大堀ー」
 静馬は手を振って二人を呼び、
「俺の知り合いを紹介するよ」
 と、彼女に笑いかけた。
 青木と大堀は、男を一人連れていた。その男が、諸岡孝明だった。

 支倉静馬は皆川綾乃と出会った。静馬にとって綾乃はこの上なく大切な人になって行った。
 また、諸岡孝明との間に奇妙な友情が生まれ、育って行った。
 静馬は、得るものの多い、充実した学生生活を送り、およそ四年の歳月が流れて行った。

 静馬は卒業論文を提出した。一つのことをやり遂げた達成感と終わったと言う解放感、そして軽い脱力感を味わっていた。
「やったね、静馬」
 綾乃が声を弾ませて言った。彼女も一緒に提出していた。
「ああ、なんかこう、気持ちがすっきりしたな――。なあ、綾乃。二人で祝杯をあげないか?」
「賛成――。ねえ、どこでやるの?」
「勿論、綾乃のところだ」
「やっぱり。静馬って、何かと言うと私のところになるのよね」
「費用は俺が持つから――。ほら、行くぞ」
 二人で買い物をしてから、綾乃のアパートに向かった。
「支度するから、待っていてね」
「ああ」
 綾乃は狭いキッチンに立ち、静馬はキッチンを通り抜けた向こうにある居室の床に腰を下ろし、壁に背中を預けるとキッチンの方に目を向けた。
 居室とキッチンを仕切る戸は開いていた。
 キッチンの向こうが小さな玄関になっている。玄関と水回りと居室の広さを合わせても、それは支倉邸の静馬の自室より少し広いくらいだった。
 静馬は、ここにこうして座っていても部屋全体に目が行き届くこの小さな住まいが、いる人の体温を感じられるようなこのこじんまりした空間が、実に居心地がよかった。
 そんな穏やかで安らいだ気持ちを視線に乗せて、静馬は綾乃を見ていた。と、綾乃がこっちを向いた。
「もうちょっと待っていてね」
 笑い顔で言った。
「ああ」
 静馬は短い返事を返しながら背中を壁から離し、胡坐をかいて綾乃を眺めていた。
「お待たせ」
 綾乃が料理を運んで来た。静馬は折り畳み式のテーブルを広げながら、
「なあ、ここは引き払うのか?」
 と訊いた。綾乃は料理をテーブルの上に並べながら、
「それが、まだ勤務先が決まらないから、ここをどうするかも決められないでいるのよ」
 と答え、作った料理を全部運んで並べ終えるとお尻を床にぺたりと付けて座った。
「ああ、そうだったな――。まあ、そういうもんなんだろうけど、困るよな」
 静馬は思い出したような顔で言った。
「そうなの――。勤務先が希望通り第一本社ならば、暫くはここにいようと思うんだけど、どっちになるか、今はなんとも言えなくて」
 綾乃が四月から勤める会社の第二本社は、彼女の実家の近くにある。第二本社での勤務になる可能性もある状況だった。
 綾乃は大きなため息を吐いた。
「静馬と遠くなっちゃうのかしら……」
 小さくこぼした。
「家に帰られるんだろう。お母さんのご飯が食べたいってめそめそしていたのは誰だった?」
「だって、もう、あの頃とは違うもの……」
 綾乃は拗ねた目で静馬を見た。
「まだ、わからないんだろう。たとえそうなっても、高速を使って……二時間半ってとこか――。おい、たかが二時間半だぞ」
 綾乃はぐっと詰まったような表情を浮かべた。
「ん、そうよね……。たかが二時間半よね……」
 そう呟いて顔を伏せた。
 その場には、勤め先が第二本社に決定したかのような雰囲気ができていた。二人は暫し沈黙した。
「そうなったらなったで、異動希望が叶うように頑張って働くわ」
 綾乃は顔を上げながら言うと、静馬の顔を見据え、
「頑張って静馬のところに帰ってくるからね」
 と力強い口調で言った。
「よし、その意気だ。頑張れ」
 静馬もまた、力強い口調で励ましの言葉をかけてやった。途端、綾乃がか細い声で静馬の名前を呼んだ。その声もその姿も、捨てられ弱りきった子猫を思わせた。
 静馬は綾乃の身体を抱き寄せ、大丈夫だ、と囁いて唇を重ねた。
 これまでの静馬は、初めから希望通りには行かないもので、暫くはそれも仕方ない、と考えていた。たとえそうなったとしても、俺たちなら大丈夫だ、とどこかで思っていた。
 ところが今、もしそうなったらどうなる、と間近に迫った未知なるものに対しての不安が頭をもたげ、急速に大きくなり始めていた。
 ――――綾乃が俺の傍からいなくなる?
 静馬はこれから先のことが気がかりでならなくなった。綾乃を抱く腕に力が入り、奪い尽くすように、貪り尽くすように綾乃の口を吸い続けた。
 綾乃の吐息が甘く聞こえる。
 ――――これは俺のものだ。
 静馬は、俺たちは子供じゃない、と叫びながら、自分の身体の下に綾乃の身体を組み敷いた。





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