落花流水 11


 会場から出て行った綾乃は、直ぐに戻って来た。静馬はそれに目ざとく気づいた。
 二人は離れてであったが、顔を見合わせた。静馬は、彼女がにっこりと微笑んだように感じられた。
 しかし、彼女は静馬のところへはやって来ないで、友人たちのところへ行ってしまった。静馬も彼女のところへは戻らなかった。
 祖父に忠告するとか注意することは、静馬にとって特別なことではなく、日常の一こまに過ぎなかったが、今日はいつになく強い口調になってしまった。そのせいもあるのか、皆の目には奇異なこととして映ったらしく、結果として静馬は皆にその存在を印象づけ、皆の視線から外れることができなくなってしまった。
 綾乃の方も誰かしらと一緒にいる。
 最早、会場の片隅で綾乃と二人で静かに話をするなどとてもできる状況ではなくなっていた。だから戻らなかった、というより戻り難くなっていた。
 静馬は、衆人環視の中で彼女と話しても、表面的で当たり障りのない会話しかできないだろうから、彼女とじっくり話し合うためのよい方法はないかと考えてみた。上手く行くかどうかわからないが、彼女に会場の外に出るように目配せしてみようかと思いついたのだが、直ぐに支倉建設の総務部長や営業部長が同じフロアにいるのを思い出した。
 静馬は彼らの目を気にしないわけには行かなかった。
 もし綾乃と二人でいるところを彼らに見られたら、綾乃のことを彼らは調べるかもしれない。同窓会で再会したかつての恋人、今は人妻と親密にしていたなどと思われるかもしれない。そのようなあらぬ考えを抱かせる隙を彼らに見せてたまるかと思うと慎重になり、会場の外に出るのもし難かった。
 静馬は綾乃へさりげなく目をやっていた。彼女は、静馬が戻らないことを気にしている様子はなく、静馬などいなくても十分楽しくやっている。静馬にはそう感じられた。彼女が声をかけて来たのは、静馬だから特別にどうのこうのというわけではなく、何かを望んでいたわけでもなく、ただの挨拶程度のものだったのかもしれない。人妻となった綾乃の立場を思えば、静馬にはそう考えるのが妥当なところだと思われた。
 同窓会は終了時間になった。
「宴もたけなわでございますが、閉会の時間が参りました。それでは支倉教授から閉会のお言葉を頂きたいと思います。よろしくお願い致します」
 孝明が言った。
「皆さんが立派に成長されたことを実感し、嬉しく思いました。そして私の喜寿を祝ってくれてありがとう。次の同窓会で皆さんに再会できることを楽しみにしています」
 祖父が言った。
 静馬は、祖父や孝明から離れて彼らの言葉を聞いていたら、いきなり青木に腕を掴まれた。青木は、
「本日の幹事を担当された諸岡君、支倉君に感謝の気持ちを込めて、皆さん盛大な拍手をお願いします」
 と言いながら、静馬を祖父と孝明のところへ引っ張って行き、彼らと並んで立たせた。
 静馬は皆の視線に晒されながら拍手と喚声を浴びた。しかし、これは彼にとってありがたいことではなく、内心憮然としながら会場全体を眺めた。
 綾乃もこちらを見て笑顔で拍手をしていた。
 静馬は想いを打ち明けて、再び彼女の手を取りたかった。しかし、もうそれはできないのだとわかってしまった。彼女が静馬に触れることももうない。それらは、してはいけないことだとわかっている。そもそも二人だけで落ち着いて話すのにふさわしい場所ではなかった。
 自分の考えが最初から間違っていた、自分はつくづく抜けている、と静馬は思った。尤も、ここでなくてもどのみち同じことであったとも思った。
 孝明の言葉で同窓会はお開きになった。
「二次会は一階のバーを八時まで借り切ってあります。受付で二次会を申し込んでいなくても、飛び入り参加大歓迎です。それと、これから宿泊をお考えの方は、結婚式場を兼ね備えた当ホテルを是非ご利用下さい。ご希望の方は、私、諸岡までお申しつけ下さい」
 これを聞いた静馬は、綾乃に受付で二次会について言っていなかったことに気づき、俺はどこまで抜けているんだと思ってがっくりと肩を落とし、床に向かってため息を吐いていた。

 皆は三々五々会場から出て行く。
 静馬は孝明と一緒に会場内に留まって、皆の様子を眺めていた。
「静馬、二次会に出ますよね?」
「一応出るよ。俺はあまり気乗りがしないんだが、爺さんがはりきっている。目を離すわけには行かないから、爺さんが見えるところにいるつもりだ」
 静馬は言って、出入り口の方へ目を向けた。祖父は胴上げをしていた連中に囲まれながら会場から出て行くところだった。
「あの連中も二次会に行くんだったよな。また、何かするんじゃないのか」
 静馬は眉を顰めて言うと、前を見て歩き出した。
「彼ら、最初から盛り上がっていましたからね――。あれだけ騒いだんだから、もう気が済んだでしょう」
 孝明は静馬の横に並んでついて来る。二人はのろのろと歩いていた。
「そう思うか――。俺は支払いを済ませてから行くから、それまで爺さんのことを見ていてくれ」
「静馬、さっきからおかしいですね」
 孝明の言葉に静馬は思わず首を横に動かした。孝明は訝しげな目でこちらを見ていた。静馬は、内心を見透かされているような気がしてならなかった。
 どちらからともなく足を止めていた。
「俺がいつ、お前を面白がらせるようなことをした。覚えがないな」
 静馬は、綾乃のことを頭の中に置きながら、むっとした表情ではぐらかして言った。
「様子が変だと言っているんです――。教授は心身ともにしっかりなさっておいでです。できることとできないことをきちんと見極めていらっしゃいます。それなのに、さっきは皆の前であんなに強く言わなくても――。静馬は考え過ぎ、心配し過ぎですよ」
「爺さんと同じことを言うなよな」
 静馬が嫌そうに細めた目で孝明を見ると、孝明は困ったように細めた目で静馬を見返して来た。
「静馬、どうも必要以上に考えるようになっていますね。それも悪い方に悪い方にばかり考えている――。静馬は、もっとわがままで自分勝手で、人の前を歩きがたるタイプだったでしょう。たとえ後ろから誰もついて来なくても、そんなこと知るかって顔で胸を張って歩いていたでしょう。それが、どうも人の目を気にして行動するようになってしまった。考え過ぎて自分で自分を縛っている。らしくなくなっていますよ――。静馬のはね、他人への気づかい、というよりも自分への気づかい、自分が安心したがっているでしょう。ねえ、静馬、何を怖がっているんです?」
 孝明の言葉が、静馬の心を揺さぶっていた。
「もういい、止めろ」
 脳裏に綾乃の泣き顔を浮かばせながら静馬はそう言い、目で孝明を威嚇した。が、何故か孝明は惚れ惚れとしたような表情をしてこちらを見ている。
「いい目ですね。それが静馬の目ですよ――。あまり考えて、心配ばかりしているとこの先持ちませんよ。支倉グループ将来の会長」
 孝明は言って顔を綻ばせ、静馬は顔を顰めて、
「いきなり何を言うんだ」
 と言った。
「いずれグループに行くこと、もう決めたんじゃないかって、そんな感じがしているから」
「考えてはいるが、まだどうなるかはわからない。だがな、お前に限らず、俺は世間から後継者として見られている。慎重に行動せざるを得ないんだ――」
 静馬は言いながら、孝明の足元になんとなく視線を落としていた。
「静馬ー、二次会、出るんですよねえー!」
 孝明がやたら大きな声で呼びかけるように言った。
「俺は出ると言った」
 静馬はくどいと思い、つっけんどんに言いながら顔を上げた。
 孝明は妙ににこにこしながら、何故か静馬ではなく、あらぬ方に視線を向けていた。
 静馬は反射的に孝明の視線を追って、自分の背後に目をやった。人の背丈二人分ほど向こうに綾乃が立っていた。静馬は思わず、「あ――」と言葉を漏らしていた。
 綾乃はこちらに向かってにっこりすると右足を踏み出した。
「僕、二次会の会場に行きます。教授のことは引き受けましたから、支払いの方はお願いしますね」
 孝明はそう言いながらそそくさと立ち去って行き、綾乃はゆっくりと近寄って来た。
 室内に同級生は誰も残っておらず、ホテルの従業員たちが片づけをしている。
 綾乃と向かい合って立った静馬は、急に後ろめたさを覚え、
「怒っているんだろう?」
 と言った。
 にこやかだった綾乃の顔が一変、きょとんとしたものになった。
「俺は直ぐ戻ると言ったのに戻らなかった」
「ああ、そのことだったら、別に怒ってなんていないわよ」
 綾乃は、そんなことは気にしていないとばかりにさらりと言った。
 静馬はそれを、所詮信用されていなかったのかと解釈して捨て鉢になりかけた。
「本当に怒っていないから」
 綾乃は真剣な顔つきで言い聞かせるように言うと、
「あの状況では仕方ないし、会の世話人としての立場もある。そうしたくても、状況がそれを許してくれない時ってあるわよ。その人なりのやむを得ない事情があったのかもしれないのに、その人の事情は一切聞かないで、そっちが悪いと自分勝手に決めて一方的に非難する。そんなこと、してはいけないのよ――」
 と、切々と訴えかけるように静馬の顔を見ながら言い、
「そんなことをすれば、いつか必ずそれを後悔する日が来るから――」
 と、消え入るような声で言って、顔を伏せた。
 静馬は彼女の言葉の真意を汲み取りかねていた。
「綾乃? なんのことを言っているんだ――」
 綾乃からの答えはなかった。
 静馬は拳を握った。
 ――――もう一度やり直そう!
 そう叫んで彼女を抱き締めたい衝撃を抑えていた。
 綾乃がゆっくりと顔を上げた。
 それは静馬の思いなしなのだろうか、瞳を潤ませている彼女は感傷に浸っているようにも見えた。
 静馬は、自分まで感情に流されるまいと思い、冷静になろうとした。
「一緒に二次会に行きましょう」
 綾乃は言い、両手で静馬の右手を包んで微笑みかけて来た。
「俺はこれから支払いに行くから」
 静馬は内心の動揺を押し隠そうとして突っぱねる口調になっていた。
「それなら、私もついて行くわ」
「迷惑だ」
 静馬はついそう言ってしまった。
 綾乃の目がこれでもかというほど見開かれた。
「どこで誰が見ているかわからないんだ。噂になったら困るだろう――。先に行っていろ」
 静馬は言って、綾乃の手を剥がした。
 綾乃は項垂れると沈んだ声で短く承諾の返事を返し、肩を落として静馬から離れて行った。
 彼女は会場の出入り口のそばで一度立ち止まって振り返り、何か言いたげな様子で静馬を見たのだが、結局何も言わなかった。
「どういうつもりなんだ」
 静馬は、綾乃の姿が出入り口の向こうに消えると訝しげに呟き、歩き出した。廊下に出たら、綾乃は丁度エレベーターに乗り込むところで、松風の間付近は正装した人たちで賑わっていた。静馬は咄嗟の判断で階段を使った。
 彼は、綾乃の態度に当惑していた。それは、二人の時間を取り戻せそうな期待を抱かせるようなところがあった。あるいは、彼は、自分自身が取り戻したいと願っているから、そう受け取っているだけなのかもしれないとも考えていた。
 綾乃に触れてはいけないというのは、それが常識だから無理に頭の中でそう思おうとしているだけで、彼女を想う心を簡単には変えられない。
 静馬はどこにも行き場のない想いを心の中によどませていた。

 静馬は、支払いを済ませて二次会会場へ向かいながら、綾乃に指輪のこと、その贈り主のことを訊いてみようかという気になったのだが、彼女の姿を見たらその気持ちがぐらついてしまった。
 我ながら意気地がないと思ったが、彼女と向き合うには時間が必要だと感じていた。
 静馬は、彼女から離れたところで、楽しんでいる振りをしながらずっと過ごしていた。
 そして二次会終了後、一階のロビーでそれは起こった。
「だからね、おめでとうとは言ったものの、なんで知らせてくれなかったの、水臭いって思っていたのよ」
「そうだったら、恵子に知らせないわけがないでしょう」
「私も、綾乃に先越されたーて思っちゃった。別に婚約したわけでもないって言うし、今日みたいな日に薬指に指輪なんてはめてくれば、結婚したのねって大なり小なり思っちゃうわよ――。で、わざわざそれをして来たわけ、いい加減に白状しなさい。それ、誰からもらったの?」
「白状するもなにも、なんにもないって、これは、今日を楽しく過ごせますようにっていう、ちょっとしたおまじないのつもりでして来たって、言っているでしょう――。でも、結構訊かれたのよね。皆、しっかり見ているわ」
「そういうものよ――。その指輪をおまじないにしたってこと、やっぱり引っかかるわ。絶対怪しい」
「恵子、信じてよ」
「いつまでも隠しておけるものではないのよ。もったいぶってないで、さっさと言っちゃいなさいよ」
「もう、安代ったら、しつこいわよ」
 綾乃と三田恵子、岩崎安代の会話が耳に入って来て、静馬はその場に突っ立っていた。脳裏には自分は何か間違えていたのかもしれない、そんな考えがぼんやりと浮かんで来ていた。
「どこかの石頭さんは、左薬指に指輪をしている人は皆、結婚していると頭から決めつけていたんですか? 発想が古いというか貧困というか、思考が単純というか短絡的というか――」
 そんな言葉を静馬は聞いた。





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