落花流水 13


 綾乃は、同窓会の行われたホテルを出ると、祭りの終わったあとのむなしさ、寂しさに似た気持ちで夜の街を一人さまよっていた。ふと前方から歩いて来る学生風の男女の姿に目が行った。恋人同士なのだろう、二人は腕を絡めて寄り添うようにしている。
 綾乃はいつしか足を止めていた。
 男女が綾乃の横を通り過ぎる時、女性は華やかな笑い声を上げると両腕でぎゅっと男性の腕にしがみついた。
「これじゃあ、歩き難いだろう」
 男性が笑い交じりで言った。
 綾乃は去って行く男女の背後姿をじっと見守っていた。
 土曜の夜はまだこれからとでも言わんばかりにかなりの人が行き交う街中は、賑やかだった。
 綾乃は、そのような周囲の様子に無関心でいたのだが、親密そうに寄り添う男女の姿と女性の屈託ない笑い声には強く心を引かれた。
 私もあんな風に静馬に寄り添って笑って過ごしていた――――。
 綾乃は思い返すのだった。
 一歩先を歩いて行く静馬と、私は並んで歩きたくなって、彼の腕にしがみついてやった。静馬は、みっともないとか、迷惑とか、つっけんどんで偉そうな口調で言うものの、私の手を振りほどいたりしないで、私に合わせて歩いてくれた。私がおねだりすると、静馬は困ったような、煩わしいような顔をしながらも、要求にちゃんと応えてくれた。私が嬉しいと言うと、静馬ははにかんで少し顔を赤くした。そんな静馬を見ると、私はもっと嬉しくなった――――。
 男女の姿は見えなくなった。
 綾乃は、力ない足取りで歩き始めた。が、突如としてぞわっとした感覚に襲われた。胸の中で風船が膨らみ始めたような気がした。それはどんどん大きくなって行く。綾乃は今にもこの身体ごと破裂するのではないかというような恐怖と苦しさを感じながら、静馬に腕力で押さえつけられ、彼の激情を無理矢理受け入れさせられた時のことを嫌でも思い出さざるを得なかった。
 好きな人と肌を合わせることは、神聖なことだと思っていた。男の人に生まれたままの姿を見せることができるだろうかと思っていたのだが、静馬にだったらできそうな気がして、見て欲しいとさえ思うようになって行った。
 だから、初体験の相手が静馬であることには、何も問題はなかった。
 しかし、それまでそのような素振りを見せなかった静馬に突然身体を求められた時、彼のあまりの豹変振りに戸惑い、とても応じる気にはなれなかった。不安だらけの自分をわかってくれない悲しさも感じた。
 初めてを大切にしたい――――。
 綾乃はそう想い、その時を密かに胸に描いていたのだが、それと実際に我が身で味わったこととは違っていた。静馬だったら優しくリードしてくれると信じていたのに、して欲しいことを何一つしてもらえず、ひたすら怖くて痛いだけだった。
 静馬が逃げるように部屋を出て行ったあと、布団をすっぽり被ってまんじりともしないでいたら、やがて電気とは違う明るさを感じた。そしてはっと気づいたら正午近かった。いつの間にか眠っていたらしい。ようやく布団から出る気になって起き上がったら、身体の中からじゅわっと滲み出て来るものを感じた。生理が始まったのだ。これは妊娠を心配しなくてもいいということなのだろうと少し安心した。
 しかし、その後、静馬は一向に姿を見せないし、連絡もなかった。
 時間が経つにつれて、なんだか静馬に裏切られたような気持ちになって行った。
 こちらから連絡をするのは、彼の行いを正当と認めたことになってしまうから、それが嫌でしなかった。そこには女の意地とプライドがあった。
 口頭試問の日、今日こそは静馬に会える、どうしても会わなければならないと思い定め、恋しさと憎悪、期待と不安、信頼と疑心、相反する感情に揺れながら大学へ向かった。
 静馬は表情を輝かせて飛んで来てくれた。顔を合わせられたことを心底喜んでいた。本気で心配してくれていた。
 それを見たら、生真面目で責任感の強い静馬は、私を裏切るような人間ではなかったのに、それをよく知っていたはずなのに、何を勘ぐっていたのかとばかばかしくなって来て、気持ちがほぐれかけた。しかし、ここで甘い顔を見せてしまったら、彼をつけあがらせるだけだと思って気を引き締め、心に溜まっていたことを思う存分ぶつけてやった。
 ところが、そうしているうちにまた、彼のことが怖くなって来て、逃げ出した。
 それでも落ち着いたら、言い過ぎたような気がした。気持ちをぶつけたことを悔やみはしなかったが、静馬を傷つけるような酷いことも言ってしまい、それに静馬は事情を説明しようとしていたのに、こっちは聞こうともしなかった。
 どうにも後味が悪かった。
 落ち着いてもう一度話すべきだと思い直したものの、なんだか声をかけ難くて、彼の方から何か言って来てくれるのを期待して待っていた。そのくせ妙な意地で彼を避けていて、結局貴重な時間を無駄にしてしまった。
 口頭試問の日も、彼を怖れ拒絶したというのに、追いかけて来て捕まえて欲しいと心のどこかで思いながら走っていた。しかし、そうはならなかった。
 四月からの勤務先が第二本社に決まった時、どうしようと思ったが、どうしようもなかった。静馬と出会う前に戻るだけのことだと半ば開き直って半ば投げ出して、四年間を過ごした地を離れて家族のもとへと、彼には黙って帰った。
 環境が変わったのは、悪いことではなかった。
 会社とは想像していた以上に厳しいところだった。任された仕事を時間内にきちんと仕上げるには、仕事以外のことを考えている余裕などなかった。つまり後ろを見て落ち込んでいる暇がなかったのだ。
 へとへとになって家に帰れば、「お帰り」と母が迎えてくれた。誰かが待っていてくれるのは嬉しいことだった。
 上の姉は、
「また、喧嘩しちゃったから、ちょっと頭を冷やしに来たわ」
 と言って息子を連れてちょくちょく実家にやって来た。そうすると、その姉と母と、熱烈恋愛中の下の姉も加わって、
「まったく、男という生き物は――」
 と愚痴話が始まる。結局のところ、
「男と女では視点や感情の表し方が違うからしかたない」
 と彼女たちは言う。
「うちの長男は旦那、でっかい甘えん坊の長男よ」
 と上の姉は諦めたように笑いながら言う。
 それを綾乃は感心しながら聞いていた。
 勤め初めて一、二箇月した頃だった。
「皆川さんって、男の人が苦手みたいね」
 と言われた。そう見られているらしかった。それでも交際を申し込んでくれた男性がいた。でも、断った。
 そのどちらの時にも思い出されて来たのは、静馬に押さえつけられた痛み、彼の血走った目、ねっとりした、生理的嫌悪感をもよおす怖さだった。これを不意に思い出すこともあった。
 この恐怖をくれたのは静馬だけれど、ではもう彼に会いたくないかと言えば、綾乃は会いたくないとも会いたいとも言えなかった。静馬という人間そのものは、おぼろげな光として綾乃の中で瞬いていた。
 静馬とようやく会う機会を得て、じっくり話したいと思っていた。ところが、静馬から避けられてはいないようだったが、こちらが一歩踏み出すと、あちらは一歩退くような感じで、ある距離以上は近づかせてくれなかった。
 指輪のおまじないは、効果がなかった。
 静馬は何も言ってくれなかったのだから、静馬がまだ私を想っているなどと諸岡君はどういうつもりで言ったのかわからないけれど、そんなことあるはずがない。私の想いは静馬に向かってひっそりと流れ続けていたこと、私の還る場所は静馬だということにやっと気づいたというのに――――。
 自分の気持ちを整理しながら帰宅した綾乃は、エントランスに立つ静馬を見て、驚きのあまり目を見開いた。なんで、どうしてと首を傾げながら足音を忍ばせて近づき、ある距離を置いて立ち止まった。
「静馬なの――?」
 ひどく緊張しながら声をかけた。

 温かみのある照明に照らされたエントランスに立つ静馬が、こちらへ向き直ろうとする。その動きが、綾乃の目にはスローモーションのように見えていた。
 綾乃の胸はどきどき鳴っていた。
「よお、お帰り」
 静馬は笑い顔で言った。
 綾乃の心臓がどくんとひとつ大きく跳ね、目は彼の笑顔に奪われた。
 綾乃は暗夜に灯を得たようで嬉しくてほっとした。その気持ちを乗せて、
「ただいま――」
 と、静馬に伝え返した。
 静馬の笑顔が輝きを増した。
「もう、びっくりしたわ――」
 綾乃は言って、静馬に向かって歩き出した。
「こんなことなら、まっすぐ帰って来ればよかった――」
 興奮を抑えながら言って、静馬の正面に立った。彼からは引いて行くようなものは感じられず、むしろ安心して留まっているようなものが感じられた。
 綾乃は、一瞬なんて言おうかと迷い、
「あのね――、安代や恵子とずっとお喋りをしていたの」
 と思わず言っていた。
「安代、結婚が決まったんだけれど、相手のご両親と同居することになったんですって。二世帯住宅での同居なんだけれど、メリット、デメリットのどちらもあるって、その他にも色々とこぼしていてね、マリッジブルーになっているみたいだったわ。恵子は今、ロスで仕事をしているのよ。――ああ、静馬は幹事だから知っているわね。――来月、日本に帰ることになっていたんだけれど、同窓会に出たいから予定を早めたんですって。それでね、どうやら向こうに好い人がいるらしいのよ」
 と勢い込んで、ホテルにいる間に話したことを今しがた話していたように語った。
 静馬は黙って聞いていた。
「三人ですっかり盛り上がっちゃって、それでね、遅かったのよ――」
 と言って話を終えた。心の中では、自分は何を言い訳しているのかしらと思っていた。
 静馬は穏やかな表情でこちらを見ている。その様子に、綾乃は肩から力が抜けて行った。
「静馬、大学を卒業してから背、伸びた? 最初見た時、体ががっしりして大きく見えたのよ」
「少し伸びた。でも、がっしりと言われることは、あまりないな」
「そう、でもそう見えるわよ……。ねえ、いつ来たの……?」
「ついさっきだ」
「そう、さっきなの……。ねえ、なんで来たのって、訊いてもいい……?」
「綾乃に会いに来る以外に、どんな理由があるって言うんだ? ホテルでは慌しくてゆっくり話ができなかっただろう。――言い忘れたことがあって、どうしても今日中に言っておきたかったんだ」
「あら、そうだったの……。静馬がわざわざ来てまで私に言いたいことって、一体何かしらね……?」
 二人は淡々とした口調で言葉を繋いで行った。
「ねえ、静馬、なんで笑っているの……?」
「綾乃こそ、なんで笑っているんだ?」
「それは、静馬が笑っているからよ……」
「俺も、綾乃が笑っているから笑っている」
「そう……。ねえ、静馬、なんでそんなに目を輝かせているの……?」
「綾乃こそ、目がきらきらしている」
 二人は微笑みながら互いの瞳の中にいる己の姿を見詰めていた。
 暫くそうしたのち、先に口を開いたのは綾乃だった。
「私もね、静馬ともっとお話がしたかったの。私の部屋に行きましょう」
 すると静馬は不敵な面構えをして、
「俺は行ってもいいんだが、俺のことを相手にどう説明するつもりか、それを聞いておきたいね。俺は誰にも遠慮しないで言いたいことを言う。そうしたら、綾乃の同居人はさぞかし不愉快な思いをすることになるだろうよ。どんなことになっても、綾乃にそれを受け止める覚悟あるなら、俺をそいつの前に連れて行け」
 とずけずけ言った。
 綾乃はきょとんとしていた。
「えっと、あの、相手とか同居人とか言っているけれど、それ誰のこと?」
「例えば、その指輪の贈り主とか。そいつが部屋にいて、綾乃の帰りを待っているんだろう?」
「えっ、あの、ちょっと待ってよ。どこをどうしたらそういうことになるの? 私は一人暮らしよ。部屋で待ってくれている人なんていないわ」
 綾乃は戸惑い気味に言って、
「それにその指輪って言うのは、この指輪のことよね?」
 と、静馬の方に向けて左手の甲を自分の顔の高さまで上げた。
 静馬は、指輪についている深い透明感のある水色の石を見た。
「静馬、いつ、この指輪に気づいたの?」
「受付で気づいた。綾乃は右利きなのに、左手で会費を出しただろう。そのあとも、左手の使い方がわざとらしかった。俺に指輪を見せたくて見せたくて仕方がないって感じだった」
 綾乃は、はっとしたような顔をしたかと思ったら、
「そこまではわかっていたのね……。それで、この指輪ことを気にしていたの?」
 と、左手を静馬の顔へぐっと近づけた。
「俺はこういうものには、まったく興味がない」
 静馬は咄嗟にそう言ってしまい、そして綾乃の左手をそっと押すようにして下へ持って行った。
「そうだったわね――。静馬って、普段から高級品に囲まれているから、こういうものに対する感覚が麻痺しているのかもね――」
 綾乃は言って滑稽じみた悪戯っぽい笑いを浮かべると、
「でも、私が誰からこれをもらったかには、興味があったのよね? 静馬の言い方はそういう風に、指輪の贈り主のことをすごく気にしているように聞こえたわよ」
 と言った。
 しかし、静馬はうんともすんとも言って来なかった。
 綾乃は、静馬の取った態度の理由がわかって来た。どうやら彼は指輪のせいで、心があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしていたらしい。考えてみれば、つき合っていた頃も、このようになかなか核心に辿り着けないでうろうろしていることがあった。
 彼は、よく言えば真面目なのだが、悪く言えば頭が固い。自分に自信を持っていて、自分の考えに囚われて、他人の話を聞かないで自分の考えだけで判断したがる。それで情報が足りなくて、おかしなところに迷い込む傾向があった。
 綾乃はそれを思い出しつつ、改めて考えてみた。おそらく彼の頭の中には綻びがたくさんあるのだろう。その綻びから必要か否かに関係なく無秩序に記憶がぽろぽろこぼれ落ちていて、その結果、判断材料に不足して突拍子もないことを考えるのだろう。
 そのようなことを綾乃は思っていた。
 静馬は、彼女の口ぶりからやはり指輪は贈られたものだと思っていた。しかし、それをはっきりさせない彼女の気持ちが誰にあるのか、それを探り出そうとするかのように彼女の顔にじっと目を当てていた。





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