春の物思い 1


 駅を発ったバスは、あっという間に市街地を抜け、海岸沿いの道路をゆるやかに蛇行しながら走った。車窓から見える春の海は穏やかだった。前方に小高い山が現れた。咲き始めた桜が山を所々薄紅に染めていた。海と、道を挟んだ海の反対側に続く小高い山を見ながら、覆道をいくつか通り抜けた。
 バスが大きくカーブし、前方に海が広がった。山が後ろに遠ざかり、次の停留所が近づいた。駅からこの停留所までの所要時間はおよそ十五分。
 座席に座っていた在原千鶴(ありはらちづる)は、停車ボタンを押した。
 バスが停留所に止まった。
 千鶴は大きな黒いバッグを肩からかけてバスから降りた。潮の香りが辺りには漂っていた。桜が咲き始めたとはいえ、朝はまだ肌寒かった。千鶴は心持ち肩をすくめ、バッグを肩にかけ直すと歩き始めた。
 チャペルを持つ白い建物が海辺に建っていた。停留所からはいくらも離れていない。彼女はその建物に向かっていた。
「いいお天気で良かった」
 千鶴は視線を上げながら言った。青い空に白い建物が映えて見えた。
 白い建物は結婚式場だった。チャペルは海と空を見渡せるクリスタルチャペル。昼は白い太陽の光に見守られ、夕暮れ時は幻想的な光に包まれ、夜は瞬く星空の下、キャンドルの光に照らされて大理石のバージンロードを愛する人のもとへと進む。そうしたチャペル式を挙げることができるし、古式ゆかしい厳粛な神前式を格調高い檜造りの神殿で挙げることもできた。
 建物に入ろうとした千鶴の耳に「在原さん」という声が届いた。そうかと思ったらそばに顔見知りの結婚式場の女性アルバイトスタッフ・内田さんがやって来た。内田さんは学生だった。
「おはようございます」
 千鶴は言った。
「おはようございます。ここの社長がまた新しい事業を始めるらしいって聞いたんですけれど、それについて在原さんは何かご存知ですか?」
「私も、そうらしいというようなことは耳にしましたが、詳しいことは知らないです」
 二人は話しながら建物の中に入った。
「そうなんですか? 在原さんの勤めている美容院のオーナーが社長の奥さんですよね。奥さんの頑張りがあるからこその社長だと聞きました。それで美容院にいる在原さんなら結構知っているんじゃないかって思ったんです」
「美容院は旦那様の事業とは別で、奥様が経営なさっているんだし、その美容院で旦那様が次に何をやろうとしているかなんて簡単に口にするわけないでしょう。それが普通よ。――私にとっては技術を教えて下さったオーナー先生である奥様のあの頑張りは、確かにすごいと思います」
「それじゃあ、今日もお互い頑張りましょう」
 内田さんはそう言って去って行った。
 千鶴は気合いを入れるようにバッグのひもを両手でぎゅっと握り、
「私もオーナー先生を見習って頑張って、今日も花嫁さんを作ってやりましょう」
 そう独り言のように言うと、自分の持ち場に急いで向かった。彼女は美容師で、その言葉通り花嫁の支度をするためにここへとやって来た。
 見習いのアシスタント時代は大変だった。シャンプーや掃除などの雑用ばかりで閉店を迎え、その後居残って人形を使ってカットやロッド巻き、パーマやカラー液をつける練習を遅くまでやった。それにその時代はオーナー先生の家に住まわされていたので、全く気を抜く暇がなかった。
 オーナー先生は、自分が修行した店は結納でも休ませてもらえなかった厳しいところだったと言う。そこまで融通を利かせてくれない人ではないが、仕事には厳しい人だった。
 千鶴は今では一人前と認めれらるようになり、指名してくれるお客様も増え、住まいも美容院の近くに自分でアパートを借りている。お給料は決して高くないが、なんとかやりくりしていた。
 この結婚式場は、広い海と大きな空に抱かれて永遠の愛の誓いをという宣伝文句の通り、自然景観には恵まれているものの、車でないといささか便が悪いところにあった。出席者には送迎バスの用意もあるのだが、千鶴は電車を一度乗り換えてからバスに乗る。車を買おうかと考えたこともあったのだが、駐車場代や維持費を考えると出費に見合うほどの使用頻度があるようには思われなかった。それにまず、ペーパードライバー講習を受けに行く必要があったので、それが億劫だった。
 挙式ラッシュのその日はアクシデントの連続で、千鶴は仕事が終わった途端、力が抜けて疲れがどっと襲って来た。
 やはり手伝いに来ていたベテラン美容師が、帰りは駅まで車で送ってくれると言う。そしてその人が千鶴に紙袋を差し出しながら言った。
「田舎から林檎を送って来てね。在原さんは林檎が好きだったわよね」
 千鶴の疲れた顔がぱっと輝いた。
「ありがとうございます」
 千鶴はそう言って受け取ると、紙袋の中を覗いた。真っ赤に輝く林檎が五個入っていた。千鶴の頬が林檎のように赤く染まった。

 千鶴は乗り換え前の電車では座れなかった。今度こそ座りたいと思い、望みを託しながら遠くから近づいて来る電車のライトを見詰めた。
 電車がホームに滑り込んで来た。速度を落としながら目の前を通り過ぎて行く電車の中は立っている人も多くて、千鶴はその混み具合に眉を顰めた。
 電車が完全に止まった。それから立ち上がる人もいた。立つ人座る人、降りる人乗る人が入り乱れて動き、せわしない。
 千鶴は空いている場所を探してきょろきょろしながらロングシート車の車両に乗り込んだ。詰めてもらえば座れそうな場所もあったが、高齢者や幼児を連れているならともかく、自分のために詰めて欲しいなどと千鶴は言い出し難かった。
 千鶴は吊り革の環に掴まって立っていた。右に左に、前に後ろに大きくも小さくも身体が揺れる。不規則な揺れは疲労した身体に堪えた。環を握る掌が汗ばみ始め、胸がむかついて生唾が出て来た。肩からかけた林檎の入ったバッグが嫌に重かった。千鶴は瞼を落とし、顔を伏せて耐えていた。
「辛そうですね」
 そんな声がした。
 自分に投げかけられた言葉のような気がした千鶴は、疲れた息を吐いて瞼を上げながら少し頭を持ち上げた。目の前に座っていた青年と顔を見合わせる格好になった。青年は心配そうな表情を見せていた。
「座るといい」
 青年はそう言いながら立ち上がり、持っていた紙袋を網棚の上に乗せると千鶴が掴んでいた吊り革の柄を握った。
 千鶴は両側の人に気を使いながらたった今まで青年によって温められていた場所に腰を下ろし、肩からかけていた大きなバッグを膝の上に乗せた。自然安堵の息が漏れた。身体から力が抜けて、頭がかくんと垂れた。その頭を軽く振ると顔を上げ、
「助かりました。ありがとうございます。――私、衣ケ浦で降りますから」
 と、衣ケ浦駅に着いたら青年に席を譲り返すつもりで言った。
「僕も衣ケ浦で降りますから」
 青年はそう言うと顔を正面に向けた。
 座ったらいくらか楽になって来た千鶴は、助けてくれた青年のことが気になり始め、上目遣いで青年の様子を窺った。
 青年は窓の外を見ているようだった。年齢は二十八か九か、もしかしたらそれより上かもしれないが、下には見えなかった。優しい色合いの淡い黄色のカジュアルなシャツを着、ジーパンをはいて、片手にセカンドバッグを抱えていた。彼が吊り革の環ではなく柄を掴んでいるので、そうするタイプなのか、それとも背が高いから自然にそうなってしまうのかなどと千鶴は考えた。栗色がかった黒髪はすっかり伸びてヘアスタイルが崩れていた。
 この人に似合うヘアスタイルは? と千鶴は考えてみた。彼の髪をカットしている自分を想像してみた。そうしたら顔が緩み始めたので、周囲の視線を気にして顔を伏せた。と、不意に思いついてバッグの中に手を入れると林檎の入った紙袋を開けて、林檎を見ながら思案を巡らせた。
 途中駅では降りる人よりも乗る人の方が多かった。
 衣ケ浦駅が近くなると、青年は網棚の上から紙袋を下ろして千鶴には目もくれないでドア近くに移動した。
 衣ケ浦駅に着いてドアが開くと、青年はさっとホームに降りた。そのあと二人降りてから、バッグを肩からかけた千鶴も降りた。
 千鶴は近づき過ぎず離れ過ぎずという感じで青年の後ろを歩いた。青年は片方の手にセカンドバッグ、もう片方の手にメンズショップの紙袋を提げてホームの階段を上って行く。それに続いた千鶴は、中に林檎があることを確かめるようにバッグの上から林檎に触れながら、青年に声をかけるタイミングをはかっていた。
 青年は改札を出ると右に進んだ。自分とは方向が逆だと思った千鶴は早足で改札を抜け、「あの」と呼びかけながら追いかけ、追いついて前に回った。
「先ほどは、どうもありがとうございました」
 千鶴は言って微笑んだ。
 彼は一瞬考えたのだが、直ぐにさっき席を譲った女性だということに気がついた。
「さっきよりは顔色が良くなったようですね」
「座らせて頂いたお陰です。それで……」
 千鶴はバッグの中から林檎を取り出そうとして何個にしようか迷ったが、結局袋ごと彼に差し出して言った。
「先ほどのお礼です、どうぞ」
「なんですか……?」
 彼は戸惑い気味に言った。
「林檎です。――私、本当に助かったんです。感謝の気持ちを表すのにひとつふたつでは足りないし、みっつは身を切る、よんは死を連想させるからふさわしくないと思って、だから袋ごと五個全部差し上げます」
 彼は少し顔を顰めると言った。
「確かに、三切れは身を切ると言って嫌がる人もいますが、三個と三切れは違うのでは……。こんなことを言うのは失礼とは思いますが、ちょっと大袈裟というか、面白いことをする人ですね」
「ああ、面白いとか、変わっているとか、ずれているとか良く言われますから、全然平気、慣れています」
 千鶴は真顔で言った。
 彼は「ぷっ」と吹き出した。
「いやあ、これは本当に面白い人だ。でも、貴女がふざけてやっているんじゃないってことはわかりますよ」
 そう言ってセカンドバッグの中を探った。
「僕は渡部と言います。袖振り合うも多生の縁と言いますから、林檎を一個頂きます」
 そう言って千鶴に名刺を差し出した。
 千鶴は名刺を受け取った。彼の名前は渡部祐二(わたべゆうじ)。勤め先は聞いたことのない会社だった。
 千鶴も林檎と一緒に自分の名刺を渡した。
「この美容院なら知っています。大きな美容院ですよね。僕の家、割と近くて、時々前を通ります。僕はいつも床屋ですが」
「美容院では顔剃りができませんからね」
 千鶴は言った。すると彼は手にしていた名刺を林檎を持つ方の手に預け、思案顔で自分の顎を手で撫でた。
「あの、髭が伸びているとか、そう言うことじゃないんです」
 千鶴は慌ててフォローするように言った。
 彼はまた「ぷっ」と吹き出した。
「いやあ、貴女、本当にいいですよ」
 そう言いながら林檎を紙袋に、名刺を小脇に抱えていたセカンドバッグに入れた。
 千鶴は、何がいいんだろうと不思議に思いながら彼に目を当てていた。彼は打ち解けた感じになっていた。
「僕はまだ寄るところがあるのでこれで失礼します。林檎ありがとうございます。それではまた」
 彼はそう言って去った。
 この時、千鶴はまだ疲れが抜けていなかった。疲れていると判断力も鈍ってしまう。
 体調の回復した千鶴は、林檎をうさぎの形に剥きながら、袋ごと全部差し出したのは流石にやり過ぎで、あの人にはかえって迷惑だったろうと思った。それにしても親切な感じのいい人だったと思いながら林檎を一口かじった。
 数日後、美容院に渡部祐二から予約の電話が入った。
「在原さん、渡部様と言う初めての方が、明日、時間はいつでもいいので在原さんにカットをして欲しいということなのですが、どうしますか?」
 見習いの娘が言った。千鶴の明日は予約でほぼ埋まっていた。
 千鶴は渡部と聞いて、席を譲ってくれた彼のことが頭に浮かんだ。しかし、彼は床屋だと確か言った。
「その方は女性ですか?」
「男性です。渡部祐二様です」
 見習いの娘が答えた。
 名刺を渡したから義理で来てくれるのかしら? と千鶴は思った。
「カットということでしたね。――わかりました、私が出ます」
 そう言って電話に出た。
「お待たせしました、在原です」
<先日は林檎をご馳走様でした、渡部です。えっと、覚えていますか?>
「はい。こちらこそ、お世話になりました。――明日なのですが、十九時でよろしいでしょうか?」
<いいです>
「少しお待ち頂くことになるかもしれませんが、それでもよろしいですか?」
<それでもいいです>
「では、明日の十九時、在原がお受けしました。ご来店をお待ちしています」
 彼の髪をカットする想像をしたら現実になった、と千鶴は思った。
 翌日、彼は十九時前に来店した。千鶴は彼にメンズヘアカタログを渡して暫く待ってもらってから彼のカットに取りかかった。
「僕、明日から海の向こうに出張なんです」
「そうですか」
「三日の予定ですが、多分延びます」
「大変ですね」
「在原さんは、ここは長いんですか」
「見習いの時からお世話になっています」
 千鶴はカットしながら話しているうちに、自分が彼より二箇月年下だとわかった。彼の髪はやや太くて、艶としっとり感があった。少し癖があったが、扱いやすい癖だった。
「こんな感じでいかがですか」
 千鶴は手鏡で彼の後ろを大きな鏡に映して見せながら訊いた。
「気に入った」
 彼はカットの出来に満足したようだった。
 千鶴が代金を受け取った。すると彼は声を潜めて言った。
「カットをしている時の貴女の目は、妥協を許さないプロの目でした。今日の貴女もいい。ますます気に入りました。僕、明日の午後二時、この前を通って出張に出かけます」
 それは妙に心に引っかかる物言いで、千鶴は思わず彼の顔に目を当てた。彼は意味深長な目をしていた。千鶴は言葉に詰まった。
「それでは、また」
 彼は見惚れるような笑顔でそう言って帰った。
 次も私にカットさせてくれるかしら……?
 そんなことが千鶴の脳裏にふっと浮かんだ。
 翌日、千鶴は時間を気にしながら、道路に面した大きな窓にちらちらと目をやっていた。
 彼の髪をカットするのは私だけであればいい。
 そんな想いが千鶴の中で大きくなっていた。
 だから、計ったように二時きっかりに彼が窓の外に姿を見せると、千鶴は迷わず外に出た。
 彼は店内からは死角になる場所に移動していた。
 千鶴はなんて言おうか考えながら彼の前に立った。
「帰って来たら、お茶でも飲みながらゆっくり話しませんか?」
 彼は言った。
 千鶴ははっと息を呑んで目を瞬かせたのち、微笑みを浮かべて頷いた。
「それじゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」

 千鶴は、お客様から彼の会社が中規模ながら着実に業績を伸ばしていると聞いた。彼と連絡を取りやすいので、当時急速に普及していた携帯電話も持った。
 花嫁大量生産の一翼を担っていた千鶴は、ウエディングドレスも商売道具のひとつに過ぎなくなっていた。しかし、渡部祐二とつき合うようになってから、千鶴の目には特に純白のウエディングドレスが、特別美しく輝いて見えた。





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