落花流水 2


 支倉静馬の家は、豊かな緑が四季の移ろいを感じさせる、静かで落ち着いた歴史ある屋敷町にあった。
 支倉邸は、入母屋造り、10LDKの一部二階建てで、本格的な日本庭園を擁している。
 静馬と祖父は、一階で生活していた。たまに家に帰って来る両親が、二階を使用する。
 静馬は、自分の家でありながら、自ら進んで二階に上がることはほとんどなかった。
 二階は、家政婦と定期的に通って来る家事代行サービスの専任スタッフの手によって、両親が突然家に来ても直ぐに使えるように管理されている。
 だから、静馬が二階の様子を気にかける必要などなかった。とは言うものの、家政婦や専任スタッフから、「あれにこれに立ち会って下さい」と言われることもある。それで二階に上ってみるのだが、二階は見知らぬ場所のようで、何かしっくりしないものを感じていた。
 ついでに言うと、祖父は交友関係が広く、祖父を訪ねて来る人は多かった。

 孝明から同窓会の幹事を頼まれた日、静馬はいつもより早い時間に帰宅した。
 静馬は玄関を上がると、先ず座敷に足を向ける。そうすることが、半ば習慣になっていた。
 座敷は二間続きになっていて、玄関に近い方の座敷には祖父がいるはずであった。
 引退後の祖父は、自室や書斎にいるよりも座敷にいた方が、静馬の帰宅したことがわかりやすいから、と夕方頃からは座敷にいることが多かった。
 残された時間がどれくらいあるのかわからないが、祖父はその時間を、たった一人の孫・静馬のために、そしてほんの少し自分のために生きようとしていた。
 静馬は廊下と座敷を仕切る障子に手をかけると、
「爺さん、今、帰った」
 と、帰宅を知らせながら障子を開けた。途端、呆気にとられた顔になった。
 座敷の中央には、楡無垢の高級座卓が置かれている。
 祖父は座卓の前で、廊下の方に身体の正面を向けて座っていた。
 座卓の上には新聞紙が広げられ、新聞紙の上には作りかけのプラモデルがあった。それが飛行機であることは、おおよそ見当が付いた。
 つまり祖父は飛行機のプラモデルを作っているのだが、そんな祖父の姿が、静馬の目にはひどく奇態なものに映っていた。
「静馬、お帰り。お勤め、ご苦労さん」
 祖父はそう言葉を返しながら、おもむろに顔を上げた。
「爺さん、細かいところが見えるのか」
 静馬はからかうような口調で言いながら後ろ手に障子を閉めると、座卓を挟んだ祖父の向かいに胡坐を組んで座った。そして、座卓の上にあった組み立て説明書と部品の繋がっているランナーを手にして、それらと作りかけのプラモデルとを見比べるように目を当てながら、
「何でまた、プラモデルなんて作り始めたんだ?」
 と、呆れ半分、興味半分で訊いた。
 祖父は老眼鏡を外して軽く目をこすり、老眼鏡は座卓の上に置いた。そうしてから、自分の座っている座布団の横に置いてあったプラモデルの外箱を静馬に差し出した。
 静馬は説明書とランナーを祖父の前に戻して外箱を受け取ると、外箱の側面に印刷されている完成写真に目を当て、その写真と作りかけのプラモデルとを見合わせた。
「昼間、いつもの庭師が来てくれて、孫の話になった。庭師の、一緒に住んでいる孫が、四つになったそうだ。その子が生まれて、庭師が喜んでいたのは、つい先日だと思っていたんだが、もう四年も経ったのか、と驚いた。でな、その子が口を開けば、電車が電車が、と電車の話しばかりするそうだ。庭師がな、もう可愛くて堪らないと言うように笑っていた。その時わし、静馬は飛行機が好きだった、とそんなことを思い出した」
「あれ、そうだったっけ?」
 静馬はとぼけたように言った。
「懐かしくなって、久しぶりに作ってみようと思ったんだが、これがなかなか難儀で」
「あまり根を詰めるなよ」
 静馬が白い歯を見せて外箱を祖父に差し出すと、祖父は嬉しそうな楽しそうな様子で手を伸ばして来た。
「大きくなったら、飛行機の運転手になって、お父さんとお母さんのところに行くんだと言っていたな……」
 祖父は皺だらけの顔に、更に皺を増やして語っている。
「そんなこと、言ったっけ――。よく、覚えていない」
 静馬はまた、とぼけたように言った。
「わしは覚えている」
 祖父はそう言うと、顔を伏せた。どうやら思い出し笑いをしているようだった。
 静馬は、幼い頃、飛行機が好きだったことも、その運転手になると言ったことも、本当はしっかりと覚えていた。祖父の思い出話をきっかけに、幼少期から少年期の出来事があれこれと脳裏に浮かんで来て、いつしか目を伏せていた――――。
(親父にお袋、どうしてんだか。爺さんをほったらかしにして、少しは親孝行してみろよな。仕方がない奴らだ……)
 静馬が心の中で愚痴をこぼしている時だった。
「おお、そうだった、静馬や」
 祖父の呼びかけに静馬は顔を上げた。
「朝、お前が出かけて直ぐに、悦子さんから電話があった」
 祖父の発言は、まるで静馬の心中を見透かしたようなタイミングだった。
「お袋から?」
 静馬は祖父の顔に目を当てた。胸中には両親に対する嘆きだとか憤りだとか、心配だとか諦めだとか、苦悩だとか戸惑いだとか、種種雑多な感情が入り混じっていた。
「こっちは変わりないと言っておいた。英雄と悦子さんも、元気でやっているそうだ――。いずれ、活動拠点を日本に移すつもりで、今後はその方向で調整するようなことを言っていた――」
「ふうん」
 静馬は鼻の奥を鳴らして気のない相槌を打った。
「静馬の行く末を考えてのことだろう――。支倉グループは、あの二人が育て上げたものだ――。それを我が子に継がせたいのは、親心だろう――」
「どうだか……。あいつらは大事な長男・支倉グループを育てるために、次男の俺を、爺さんのところに捨てたんだぜ」
 静馬は嫌味な笑みを浮かべた。
「静馬、そんなことを言うもんじゃない」
 祖父はきつい口調でたしなめた。
「冗談だよ」
 静馬は喉の奥で笑った。尤も、本気で捨てられたように感じていた時期も確かにあった。だったら、こっちも捨ててやればいいと考えた。しかし、実際に両親を前にすると、捨てられるのは嫌だし、捨てるのも嫌だと思ってしまう。どうしたらいいのかわからなくて、斜に構えた態度ばかり取り続けて来た。
「親父たちが俺に継がせようとしている、と爺さんは言うが、あいつらは仕事のことになると冷徹だ。俺の様子を探らせているのは知っているか――? どんな判断を下すか、わかったもんじゃない――」
「それも、お前に期待しての親心だと思え」
「爺さんは、親心親心と言うが、俺はあいつらのやることをありがたいと思ったことなんてないぞ――。むしろありがた迷惑だった――」
「まあ、あの二人とお前とは、肝心なところがずれているようだが――。あいつらはあいつらなりに、お前のことも、わしのことも、気にかけてくれている――。お前にはわしがいる、わしにはお前がいる、だから大丈夫だ、と信じてくれている――」
 祖父はゆっくりと慎重に丁寧に言葉を紡いだ。
「親と息子に調子よく甘えて、好き勝手にやっているだけだろう」
「静馬や――。愛情と一口に言っても、その数だけ異なった表現がある。互いの愛情が擦れ違い、それが憎しみに変わる悲しいことも、時には起きてしまう――。そう言うこともある、あるがな、誰も最初から憎まれようとして、何かをするわけではない――」
 祖父は静かに、だが、強く説いて聞かせた。それをしらけた表情で聞いていた静馬だったが、祖父の言葉が終わって、暫くの沈黙の後、ふっと笑い顔になった。
「そう言うこと、俺も少しはわかるようになった――。期待に沿えるかどうかわからないが、俺も息子として、あいつらの恥じにならない程度には頑張ってみようかと考えている――」
「そうか――。まあ、考えてみることだ。だが、急いで答えを出す必要はない。英雄も悦子さんも、まだまだ引退する気はないようだし、静馬にはたっぷりと時間がある――。じっくりと考えろ――」
 祖父はほっとした様子を見せた。静馬は和んだ気持ちで、
「まあ、そう言うことだから、親父やお袋のことで、もうあんまり心配するな」
 と言いながら、作りかけのプラモデルに目を当てて、
「作ってくれるのは、いつも爺さんだったな」
 と、懐かしさを含んだ優しい眼差しを見せた。
 父親の代わりをしてくれた祖父の愛が、父親を慕う静馬の気持ちを辛うじて満たしていた。では、母親を慕う気持ちは――――?
 静馬は、横に置いた手提げ袋に視線を移した。その中に入っている名簿のことが、どうにも引っかかっていた。自分のは、どこかにしまい込んだままで、卒業以来、開いた記憶はなかった。
「静馬、食事にしよう」
 祖父の声に、静馬はほぼ反射的に、
「ああ」
 と、返事を返しながら視線を祖父に戻した。祖父は作りかけのプラモデルに目を当てていた。
「いいものだな……」
 祖父がしみじみと呟いた。その呟きの意味するものが、静馬に伝わって来る。
 ――――ただいま、お帰りなさいを言う人がいる、いてくれる。一緒に食事をする人がいる、いてくれる。その喜び、すばらしさ、ありがたさ。祖父が孫を思う気持ち、孫が祖父を思う気持ち。それを上手く言葉に乗せることはできない。或いは、そうする必要などないのかもしれない。それは、二人で過ごして来た絶えることのなかった二十数年間に及ぶ日々の積み重ねによって築き上げられたものだった。
 静馬は、着替えて来る、と言って立ち上がった。そして障子に手をかけながら、
「爺さん。俺に隠し事なんてしていないよな?」
 と振り向いた。この時、その胸中は情けなさと悔しさでいっぱいだった。
「さて、何のことかな……」
 祖父は考え込む様子を見せたが、それは実にわざとらしい態度だった。
「静馬や、どうしてそんなに目付きが悪いんだ。その目は誰に似たんだ――。おお、わしかっ?」
 祖父はおどけた調子で、皺に埋もれた自分の目を指差した。静馬の顔に諦めたような苦い表情が浮かんだ。
「勝手に思ってろっ。もういいよっ」
 静馬は投げ出したような口調で言うと障子を開けて廊下に出、振り返らずにぴしゃりと障子を閉めた。
「ほおっ、ほほほほほ」
 祖父の高笑いが座敷の中から聞こえて来た。
 静馬は障子から離れながら、
「くそっ、あのくたばり損ないがっ」
 と悔しそうに吐き出した。だが、口ではそうののしりながらも、ずっとくたばり損なったままでいてくれたらと願っていた。同時に、それは叶わぬ望みだとわかっている。その日への覚悟もできている。その覚悟が寂しい笑みとなって、静馬の顔に浮かんでいた。

 静馬は、さっさと宛名書きを済ませるつもりでいた。夕飯を終えると缶ビールを持って自室に戻り、住所録を作り始めた。名簿の名前を順に追って行くと、懐かしさを覚える名前もあったが、作業を中断して学生時代の思い出に浸るようなことはしないで、機械的に処理して行った。
 それが、『皆川綾乃(みながわあやの)』と言う名前を見た時だった。
 ぴくっと手が震え、次いでぎゅっと指が曲げられた。じっとりと掌が汗ばんで来る。
 ひどい息苦しさに襲われ、思わず胸に手を置いた。心臓が激しく動悸しているのがわかった。
「くそっ」
 口の中で低く呟くとビールを呷り、煙草を咥え、火を点けて吸い込み、吸い込んだ煙を吐き出した。
 指に挟んだ煙草の火の点いた部分から一筋の紫煙が立ち上って行く。煙草が燃えてゆっくりと短くなって行く。それをじっと見詰めていた。
 灰が長くなるとそれを灰皿に落とし、もう一口吸って煙を吐き出すと煙草を揉み消した。
 両肘を机に突き、両手で頭を抱え、胸の奥から重苦しい息を吐き出しながら瞼を落とした。――――緑色に染まった銀杏並木が見えた。

 静馬は、大学のメーンストリートにある、大学の象徴とも言える銀杏並木の中を歩いていた。
 秋には黄色に染まる葉も、今は瑞々しい緑の若葉だった。
 静馬は立ち止まると銀杏の木を見上げ、空を仰ぎ見た。
 頭上に広がる雲一つない空は、まるで若葉の瑞々しさを祝福しているような純粋な青だった。
 銀杏の緑も青い空もとても綺麗だ、と静馬は思った。
「静馬――」
 名前が呼ばれた。同時にぎゅっと腕を掴まれた。
 静馬は横に視線を落とした。そこには綾乃がいた。
 綾乃は屈託のない笑みを浮かべて、静馬の右腕に両腕を絡めてくっ付いていた。
 いつからいたのだろう、と静馬は不思議に思いながら、
「綾乃、放せ。こんなところでみっともないだろう」
 と邪魔で迷惑そうに言ったが、無理に腕を引き抜こうとはしなかった。
「こんなところじゃなかったらいいの?」
 綾乃が、静馬の顔を真っ直ぐに見上げながら言った。彼女のふっくらとした頬にはえくぼができていた。
 静馬は、綾乃の些細なしぐさも、その頬のえくぼも可愛らしいと思い、頬が緩みそうになるのを堪え、無表情を作っていた。
「静馬、あのね」
「何だよっ」
 静馬はつい反抗的な口調になった。
「んと……やっぱり止めた……」
 綾乃はぼそぼそと言った。
「何で止めるんだよ」
「だって静馬、機嫌悪そうなんだもん」
 綾乃は唇を丸く突き出した。
「言っておくが、俺は普通だ」
 二人の目と目が合わさった。
「んとね、私ね、静馬のことが大好きだって言おうとしたんだけど……やっぱり止めておくわ……」
 綾乃はむすっとした表情で視線を逸らしながら口からそう言葉を漏らした。
「はっ、しっかり言っているじゃないか」
 綾乃が鈴を転がすような声で楽しそうに笑い出した。つられて静馬も声を出して笑った。
 ――――瑞々しい若葉のような恋人たちの時間が永遠に続くと信じて疑わなかった、大人とも子供とも呼べなかった頃。

 あたかも歳月の流れが、静馬に今一度向き合う冷静さを呼び起こしたかのように、記憶の奥底に眠らせていた綾乃の笑顔が目覚めた。塞ぎ続けていた耳に綾乃の声が聞こえた。
 静馬が初めて愛した女、綾乃。ただ一度きりの苦い情事――――。





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