貴方がくれたもの 9


 明日香の反応が鈍いので、課長は質すような口調で言った。
「僕がまとめるように頼んだら、君は、はい、わかりました。と応えた。君の作ったものは、上手くまとまっていてわかりやすい。お客さんにも自信を持って見せられる。それでも、あす、お客さんと会う前には、やはり目を通しておきたい。ところが、この時間になっても、何も言って来ない」
 明日香ははっと目を見開き、口を手で塞いだ。
 課長は疑い深い目付きで明日香を見、問い詰めるように言った。
「一体資料はできているんだろうね」
「申し訳ありません! まだです」
 明日香は椅子から立ち上った。そして、
「必ずきょう中に仕上げます!」
 と、課長に頭を下げると椅子に座り直して伝票を片付け始めた。
「まさか君が忘れるはずはないと思ったんだが……、あすの朝、出来ているのなら、それでよしとしよう。――これから部長のところに行く。おそらくここには戻って来られないだろう。あすの早いうちに取りに来るから、僕の机の上に置いておいてくれ」
「はい」
 明日香は、机の引き出しの中から、書類の入った茶封筒を取り出しながら返事をすると、ブックエンドのクリアーファイルに手を伸ばした。
「斉藤さん」
 課長が、今度は情のこもった声で呼びかけて来た。
「はい」
 まだ何かあるのだろうかと思いながら、明日香は視線を課長に向けた。
「どこか具合でも悪いのかね」
 課長は柔らかい声でゆっくりと言った。
「いえ、そんなことはありません」
「近頃、几帳面な君らしくないミスが目立つから、気になっていた」
 課長は探るような眼差しを明日香に当てている。
「本当に大丈夫ですから。すべて私の注意不足です。色々ご心配をおかけして、申し訳ありません」
 明日香は居住まいを正して言った。
「そうか。それならいい」
 課長は自分の机に戻って荷物をまとめると、「お先に」と誰に向かってでもなく言って、まっすぐドアに向かった。
 課長が部屋から出て行くと、それを待っていたかのように自分の机についていた石田が立ち上がり、明日香のところにやって来て言った。
「手伝うよ。二人でやった方が早く終わる。――これは終わっているの?」
 石田は机の端に寄せられていた伝票を手にした。
「まだ少し残っている。それできょうの仕事は終わりのはずだったのよ」
「だったら、これはあたしがやっちゃう」
「助かるわ。ごめんね……」
「ごめんなんていらないよ」
 石田はあっさりとした口調で言い、明日香の肩をぽんと軽く叩いた。
 終業時間が過ぎると、社員は次々に帰って行き、明日香と石田の二人が残った。
「あっという間にいなくなっちゃった。きょうはみんな、早いね」
 活気の失せた室内に、石田の声が妙に響いた。
「うん」
 明日香は口ごもった声で応えた。自分もその中の一人だったはずなのにと思うと悔しくて、腹立たしくて、心の中に溜まっているものを吐き出さずにはいられなくなった。
「忘れていたわけじゃないのよ。課長に、これを持って木曜日の朝、直接お客さんのところに行くから、水曜日までに作るように言われて、少しはやってあったの。でも、直ぐに処理をしなければいけないものもあって、つい先送りにしちゃって、そうしたらいつの間にか木曜日までに作ればいいって、私の中でそうなっちゃって、それで、あした、作ろうって考えていたから、さっきは、これ以外にもまだ頼まれていたかしらなんて考えちゃったのよ……。なんでそんな風に思っちゃったのかしら?」
「斉藤さんにしては珍しいことをしたと思うけれど、あたしはそういう思い違いよくあるわよ。気を付けてはいるんだけれど、それでも結局やっちゃうの。でも、多少のミスはしても、致命的にならないのがあたしなのよ。あんまり自慢できることじゃないけれど。――そんなに悩まないの。課長だって、いいって言っていたんだし。課長、随分斉藤さんのことを気にかけているように見えたよ。――あたしも、斉藤さん、このところ変だなって思っていたの。お弁当も持って来なくなったし」
「うん……」
 明日香は生返事をした。
「きょうの昼間もピリピリして仕事してたよ。夕方近くなったら、いくらか落ち着いたみたいだけれど」
「……」
 明日香は返事をしなかった。
「斉藤さん、環境が変わったからね」
「環境って、平野君とのこと? ――これ、チェックして」
 明日香は机に片手をついて立ち上がり、斜め向かいの石田に書類を差し出した。
「そう。斉藤さんて、使命感が強くて、一本気なところがあるから。そういう人って、環境の変化に弱くてストレスを溜めちゃうのよ」
 石田は書類を受け取り、明日香の目を見ながら言った。
「でも、平野君との暮らしは、言い出したのは彼だけれど、私もそうしたいと思って、自分で選んだのよ」
 明日香は反発を覚え、石田の目を見返しながら言った。彼のことが好きなのだからストレスとは無縁だと思った。
「あんまり一人で無理しないことだよ。個人競技の短距離走じゃないんだから。二人三脚の長丁場だよ。リズムを合せてゆっくり行く方が、遠くまで行けるよ」
 石田が物知り顔で言った。
 良く知りもしないくせに勝手なことばかり言うわね。
 と、明日香は心の中で文句を言いながら腰を下ろした。石田の表情が癇に障り、石田の言葉が鬱陶しかった。恋愛から遠ざかっている石田は愛する人に尽くす喜びを忘れてしまったのだろうとも思った。
 そんな明日香の心中を知っているのかいないのか、石田はにこりとすると、
「でも、これはリズムを合せてさっさと片付けちゃおうね。早く帰りたいんでしょう、彼のために」
 そう言って書類に視線を向けると表情を引き締めた。
 明日香は、焦燥感が込み上げて来た。資料を完成させなければ帰れないとわかった時も焦りを感じたが、焦ってもどうにもならないので、なんとか抑え込んだ。しかし、石田の言葉に刺激されて、明日香は早く帰りたくてうずうずして来た。
 この時間ならまだ会社にいるわよね?
 一刻も早く終わらせようと気が急く中で、明日香は、美都留に一言言っておけばひとまず安心できると考えて受話器を持ち上げたのだが、顔に何か思い出したような表情を浮かばせて受話器を置いた。
 自分の方は石田になら話しを聞かれても差し支えない。しかし、美都留の方はどうなのだろうか。彼が電話を受けるとは限らないし、話しを聞かれたら不都合な人がそばにいないとも限らない。妻でもなく身内でもない自分が電話をかけたりしたら、彼が困るような事態になるかもしれない、と明日香は考えたのだ。
 私たちのことは、まだ暫くは秘密だものね……。
 形あるものに縛られない自由さと、自由さゆえの頼りなさを感じて、明日香はため息を吐いた。
 どっちみち、残業になったなんて、きょうは言いにくい……。
 部屋を出て行く美都留の憤ったような後ろ姿が瞼に浮かんで、やり切れなくて、肘をついて額を押さえた。
「どうしたの? 彼に電話しようとしたんじゃないの」
 石田の声が聞こえて来て、明日香は一瞬考えてから顔を上げた。
「そうしようと思ったんだけれど、この頃帰りが遅いのよ。ここを遅くても八時に出れば、多分彼より早く帰れるだろうから、それだったら、別に連絡する必要ないなって考えていたの」
「八時ね。――よし、頑張ろう。斉藤さん、あんなことを言っていたわりには、結構進めてあるみたいだから、これだったら、なんとかなるよ」
「ごめんね……」
 明日香は思わずそう言葉を漏らすと、作業を続けた。
 間もなく石田が傍らにやって来て、口を開いた。
「桁を間違えているよ」
「えっ? どこ」
「ここ」
「ほんと……、完全に見落としだわ。石田さんがいてくれなかったら気が付かなくて、このまま出しちゃったと思う。良かった」
 石田の助力のお陰で、思ったよりも早く終わった。
 明日香は、課長の机の上に出来上がった資料を入れた社名入りの封筒を置くと、ほうっと大きく安堵の息を吐いた。
「部屋の点検はあたしがやるから、先に帰りなよ」
 石田が言った。
「でも……」
「いいから、早く帰ってやりなよ」
「うん。ごめんね……」
「だから、ごめんはいらないって。――斉藤さん、なんだか謝ってばかりいるよ」
「えっ? そう……」
 明日香は、言われてみればそんな気もする。
「そう。嫌に耳に付く。――あたしが何かやった時に助けてくれればそれでいいのよ。それじゃあ、お疲れ様」
 石田は退出チェックに取りかかった。
「わかったわ。――お疲れ様でした」
 明日香は身を翻した。

 明日香は歩道に出るとリュックサック型バッグを背負って走り出した。美都留より早く帰らなくてはいけないと自分に言い聞かせながら走った。カレイの煮付けも肉じゃがもできないけれど、片付けも間に合わないかもしれないけれど、お帰りなさいは言いたい。それが、きょう、自分が彼のためにできる唯一のことだと思った。
 しかし、久しくまともに走っていなかったので、だんだん足が重くなる。明日香は、はあはあ息を切らして立ち止まった。それから、少し歩くとまた走り出して、苦しくなると少し歩いてまた走り出すを何回か繰り返したが、ついに走るのを諦めて、荒い息を整えながら歩いた。
 途中で食品スーパーに入った。買い物かごを手に店内を進むと、箱を積んだ台車を男性店員と高校生のアルバイトと思われる男子が押して来るので、明日香は邪魔くさいと思いながらも通路をあけて彼らを通した。お客はちらほらいて、ほとんどが勤め帰りの人だ。
 牛乳売り場の前で立ち止まった。いつも飲んでいるのは売り切れている。それで、どうせだからと飲んだことのない、値段の高いのに手を伸ばした。ただし、二本買うつもりだったのを一本にした。
 それからお惣菜売り場に行った。種類は少ないが、どれにも値引きシールが貼ってある。アジフライ二枚入りと、酢豚と、砂肝とブロッコリーの炒めもののパックをかごに入れた。そして、ふと思い付いて魚売り場を覗いたら、刺身の4点盛りが一つあった。加工時間を見ると夕方。美都留が喜ぶだろうと思って、刺身を手にした。
「よし」
 明日香は呟くと早足でレジに向かう。
 開いているレジは一つ。女の子が入っていた。彼女も学生だろう。顔に幼さが残っている。
 レジにはお客が二人並んでいた。勤め帰りの主婦らしい人が会計中で、小柄な背中の丸い、白髪頭の女性が買い物かごをレジカウンターに乗せて待っている。買い物かごの中には肉じゃが煮のパックと猫の缶詰めがあった。
 肉じゃがもあったのね。もうちょっと早ければ……。
 明日香は、レジカウンターの上のかごに目を当てながら残念に思った。
 白髪頭の女性の順番になった。
「三百八十四円です」
 レジの女の子が言った。
 女性は信玄袋の中からがまぐちを取り出すと、がまぐちの中の硬貨をカウンターの上に並べ出した。細かい硬貨が多い。
 そのもたもたぶりに、明日香はいらいらして来た。
「お姉さん。ここから取って」
 女性は女の子にそう頼んだ。
 女の子の方も律儀に細かい硬貨を数える。
 明日香はいらついて仕様がない。
 女性は支払いを済ませると、残りの硬貨をがまぐちの中に戻して行く。と、手から硬貨が一枚こぼれて、床に落ちて転がって、明日香の靴に当たって止まった。
 もう、いい加減にして――!
 明日香は内心で言いながらも、硬貨を拾って女性に無言で差し出した。
「お姉さん。どうもありがとう」
 女性はそう言って明日香を見上げると、皺の刻まれた顔にいかにも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「いえ……」
 そう応えた明日香は、顔の筋肉が緩むのを感じた。どういうわけか、今までのわだかまりが馬鹿らしい、どうでもよいことのように思えたのだ。すると、何故か女性の笑みが深まった。明日香は不意に親しみを覚えて、軽く頷いた。
 女性が立ち去って行く。信玄袋に付いている鈴がちりんちりんと鳴って、それが明日香の耳に妙に心地よく響いた。
 可愛らしいお婆さんね。
 明日香は思った。
 女の子が小さめの袋を二枚くれたので、明日香は一枚に牛乳を、もう一枚にお惣菜類を入れた。思いなしか、明日香の動作はゆったりして見える。
 スーパーの直ぐ向こうに駅がある。明日香が駅に差しかかった時、電車が入って来た。その電車に美都留が乗っているような気がして、明日香は改札口の前で立ち止まったのだが、改札口から吐き出される人たちの中に彼はいなかった。
 多分、次の電車だろう。とりあえず、美都留よりも早く帰れる。
 そんな確信めいたものがあって、明日香は安心した気持ちで坂を上った。
 突然、けたたましいベル音が鳴り響いた。
 気を抜いて歩いていた明日香が思わず振り返ると、小さな光が接近しつつあった。自転車だ。自転車は横ぎりぎりに明日香を追い抜いて行った。
 自転車の人は立ち漕ぎで坂を上って行く。薄暗い中に浮かび上がるそのシルエットに目をやりながら明日香は歩く。自転車は次第にフェードアウトして行った。
 もうマンションが近い。
 マンションを見上げた明日香は、目を丸くする。暗いとばかり思っていた我が家の窓に明かりが灯っているのだ。
 やだ。帰っている――。
 そう思うや否や、駈け出した。
 なんで――、どうして――。
 予想外のことに、明日香はちょっとした混乱状態だった。
 坂の途中で左に折れる。普段なら気にならない公園横の緩い勾配の上り道が、今夜はいやにきつい。明日香は喘ぎ喘ぎ走った。自分では走っているつもりなのだが、実際はほとんど歩くのと同じペースだった。それでもいよいよきつくなって、明日香は立ち止ると胸に手を当てて大きく呼吸した。
 ――遅れるんじゃないぞ。
 美都留の苛立った低い声がしたような気がして、明日香は前方に目を向けた。外灯の淡い光の中に彼の憤った後ろ姿が現れたかと思ったら、すうっと消えてしまった。
 彼が自分から去って行ってしまうような不安と焦りが、明日香に押し寄せて来た。
 早く謝らなくては――!
 明日香は歯をくいしばり、一生懸命足を速く動かした。





                                  HOME 前の頁 目次 次の頁