春の物思い 2


 在原千鶴が渡部祐二と出会ってから三度目の春になった。
 二人が会うのは、一日の仕事を終えてからが多かった。
 千鶴が肌を合わせた男性は、彼が初めてだった。彼は、時に甘く優しくとろかすように、時に熱く激しく壊すように千鶴を愛した。
 千鶴は彼の愛に身を預けると、心が満たされて行くのを感じた。美容師として早く一人前になりたくて、必死で頑張って来た。ずっと気を張り詰めていた。
 心の力を抜いて、ありのままの自分を見せて任せられる場所ができた……。
 千鶴は、彼の肌のにおいに包まれながら、彼の熱く激しい鼓動を感じながらそう思うのだった。
 ところで、その祐二は、海外に出張することが多かった。彼は出張から帰って来ると、千鶴の勤める美容院にやって来る。彼はあくまで客として訪れたし、千鶴もあくまで客として迎えた。彼は帰って来て千鶴にシャンプーをしてもらうと、ようやくほっとするのだと言う。
 そして、つき合ってほぼ二年経った今回の出張は、これまでで一番長かった。出発前に長くなるかもしれないとは言っていたが、帰りの飛行機が決まったという連絡があったのは、出発してから四週間近く経っていた。
 千鶴は彼を空港まで迎えに行ったことが二度あった。その時は、彼の帰国日と美容院の定休日が重なったのだ。今回は定休日ではなかったが、千鶴はどうしても彼を空港で待ちたくてオーナー先生とかけ合った。オーナー先生は、渡部様と言うお客様をお迎えに行くということでなんとか許してくれた。迎えに行けることを彼は知らないから驚くだろう、と千鶴は楽しみにしていた。
 飛行機は予定通り空港に着いた。これに千鶴はほっとした。
 彼が到着口に姿を見せた。千鶴は顔を綻ばせ、駆け寄ろうとしたのだが、反射的に足を止めた。彼は外国の紳士風の人に顔を向けて、何か話しをしているようだった。二人のそばには外国のビジネスマン風の人も一人いた。千鶴は、祐二とあの外国の人たちは知り合いなんだろうと思った。
 三人がこちらに向って歩いて来そうな気がしたので、千鶴はなんとなく近くの柱の陰に身を隠すと、三人の様子をこっそり伺った。ビジネスに徹しているという雰囲気が彼らにはあって、とても千鶴が顔を出せるような感じではなかった。
 ロビーには様々な国の言葉が飛び交い、ざわざわしていた。
 祐二とつき合い始めてから英語を習っていた千鶴は、ざわめきの中から英語の音を耳で拾っていた。祐二も英語で話しているのだろう、と離れたところから彼をそっと見守りながら思った。
 三人は千鶴がいる方には歩いて来なかった。
 千鶴は遠ざかって行く祐二に向かって、
 お帰りなさい。元気そうで良かった。
 そう心の中で言って目を細めた。そして気分を変えるように大きく息を吐き出すと、
「折角来たんだから、色々見てから帰ろう」
 そう言って、笑いながら首をすくめた。
 千鶴は見学デッキから望遠鏡で飛行機の離着陸のシーンを眺め、その迫力に喜んでやたらはしゃいだ。そうやってできるだけ祐二のことを考えないようにしていた。
 その日の夜、祐二から千鶴に電話があった。彼は、無事に帰って来たが、今日は家に帰れないこと、向こうの重役が来ていて、その世話で暫く自由が利かないことを忙しない口調で言った。その翌日から、今どこにいる、これからどこに行くというようなメールが何回か送られて来た。彼は席の暖まる暇もないようだった。
 そして帰国から十日後、千鶴が仕事を終えて美容院を出たら、ここ二日ばかりメールを送って来なかった祐二がいきなり目の前に現れた。
「えっ、祐二? わあ、びっくりした……。いつからいたの」
「来たら閉店の準備をしていたから、待っていたんだ。――喜べ千鶴。明日は休みだ。正確には明日から三日間休みだ。やっと解放されたよ」
 これに千鶴の顔が笑みでいっぱいなった。明日は美容院の定休日だった。
「やることがもう少し残っているが、それはこれから帰ってやれば、今夜中には終わる。明日はゆっくりできる。――俺、千鶴の作ったものが食べたいよ」
「それだったら、明日は私が祐二のところに行って作るわ。それと、林檎を買って祐二のところに置いてあるの。食べてね。――家に帰った様子があったけれど? やっぱり疲れているわよね。大丈夫……」
 千鶴の表情に憂いが浮かんだ。
「一度着替えを取りに夜中に帰った。当然、疲れているよ。でも、千鶴の作ったものを食べれば、疲れなんか吹き飛ぶ。――それじゃあ、明日待っている」
 明日のためにその日はそれで別れた。

 明日になった。午前の早いうち、千鶴は携帯電話を手にすると祐二に電話をかけた。
「私よ。今から行ってもいい? ――いつものスーパーで買い物をしてから行くわ。――うん。直ぐに出るわね」
 話し終えた千鶴は、携帯電話の電池残量がほとんどないことに気がついた。これでは持って行っても仕方がないし、今日は持って行く必要もないだろうと思い、充電状態にして、置いて出かけた。
 暖かくて気持ちの良い日だった。
 千鶴は神社の横を通りがかった。そこには大きな桜の木が一本あって、路上に枝を伸ばしていた。桜は花の盛りも過ぎて、薄紅の花びらをはらはらと降らしていた。
 ポシェットを肩から横がけにしてスーパーに入った千鶴は、出て来た時にはやたらに膨らんで長ねぎがはみ出した特大のナイロン製バッグも肩からかけ、片手には大きなレジ袋を提げていた。
 スーパーと道を挟んだ隣に公園があった。ここにも桜の木が何本かあるが、やはり花の盛りは過ぎていた。
 千鶴はその公園を横切って歩いて行った。進行方向には、この辺りで一番高い十四階建てのマンションが見えていた。その十階に祐二は住んでいた。祐二のマンションと千鶴のアパートと美容院を結ぶと、ほぼ正三角形になった。
 千鶴が歩いている道は、車道と歩道に分かれていたが、それほど広い道ではない。車の往来がそこそこにあって、お婆さんが二人並んでシルバーカーを押して歩いていた。
 頭上で飛行機の音がした。
 千鶴は何気なく空を見上げた。飛行機は低空を飛んでいた。不意に千鶴は空港に迎えに行った日のことを思い出して立ち止まった。あの日空港にいたのに、声をかけてはいけないような気がして遠くから見守っていたことを彼に言うつもりはなかった。
 飛行機は次第に遠ざかって行く。それを千鶴は眺めながら、どこに行くのだろうか? と考えた。飛行機は、ところどころ淡い雲の浮かんでいる白く霞みがかった空に小さな点となり、やがて見えなくなった。
 太陽が白く輝いていた。千鶴は、その白い輝きが憧れ続けている純白のウエディングドレスの輝きに似ていると思った。
 太陽は柔らかな光を降り注いでいた。その光が千鶴の身体を優しく包み込み温めてくれていた。そんな光を持つ春の太陽を、千鶴はまるで祐二のようだと思った。
 今、目にしている太陽は手の中に入るような大きさだった。千鶴はなんだか太陽を空からもぎ取れるような気がした。太陽に向かって手を伸ばし、太陽を掴むつもりで拳を握った。そうしたら、太陽の光がもろに目に入って、千鶴は思わず目を閉じた。すると、閉じた瞼の裏に太陽と祐二の顔が重なって浮かんだ。
「祐二と太陽……」
 千鶴はそう呟くとゆっくり空を仰ぎ見て、掌を太陽に向けて伸ばし、太陽を捕まえるつもりで指を軽く折り曲げた。掌に温もりを感じ、手の中から光が溢れ出てくるように見えて、なんだか太陽を掌中に収めたような気分になった。
「何をしているんだ?」
 そんな声がして、千鶴は振り返った。いつの間にか祐二が間近に立っていた。
「あら? 本物。――迎えに来てくれたの」
 千鶴は笑い顔で言った。
「何が本物なんだ?」
 祐二も顔に笑いを浮かべて言いながら、千鶴が手に提げているレジ袋の持ち手に指をかけた。
「祐二、飛行機が飛んでいるわ」
 その言葉につられて、レジ袋を手にした祐二は空を見上げた。白い機体、赤い尾翼の飛行機が悠然と飛んでいた。
「私は店の慰安旅行で初めて飛行機に乗ったの。沖縄が二回、北海道が一回。乗ったのはそれだけよ。でも、祐二は当たり前のように飛行機に乗っているのよね? さっきも飛行機が飛んでいて、あれはどこに行くのかな、祐二がいつも行くところかなって考えながら見ていたの」
「それで空を見上げていたのか? ――千鶴があまり飛行機に乗ったことがないのも、日本から出たことがないのも、もう何回も聞いている。千鶴は日本しか知らないんだよな……。――手を伸ばしてにやにやしていたのは、なんだったんだ」
「あら、見ていたのね」
「俺だけじゃない。通行人がおかしな目で見ていた」
「通行人? 人なんて通ったの。全然気がつかなかったわ。――手を伸ばしていたのは、ほら、あの太陽を見て。なんだか空からもぎ取れるような気がしない。それで、ちょっと試していたの」
 千鶴は太陽を指差しながら、楽しそうに細めた目で祐二を見た。
「全然しない。試すとか試さないとかいう以前の問題だろう。あんまり遅いから、どこで道の草になって根っこを生やしているのかと見に来たら、これだ。いつもいつも面白いことを考えつくもんだ。飽きなくていいんだが。――なあ、千鶴。海外勤務の話が出ているんだ」
「えっ? いっ、いつからなの」
 千鶴は目を見開いた。いつかそうなるかもしれないとは思っていたが、いざ彼の口から聞かされたら、それは思っていた以上に衝撃的で足が震えた。
「ほのめかされた程度だから、確実ではない。そのまま立ち消えになることもある。だが、そういう話があるということは、頭に入れておいてくれ」
 千鶴は反射的に頷いたものの、思考は停止していた。
「さあ、行こう。俺は千鶴の手料理に飢えて限界だ」
 祐二は弾んだ声で言うと千鶴の手を取って歩き出した。普段なら人前で手を繋ぐようなことはしない祐二だった。
 千鶴は、太陽に手をかざしたような温かさを繋がれた手に感じた。
 私の太陽……。
 千鶴はそう想いながら彼の手を強く握り返した。心の片隅に先への不安を抱えつつ、一緒にいられる時間を大切にしようと思った。
 祐二の部屋に着いた。
 千鶴は玄関の上り口にバッグを置いてどかりと腰を落とし、
「重かった。祐二が来てくれて助かったわ」
 と、脱力して首を垂れた。
 祐二も荷物を上り口に置いた。それから長ねぎのはみ出た膨らんだ特大バッグを見て言った。
「その中も全部食材なのか? また随分と買い込んだものだ」
「祐二の好物をお腹いっぱい食べさせてあげるには、これくらい必要だと思ったのよ。ないよりはあった方がいいでしょう? なんとなく買わないと不安だったのよ。――でも、ちょっと多かったかしら?」
 千鶴は自分の買ったものをしげしげと眺めた。
「ちょっとじゃなくて、かなり多い」
 それは咎めるような口調で、千鶴の心が縮こまった。千鶴は、祐二のためにと思ってやったことを、その祐二から非難されたような気分になった。
 千鶴は祐二に目を当てた。立ったまま見下ろしている彼の様子がいつもと違うように思われ、距離感を感じた。が、そんな自分の思いを打ち消すように、
「どっこらしょ」
 そう掛け声をかけて立ち上がると、
「三日間休みなんでしょう? 三日分だと思えばいいのよ。さあ、始めるわよ」
 靴を脱いで上がり、両手に荷物を提げ、リビングに入って行った。
 玄関に残された祐二は、考え悩む表情を浮かばせながら、
「やっぱり一人にしておくのは心配だ……」
 そんな呟きを漏らした。海外勤務の可能性を告げた時の千鶴の不安そうな様子が頭から離れなかった。
「そろそろはっきりさせないといけないな……」
 そんな独り言を言いながら靴を脱いで上がった。
 祐二がリビングに入ると、リビングの片隅に千鶴がしゃがんでいた。彼女のそばには蓋が開かれ、りんごの文字と絵がかかれた箱があった。彼女はその箱の中を見ていたらしい。
「ねえ、林檎食べなかったの?」
 千鶴は不満そうな視線を祐二に向けた。
「林檎があるとは言われたが、まさかひと箱あるとは思わなかった。配達日時を指定して俺のところに送らせるなんて、そういうところはしっかりしているな。ここにそんなにあってもしかたないから、半分……三分の二引き取ってくれ」
「これは祐二のために買ったの」
 千鶴は林檎一個を片手に持って少し怒ったような、気合いの入った表情で祐二に迫り、
「疲れているんでしょう? 林檎の酸は疲労を回復する働きがあるのよ」
 その言葉を皮切りに林檎の話が始まった。
 祐二は心の中で、またか、とため息混じりに呟いた。
 千鶴は林檎が大好物だった。しかも、食べるだけではなく、林檎についてやたら詳しかった。林檎の効能を並べ立て、林檎料理のレシピ、林檎にまつわる神話や伝説やことわざ、各産地における生育情報などなど、林檎の話を始めたら止まらない。携帯電話の使い方をなかなか覚えられなかった機械音痴の千鶴が、林檎の最新情報を入手するためにインターネットを始めたと聞いた時には、その熱心さに祐二は脱帽した。
 こうして林檎の話が始まると、祐二は勘弁してくれとは思うものの、話の腰を折るようなことはしなかった。それこそ頬を林檎のように赤く染めて、楽しげに喋っている千鶴を見るのは嫌ではなかった。仕事をしている時の千鶴には凛とした美しさがあったが、こうして喋っている彼女にはあどけない少女のような愛らしさがあった。祐二はどちらの千鶴も好きだった。
 どこに行ってもこの人は変わらないでいてくれるだろうか……?
 そんな想いが祐二の脳裏をよぎった。
 彼は、千鶴の影響で林檎に興味を持つようになったわけでも、林檎の効能を全面的に信用しているわけでもなかった。ただ、林檎には美肌作用もあるらしく、これには頷けるものがあった。千鶴の肌は白くてすべすべしていて、甘い香りがした。その身体から溢れ出す花蜜も甘くて、疲れた心と体を癒してくれた。
 リビングには林檎の甘い香りが漂っていた。それに刺激されたのか、祐二は千鶴の肌と花蜜の味を思い出して、身体の奥が疼き始めた。





                                   HOME 前の頁 目次 次の頁