春の物思い 3


 祐二が最後に千鶴を抱いたのは、渡航する前の晩だった。もう一箇月以上抱いていないし、口づけさえしていなかった。
「林檎剥いたら食べる?」
 そんな声を祐二は聞いた。林檎の赤が妙に目について、甘い香りが強くなったような気がした。香りが身体にまとわりついて、呼吸がしにくくて、頭がぼうっとして来た。
「うさぎの形に剥く?」
 そう口にした薄紅の唇が笑みの形を作った。
 次の瞬間、祐二は目の前にいた千鶴を抱え込んでいた。
 千鶴の手にあった林檎が鈍い音を立てて二人の足元で弾んで、床の上を転がった。
 祐二はひたすら千鶴を求めた。舌で歯列を割って口中を愛撫して湧き出て来る花蜜を味わい、指で花びらを割って温かな湿った感触を味わった。千鶴の漏らす悩ましい声が、祐二の耳を楽しませ、彼の情欲を煽った。
 祐二は千鶴を絨毯の上に組み敷くと、自分の牡を取り出して、それを彼女に握らせた。
「もう、こんな……」
 千鶴は吐息混じりに漏らすと、彼の雄々しくそそり立つ牡を指で優しく撫でた。祐二も千鶴の茂みの奥の雌花を指で愛撫する。
 春の陽光溢れる明るいリビングに、二人の艶めかしい喘ぎ声が響いていた。
 祐二は、千鶴に背中へと手を回されてぎゅっとしがみつかれた。彼女は荒い息遣いの中、声にならない声を途切れ途切れに漏らしながら身をくねらせる。
 祐二はまた、彼女の片手を自分の牡に添えさせた。
「まだだ、続けろ」
 祐二は、添えた彼女の手を動かしながら命令するような口調で言った。が、千鶴は首を横に振り、身悶える。
「もう、欲しいのか?」
 祐二は千鶴の頭を抱え込み、耳元で囁いた。
「欲しい……」
 喉の奥から絞り出したようなかすれた声で千鶴が答えた。
「脱げ」
 祐二は言うと、今度は千鶴を立ち上がらせた。
「全部脱いで俺に開いて見せろ。そうしたらくれてやる」
 そう言って意地の悪い笑みを顔に浮かべ、花蜜で濡れた指を舌先で舐めた。
「ここで……」
 千鶴はリビングの明るさにうろたえた。
 祐二は当然という顔で急かすように顎をしゃくると、唇に冷笑を浮かべながら妖しく光る目で千鶴を見据えた。
 祐二の目に魅入られた千鶴はそうするしかないような気がして、スカートのホックを外し、ファスナーを下ろしかけた。その時、電話の呼び出し音が鳴った。千鶴は手を止めて、我に返ったような顔を祐二に向けた。
「放っておけ」
 祐二は言った。
 しかし、千鶴は嫌そうに顔を顰めて首を左右に振った。興が削がれた様子だった。
 祐二は忌々しそうに舌打ちをして、しつこく鳴り続けているリビングテーブルの上の携帯電話を手にした。途端、彼の表情が引き締まった。
「渡部です。――自宅にいます。何か問題が起きたのですか?」
 祐二は、電話に向かって改まった口調で話しながら服の乱れを直していた。
 千鶴は服装を整えて、祐二の様子を見ていた。彼の話しぶりからして、会社からかかって来たのだろうと思った。彼の口からは「ミスターが」という言葉も出た。千鶴は空港で見た外国の紳士風の人が脳裏に浮かび、何故か胸がざわついた。
「会社からだ。例の重役から電話があったそうだ」
 電話を終えた祐二は言った。
「その人は今、どこにいるの?」
「自国に戻っている」
「向こうは、今は夜よね」
「俺とも話したかったようで、こっちに合わせてかけて来たらしい。――込み入った話があって、それを早くしたいが、電話ではなんだから、自宅にいるなら今からでも来れるだろう、出て来いだと……」
「それだったら早く支度して行かないと」
 千鶴は胸のざわつきを抑えて言った。
「ああ……」
 祐二は眉を寄せて喉の奥で返事をすると、ため息を吐きながら開き戸で仕切られた向こうの部屋に行った。
 千鶴は疲れたように息を吐き出すと、手を後ろ手に組んで項垂れてじっと立っていた。
 祐二は程なくスーツに着替えて出て来た。
 セカンドバッグを持って玄関に向かう祐二のあとを千鶴はついて行った。
「なるべく早く帰るから」
 祐二は靴を履きながらそう言った。
「ご飯を作って待っているわ」
「ああ。――ちゃんと鍵をかけておくんだぞ」
 祐二はひどく心配そうに言った。
「はい」
 千鶴は微笑んだ。
「行って来る」
 祐二は千鶴の頭を引き寄せて軽く唇を合わせると、玄関から出て行った。
「仕方ないじゃない」
 千鶴はそう呟いて鍵をかけてからリビングに戻った。白い光に満ちたリビングの床に転がっている赤い林檎が目に入った。千鶴は林檎を拾い上げた。林檎には傷があった。千鶴はその傷に指を当てた。
「ふにゃふにゃだわ。落とした時にできたのね」
 その林檎を千鶴はアップルパイに使うことにして、それを持ってキッチンに入った。
 食材を入れたままのバッグとレジ袋が床の上に置かれてあった。
 千鶴は先ずレジ袋の中から食材を取り出して、流しの上に並べ始めた。すると、六個入りパックの卵が全部ひび割れているのに気がついた。
「もう、祐二ったらどういう持ち方をしていたのよ」
 千鶴は思わず言った。卵の中身は出ていなかった。けれども、千鶴は妙にがっかりして、祐二のことを小憎らしく思いながら卵を流しの上に置いた。と、不意に何かが込み上げて来た。
「祐二……」
 そんな呟きを漏らしながらその場にしゃがみ、膝を抱えて顔を伏せた。目の奥が熱かった。
「寂しいよ……」
 そう呟き、肩を震わせてすすり泣いた。

 千鶴はソファに座ってテレビのバラエティー番組を一人で観ていた。
 芸人が何かを言うたびに、テレビの中では笑いが起きるが、千鶴には何がおかしいのかさっぱりわからなかった。
 芸人が大袈裟な身振りで、口から唾を飛ばして身内の裏話を披露している。千鶴は見るのも聞くのも嫌になって、適当にチャンネルを変えた。
 旅番組になった。熟年の芸能人夫婦が身体にタオルを巻いて露天風呂に入っていた。
 またこれか、と千鶴は思った。どうせこのあとは、宿自慢の料理とわざとらしくスポンサー提供のビールが映し出されて、あの夫婦が「わあ、すごい」「これ、美味しい」を連発するのだろう。
 千鶴は何を観ても直ぐに飽きてしまって、チャンネルをしきりに変えた。
 ニュースになった。アナウンサーが、祐二が出張で行く都市の名前を言った。都市の映像も映し出された。
 ソファに深く腰かけていた千鶴は、思わず身を乗り出した。祐二はあの通りをいつも歩くのかもしれない。そんなことを考えながら映像に見入った。
 次のニュースに移った。
 千鶴はがっかりしてテレビを消すと、リビングテーブル横のマガジンラックから雑誌を一冊取り出した。祐二が愛読している英字の雑誌だった。
 千鶴は雑誌を開いて見た。ところが、内容が専門的過ぎた。自分の英語力では理解できないと諦めて、千鶴は雑誌を元のところに戻した。
「遅いな……」
 千鶴は呟いた。時刻は九時を回ったというのに、祐二はまだ戻っていなかった。
 もしかすると携帯電話にメールを送って来ているかもしれない。そう思って、千鶴は自宅に一旦戻ることも考えたのだが、その間に祐二が帰って来ることもあり得る。それで、どうしようかと迷っているうちにこの時間になってしまった。
「お腹減った……」
 千鶴は口ごもった声で言うと、キッチンの方を見やった。
 キッチンの対面カウンターと二人がけのテーブルの上には料理が並べられてあった。アップルパイもある。テーブルは、千鶴がこの部屋に来るようになってから、祐二が買った。
 祐二が帰って来るまで食事をしないで待っているつもりの千鶴は、林檎で空腹をしのごうと考えて、ソファから立ち上がると林檎の箱の前に行きかがんだ。
 改めて林檎を見た千鶴は、これはあの人には多過ぎると思った。祐二のために十キロ入りを買った。千鶴はたくさんあって嬉しくて張り切っていた。しかし、あの人がこれを見てどう思ったのかを、遅まきながら考えた。驚いたか、呆れたか、少なくとも喜びはしなかっただろう。
 千鶴は、またやり過ぎてしまったと肩を落とした。千鶴が何か面白いことや、変わったことや、ずれたことをしても、祐二は千鶴らしいって優しい目をして言う。だからと言って調子に乗ってやり過ぎてばかりいると、あの人から負担に思われる時が来るかもしれない。ひょっとしたら、もう負担に思われているのかもしれない。
 千鶴は、祐二から、多いとか、引き取れとか言われたことが脳裏に浮かんで来た。が、直ぐに頭を振った。あの人を信じていればいいんだと思いながら自分の頭を小突いた。
「それにしても遅いな……」
 そう口の中で呟きながら、のろのろと立ち上がった。

 春は、命の芽生える季節であり、愁いを感じる季節でもある。そんな春の夜も遅くなってから、祐二は帰宅した。
 玄関に入った祐二は、リビングドアにはめ込まれたすりガラスがオレンジ色に染まっているのと、千鶴の靴があるのを見てほっとした。メールを送ったのに返信が来なかったので、どうしているのかと気になっていた。
 祐二は目を閉じて、玄関のたたきの上にたたずんだ。その様子は何か思いを巡らしているようでもあり、精神を統一しているようでもあった。
「良し」
 そう言って目を開けると、上にあがった。しかし、そこで少し眉を顰めた。千鶴が迎えに出て来るだろうと思っていたのだが、その気配がまるでなかった。流石に我慢の限界を超えて、怒って拗ねているのだろうと思った。それと同時に、話を聞いたらそうもしていられなくなるとも思った。どんな言葉を投げつけて来るのだろうかと思いながらドアを開けた。
 リビングには美味しそうなにおいが漂っていたが、そこに千鶴の姿はなかった。
「千鶴?」
 祐二はにおいに胃袋を刺激されながら、千鶴の姿を求めて隣室の戸を開けた。そこにも明かりが点いていて、ベッドの上に千鶴がこちらに背中を向けて毛布もかけないで横になっていた。どうやら寝ているらしい。
 祐二は優しげに、少し困ったように目を細めた。風邪をひいたらどうするんだ。風邪をひいている暇なんてないんだぞ。そう思いながら、足音を忍ばせてベッドに近づいて千鶴の顔を覗き込んだ。そして驚いた。
 千鶴の顔には泣いた跡があった。彼女は、祐二が昼間脱いだシャツを胸に抱き締めていた。寂そうな顔、幼子のように頼りなげな寝姿だった。
 祐二は胸がいっぱいになった。
 一人でいつもこうやって過ごしていたのか、千鶴……?
 そう心の中で問いかけながら、彼女の頬をそっと撫でた。
 千鶴は小さく身じろいで目を開けた。ぼんやりした目を祐二に向けると、ゆっくり起き上がった。
「祐二? 遅い、何をしていたのよ」
 そう不機嫌な声で言った。
「時間がかかる、と最初のメールを送った時には、まさかこんなにかかるとは思わなかったんだ。そのあと、まだ時間がかかる、ってまた送っただろう? これだけでは、千鶴は納得しないだろうとは思ったんだが、かと言って事情をメールや電話で伝えるのは、千鶴だけにはしてはいけないと思ったんだ」
「メール? そう。やっぱりちゃんと連絡してくれていたのね」
「これから帰る、とも送ったが、届いていないのか?」
「届くも届かないも、携帯、家に充電したまま置いて来たから、わからないわ」
「どうりで、返事が来なかったわけだ。――これも、千鶴らしくていいよ」
 祐二は楽しそうに微笑みながらベッドに腰を下ろした。すると、彼の表情がみるみる真剣になって行った。
「千鶴、いいか? 良く聞け。近々、海外勤務になる。今日はその話をして来た。――俺は、千鶴を妻として連れて行くと決めた」
 祐二は千鶴にしっかり目を当てて言った。
 千鶴は目を見開いて、唇を震わせるだけだった。
「その時が来たら、どうしようと迷っていた。環境が変わることで、日本しか知らない千鶴から、千鶴らしさが失われるような気がして、それが嫌だった。でも、いざ行け、とはっきり言われた瞬間、迷いが消えた。千鶴と一緒に行く気持ちが固まった。――千鶴。俺が守るから、俺を信じてついて来てくれ」
 彼の口調は、静かだれど熱かった。
 千鶴は瞼の裏に太陽の白い輝きを見ていた。
 私だけの太陽、私だけの純白の輝き……。
 そんな想いを抱いて眩しそうに目を細めると、頷いた。
「来てくれるんだな? 良かった」
 祐二は安心した様子だった。
「会社には妻を連れて行くと言って来たし、実家の方にも帰りがてら電話をして同じことを言ったから、断られたらどうしようかと思っていた」
「えっ? もうそう言ってあるの」
「千鶴のところにも二人で報告をしに行かなければならないし、俺の方も電話で話しただけだから二人で顔を出さないといけない。それが済んだら籍を入れる。式は落ち着いてからと考えているんだが、それでもいいか?」
「それでもいいわ」
「できることからやって行こう」
「うん。――祐二? 私がそばにいても、本当にいいのね」
 千鶴はおぼつかない様子だった。
 祐二は彼女を抱き寄せた。
「向こうにいる時、一人になると千鶴のことばかり浮かんで来た。千鶴に会えないのが辛くて、心はいつも泣いていた。俺が俺らしくあるためには、千鶴がそばにいないと駄目なんだ」
 そう言って口づけると、身体をベッドに押し沈めて行った。
「俺がヤル……」
 彼は千鶴の服に手をかけた。
 祐二の愛撫が千鶴の身体から花蜜を溢れさせ、甘い香りを放たせる。
「シテあげる……」
 千鶴は茂みに雄々しく立つ祐二の牡に手を添えて薄紅の唇を這わせた。
「ねえ、祐二を頂戴……」
「どっちにだ?」
「こっち……」
 千鶴は茂みの奥の雌花を自ら開かせて祐二を迎えた。





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