落花流水 12


 事態の変化に戸惑っていた静馬が、自分の心のうちを代弁したかのような発言に振り返ると、直ぐ後ろに孝明と祖父が立っていた。
「片想いの相手に想いが通じるようにとの願いを込めて左手薬指に指輪をする人もいるし、ただのファッションでする人もいるしで、意味は人それぞれです。ヨーロッパでは地方によって結婚指輪を右手にするの、知っていますか?」
 そう言ったのは孝明で、さっき聞こえた声も彼のものだった。さらに彼は、
「指輪をして来たのは、今日を楽しく過ごすためのおまじないだって、僕、皆川さんから聞きました。これ、皆が知っていることですよ」
 と、語尾を強調して言った。
 静馬はひどく決まりが悪かった。
「爺さん、帰ろう――」
 話を逸らすように言って、祖父の足元に置かれてある贈られた品々を詰めたホテルの結婚式用の紙袋を持ち上げた。
「諸岡君、今日は楽しかった。ありがとう。また、いつでも家に遊びにおいで」
「はい。教授、いつまでもお元気でいて下さい」
「孝明、俺からも礼を言う。爺さんのためにありがとう。――さあ、爺さん、行こう。帰りはタクシーにしよう」
 静馬は言って歩き出しかけたのだが、
「静馬や――」
 と、祖父に呼ばれ、足を止めて振り返った。
 祖父はにこやかな顔を静馬に向けながら、
「こっちを見ているぞ――」
 と言うと、彼から視線を逸らして遠くを見る目をした。
 祖父の視線につられるようにして静馬もまたそちらを見た。と、彼は口をあっという形に開いた。少し離れたところから、綾乃がこちらを見ていた。彼女は一人でいた。
 綾乃が深々とおじぎをした。
 静馬は綾乃から顔を背けながら、
「俺、タクシーを呼んでもらっておくから――」
 と言うが早いか、靴音を大きく鳴らしながら足早にその場から離れて行った。
「やれやれ、なんと逃げ足が速い。全く困った奴だ――」
 祖父はおかしそうに言って、綾乃に軽く会釈をしてから悠々と歩いて行った。
 孝明はその場で教授を見送っていた。静馬の姿はもう見えなくなっていた。そして教授の姿も視界から消えると、彼は、俯いてぽつんと立っている綾乃へ近づいて行った。
「静馬ね、大学を卒業してから、ずっと女性を遠ざけていたんです」
 孝明が言うと、綾乃は緩慢な動きで顔を上げた。
「彼は貴女のことをまだ想っています」
 孝明は確信に満ちた口調で言い、
「貴女もでしょう」
 と優しい口調で言った。
 綾乃は驚いたように目を瞬かせると、何か言いたそうな表情を見せたのだが、言葉を発することなく、虚ろで儚げな笑いを浮かばせた。
「じゃあ、今日はこれで。また、会いましょう。次は貴女の心からの笑顔が見たいですね――」
「あの、諸岡君……」
 綾乃は去りかけた孝明を呼び止め、
「あの、ありがとう……」
 と、か細い声で言った。
 孝明は人懐こい笑みを浮かべ右手を軽く上げて応えると、帰って行った。
 綾乃は複雑な心境で孝明の背後姿を見守り、彼の姿が見えなくなると大きなため息を吐いた。彼の心遣いをありがたいとは思うのだが、彼の言葉どおりに静馬がまだ自分を想ってくれているとは到底思えなかった。明るく振る舞おうと心に決めて、頑張ってそうしていたのだが、静馬からははっきり迷惑だと言われてしまった。
 胴上げ騒ぎの時、綾乃は本心から静馬にたくましくなったと言った。
 久しぶりに会って、彼があれほど嫌っていた煙草を吸うことを知って、先ず驚いた。それからお爺さんに対する態度に驚いた。自分の言い分を通そうと意地になっているのとも、通してくれるはずだと甘えているのとも違う、堂々とした力強さと責任感を感じさせる態度を見せていた。お爺さん子でお爺さんだけには頭が上がらなかった彼が、そんな風にお爺さんと向き合うようになっていたなど、ほとんど考えつかなかった。
 学生の頃、静馬はとても大人っぽくて、貫禄を供えているように見えていたが、今から思うと決してそうではなかった。彼には未熟な甘えがあった。彼の悟ったような口調、自信ありげな態度の中には他者の視点に立つことができない、自分の目線でしか物事が考えられない、子供の自己中心性が含まれていた。
 綾乃は、変わったと思いながら静馬を見ていた。
 うやむやなまま別れてしまってから、彼の身に一体どんな出来事があったのか、綾乃は何一つ知らないが、二人は、それぞれがそれぞれの想いを抱きながら異なる道を歩んで来たということはわかっている。
 ようやく訪れた機会をみすみす逃すまいという想いと、微かな予感を胸に秘めてやって来た。
 交わることのなかった道、時間の流れが、やっと合流したとはいえ、静馬が自分と同じ気持ちだったわけではなさそうだった。同じでいて欲しいと願っていたのだが、今は、たわけたことを考えていたと言うしかなかった。
 そもそも貴女はそんなことを望めるような立場なの? 自分が彼に何をしたのか、よく考えてみなさい。
 綾乃は心の中で自分にそう詰問した。
「帰ろう……」
 言って、何気なく肩からかけていたバッグの紐を直した。ふと思いつき、バッグの中から同窓会の領収証と案内状を取り出した。それぞれに、堂々とした、でも少し右肩上がりでどことなく神経質そうな静馬の字で皆川綾乃と書かれてある。
 綾乃は、案内状に書かれた自分の名前と指輪の両方を見やりながら寂しそうに目を細めた。
「静馬……」
 来るのが遅かったと思いながら、そう呟いた。

 支倉邸に向かうタクシーの中で、静馬は祖父の様子を窺っていた。
「爺さん、疲れたんじゃないのか?」
「大丈夫だ。お前の方こそ疲れているようだ。――なんだ? 何をそんなにじろじろ見ているんだ」
 静馬は、どちらかというと小柄な方だった祖父の体が一段と小さくなり、猫背がいっそう丸くなったと改めて思ってしまい、不安とずっと見守っていかなければとの決意を胸に抱いて祖父を見ていた。
「ちょっとな――。俺、爺さんの膝の上にいたんだなと思ったら、なんだか不思議な気がして来て――」
 言いながら、何か書き物をしていた祖父にせがんで膝の上に乗せてもらい、原稿用紙に色々かいていたこともあったと思っていた。
「今は、わしがお前の膝の上に乗られそうだ」
 祖父は感慨深い声色で言った。
「爺さんの一人くらい乗せられるが……、なんだか乗りたそうに見えるぞ。乗ってどうしたいんだ?」
「そうだな……、絵本でも読んでもらおうか。人間は年を取ると子供に還ると言うからな」
「今度、本当にやってやろうか」
 言ってから静馬は軽い笑い声を立てた。そこに祖父が、
「お前も縦によく伸びたものだが、横が少し細いな。八十くらいあるのか?」
 と訊いて来た。
「この前の健康診断では、七十九だった」
「諸岡君もお前と似たような背格好だが、どっちが大きかったかな?」
「孝明は、自分では八十あると言っているが、本当のところはどうだか」
「静馬、煙草はほどほどにしておけ――」
 祖父はそれまでの冗談めいた口調ではなく真摯な口調でそう切り出し、
「わしも昔は、多い時には日に二箱吸っていた。それが、お前の世話を任せられて、初めて止める気になった。お前のお陰で、わしも変わった。英雄たちがお前をわしに預けてくれて、わしはよかったと思っている。お前には可哀想なことになってしまったがな――」
 と言った。
 それを真顔で聞いていた静馬は、
「爺さんがそう思ってくれているんなら、それでもういいよ。俺、いつか言っただろう。親父たちのことで、もう心配するなって。ちゃんと受け入れられるから――」
 と言い、
「なあ、爺さん――」
 と重苦しい口調で言ったが、あとが続かなかった。
「なんだ、どうした?」
 そう訊かれ、静馬は一拍間を置いてから、
「くたばるんなら、俺のいる時にしろ。俺のいない時にくたばるなんて、そんな勝手、俺は許さない」
 と、祖父に鋭い眼差しを向けながら凄みのある声で脅すように言った。しかし、祖父に動じるような様子はなく、
「これはまた、何を言うかと思えば……。お前こそ、随分勝手なことを言ってくれる。だが、逆らえない妙な迫力がある。いかにもお前らしいその態度、なんだか嬉しくなって来る」
 と冷やかされるように言われてしまった。
「茶化すな。俺は本気で言っている」
 静馬の声は怒気を帯びていた。
「お前がいつだってわしのことを本気で思ってくれているのは、わかっているよ。お前がそうして欲しいと言うのならそうしてやりたいと思うが、できる約束とできない約束がある――。静馬や、どうした。何があった?」
 祖父は静かに淡々と諭すように言った。
「別に、なんにもないよ……」
 静馬も淡々と言い返し、笑い顔を見せた。
「静馬や、今日はまだ終わっていない。お前、何かやり残したことがあるんじゃないのか?」
 そう訊かれ、静馬は急に無表情になり、
「そんなこと、爺さんに言われなくてもわかっている……」
 と、抑えた口調で返した。
「そうか。わかっているのなら、それでいい……」
 祖父はそう言うと、やはり疲れているのだろう、俯いてしまった。
 静馬はシートの背凭れに背中を預けて腕を組み、車窓に目を当てた。
 どちらももう何も言わなかった。
 支倉邸の前にタクシーが止まった。
 静馬は運転手に向かって、
「もう一箇所行って欲しい。待っていてくれ」
 と言ってから紙袋を持ってタクシーを降りた。続いて車外に降り立った祖父に向かって、
「忘れ物を思い出したから、ちょっと行って来るよ」
 と言いながら紙袋を手渡した。
「静馬や、もう少し顔を近づけてくれないか」
 祖父にそう言われて、静馬は怪訝に思いながらもそのとおりにした。
「おお、静馬らしい顔をしておるわ。どうやら目が覚めたようだな――。お登美さんがいてくれるんだ。わしのことは気にしないで、ゆっくりしておいで」
 静馬は、ちょっとくすぐったいような表情を見せたかと思ったら、すっと背筋を伸ばし、
「じゃあな、爺さん。おやすみ」
 と言って、再びタクシーに乗り込んだ。彼は覚えていた綾乃の住所を運転手に伝えると目を閉じて、あとは音を聞くことだけに集中していた。
「着きましたよ。ここでいいですか?」
 何度目かの停車で運転手からそう告げられた。タクシーはマンションの前で止まっていた。
 地面に降り立ってマンションを見上げた静馬は、夜の闇に浮かび上がっているそれに異様な圧迫感と妙な興奮を覚えた。敵陣に攻め込むような心境を味わいながら、ひょっとすると綾乃はまだ帰っていないかもしれないと思った。丁度煙草を吸いたくなっていたこともあり、光に照らされたエントランス手前の植え込みのそばで胸ポケットから煙草の箱を取り出しながら、暫くここにいてみようかなと考え、回りくどいことをしているなとも思った。
 どれもこれも原因はあの指輪であった。
 彼は、貴金属や宝石には興味がなく、そんなもので身を飾って何が面白いのだと思っていた。
 そうであったのが、左手薬指に指輪をすることがどういうことか、その意味と価値に今日、初めて気づいて、それを今、噛み締めながら、おまじないだか願掛けだかしらないが、それをするのにどうして指輪という誤解されるようなものを選んだのだろうかと考えた。そうしたら、はっと気づいた。
 同窓会へ行く綾乃にあの指輪をはめさせた男がいるのかもしれない――。そうだとしたら、それはあの指輪の贈り主で、相当嫉妬深いのかもしれない――。それだけ彼女のことを愛しているからなのか――? そして、このマンションで二人は一緒に暮らしているのかもしれない――。
 静馬は、ふっと何かの気配を感じて首を動かした。薄暗がりの中に人影がおぼろげに見えた。
 人影が動いた。それは男性で、静馬の横をさっさと通り過ぎて行った。
 静馬は、父親と同じくらいの年だろうとなんとなく思った。
 男性は、エントランス近くで煙草を吸っている若者を怪しんで、立ち止まって様子を窺っていたのだが、若者がこちらに気づいたようだったので、急いでマンションの中に入って行ったのだ。
 静馬は短くなった煙草を地面に落とすと靴先で踏みつけて火を消した。
 綾乃は婚約したわけでもないようだった――。それなら勝負はこれから、先ずは綾乃に指輪を贈った男の顔を拝んでやろう――。
 静馬は空になった煙草の箱をぎゅっと握りつぶし、
「これが俺の常識だ」
 と言って、箱を植え込みの中に投げ込み、足元にあった吸殻三本も放り込むと、マンションを見上げた。気持ちの昂ぶりはまだあったが、圧迫感はもうなかった。
「さて、行くか――」
 静馬はエントランスに足を踏み入れた。すると、少し離れたところに先程の男性がいるのが目に入った。静馬はそれ以上中へ入りづらくなってしまった。男性は顔をこちらに向けてじりじりと後ずさりしているのだ。その態度から、どうやら自分は不審者と疑われているらしいと静馬は思った。
 男性は警戒する様子を見せながら、オートロックを解除して中へ入って行った。
「俺はそんなに怪しく見えるのか……」
 静馬がどうでもいいようにそう呟いた直後だった。
「静馬なの――?」
 耳に届いたその声で、彼は身体の向きを変えた。





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