貴方がくれたもの 10


 マンションのエントランスの一角が視界に入ると、明日香は目を見開き、物凄い勢いで駆け寄り、エントランス扉の取っ手に手をかけた。決して軽くはない扉だ。
「よいしょ」
 思わず掛け声をかけて押し開けて中に入ると、後ろを確認しないでエレベーターホールにそそくさと向かった。
 エレベーターが折好く一階に止まっている。
 明日香はそれに乗り込むと、五階ボタン、閉ボタンと忙しなく押した。
 小さなかごが密閉されて上昇し始める。
 明日香は階数表示板に視線を張り付けた。
 2……3……。
 暑かった。イライラしながら顔を手で扇いだ。
 4……5。
 明日香は階数表示板から視線を外した。扉の動きがいやにのろまに思えた。
 額にうっすら滲む汗を手の甲で拭いながらかごの中から出ると、静かな通路を、流石にあたりをはばかって靴音高く走ることはしないで、自宅までの短い距離を、速い足取りで歩いた。身体中がかっかしていた。
 自宅に辿り着くと、考えることなく玄関のドアノブを下げようとしたが、下がらない。錠がかかっていた。
「もう」
 もどかしげな声を発し、鍵をバッグの中から取り出して汗ばむ手で錠を外した。
 謝らなくっちゃ。
 頭の中をそれでいっぱいにしながら、ドアを開けた。
 リビングへと続くドアは閉じられていた。玄関の明かりは消されていたが、ドアガラスの向こうには外から見た時から変わらず明かりが灯っている。
 明日香の瞼に、不貞腐れてソファの上で横になっている美都留の姿が浮かんだ。
 本来ならば嬉しいはずの明るい部屋への帰宅が、今は少しも嬉しくなかった。いつもならば安心をもたらしてくれるはずの光が、今日は不安を運んで来る。
 明日香は、玄関に脱がれた美都留の靴を見て眉根を寄せ、息苦しさを感じながら靴を脱いだ。どうにも後ろめたくてしかたがない。
 機嫌を損ねた美都留は口もきいてくれないだろう、と思った。誠心誠意謝罪しよう、と心底から思った。それしかない、と一途に思い込んだ。
 明日香は緊張で顔をこわばらせながら、壊れ物を扱うように用心深くそっとリビングのドアを引いた。
「お帰り――」
 美都留の声がした。
 明日香はびくりとして足が止まった。視線を、てっきり美都留が寝転んでいるだろうと思っていたソファの方から声のした方へと移動した。美都留はダイニングテーブルについたまま、こちらに顔を向けている。
 美都留の様子は一見、いつもと変わらないように見える。彼は色褪せたジーパンをはいて、チャコールグレーの長袖Tシャツを着ている。シャツの袖を肘までまくり、裾を出している。
「ただいま……」
 明日香は萎縮した声で応えた。
 それから、緩慢な動きで足を進め、ドアノブに目をやりながらゆっくりと音を立てないでドアを閉めた。予想が外れて良かったと思った。しかし、そんな予想をしていた自分にやましさも感じた。そして、不安は依然心の中に居座っていた。
 美都留はテーブルの上に広げてあった新聞やチラシを畳んだ。
 明日香は美都留の顔色を窺いながら、スーパーの袋をテーブルの上に乗せ、バッグを床に置いた。
 彼女の神経は高ぶったままだ。頭は火照り、脈拍も速い。
「遅くなって、ごめんなさい……」
 明日香の額から汗が一筋、流れた。彼女は汗を指で拭った。彼がどう来るかと構えてしまい、肩に力が入る。
「別に」
 美都留はそう言葉を発したものの、何故か言葉を途切らせて思案顔をしたかと思ったら、
「ああ、わかった。冷たいものでも飲むか?」
 と、どこかはぐらかすような口調で言った。
 美都留は温かいお茶を飲んでいたのだろう。テーブルの上にはポットと急須と湯のみがあった。
「いらない!」
 明日香は喉の奥から甲高い声を上げた。が、直ぐにしまったという気持ちに襲われて、頬をこわばらせた。
 一度椅子から立ち上がった美都留は、憮然たる面持ちで黙って再び椅子に腰を下ろした。
「ごめんなさい、つい……」
 明日香は眉間にしわを寄せ、目を伏せた。
「いや……。随分急いで帰って来たみたいだな。まあ、とにかく座って、一息入れて落ち着け――」
 美都留はテーブルに向き直って、急須を手にした。
「座ってなんていられないわ。ご飯、ないから。炊かないといけないから」
「飯なら、炊けている。味噌汁も作ってある。――ついでに食器も洗っておいた」
 美都留はポットから急須にお湯を注いだ。
 その時、明日香の顔はキッチンの方に向けられていた。
 流し周りは奇麗に片付けられていた。
「今朝は片付ける時間がなくて……。きょうは定時で切り上げて、帰ってからちゃんと片付けるつもりだったの。それが、定時間際に急ぎの仕事が入って……」
 失敗の連鎖だ、と明日香は自分のへまを恨んだ
「あれからまた寝たのか? それは仕方ない。明日香も大変だな。――きょうは、出先からそのまま帰って来たから、早かったんだ」
 彼の言葉を聞いた明日香の脳裏に、さっきちらりと見たソファが浮かんだ。ソファの上には、確か洗濯物が置いてあった。
 美都留は湯のみにお茶をついだ。
 明日香はソファの前に移動した。洗濯物はわりに奇麗に畳まれてあった。
「畳むの上手くなっただろう? スタンドはいつものところに置いてあるから」
 彼の声は、明日香の耳に確かに届いていた。しかし、明日香は返事をしなかった。無視したわけではない。彼のためにしてやれることが、自分には何もないような気がして、言葉を発する気力をなくしていたのだ。
 これでは自分はなぜ、彼といるのかわからない。自分は彼にとって、本当に必要な人間なのか?
 明日香は迷った。
 彼はもう、気配を消して薄暗い片隅でうずくまっている、気弱で臆病な少年ではない。支えてもらわなくても、眩しい光の中に背筋を伸ばして立つことのできる、しっかりとした大人の男なのだ。
 それは、前からわかっていたこと、でも忘れかけていたこと。
 明日香は、自分はいつの間にか彼を見くびっていたのではないかと思い、自分に嫌気が差した。
「刺身があるじゃないか――」
 その声に、明日香ははっとした。
「支度しておくから、着替えて来いよ」
「ごめんなさい!」
 ちょっとした錯乱状態にあった明日香はそう口走って、美都留のところに戻った。
「いいよ。俺はこういうの気にしない性質だから」
 彼は立って、テーブルの上を見ながら言った。
 明日香はなんだか腑に落ちなくて、彼の視線の先に目を向けた。そこには盛り合わせの形が崩れた刺身のパックがあった。これでは全く美味しそうに見えない。
 こういうことが気になって仕方がない明日香は、
「ごめんなさい……」
 と思わず口にした。
「気にしないって言っているだろう。――なあ、なんでいつもそうなんだ?」
 美都留は椅子を引き、深く腰を下ろし、明日香を見上げた。
 
 彼は、悲しそうな、苦しそうな、寂しそうな表情をしていた。その表情には少年時代の面影があった。自分に自信をなくしていた頃の。
 ――精一杯の勇気を出して話しかけていたんだ。自分の心臓の音が頭に響いていた。三年間、ずっとだ。
 彼は懐かしそうに、明日香に話した。

 この時の明日香には、彼の表情に気を配るだけの、気持ちの余裕がなかった。
 明日香は今朝の出来事を思い返していた。
 確か、同じことを訊かれた……。
 しかし、彼がなんのことを言っているのか、相変わらず要領を得ない。
「何が、いつもそうなの?」
 明日香は問い返した。
「違うと思うんだ」
 美都留は答えにならない言葉を独り言のように呟いた。
「何が違うの?」
「わからないのか?」
「わからないわよ」
「近頃、俺に謝ってばかりいるのは、なんでなんだ?」
「それは――」
 明日香は意外なことを訊かれたと思った。が、その答えは簡単だ。
「貴方との約束を守れないから」
「俺との約束?」
「貴方の手を煩わすようなことはしないって、私は貴方と約束した」
「そのことか……。それは覚えているよ。だが、やっぱり間違えていると思うんだ」
「だから、何を間違えているって言いたいの。――この頃、美都留の手を煩わすことが多くなった。今朝だって、ちゃんとしろって感じで、機嫌が悪かったじゃない。約束違反だって、ほんとは怒っているんじゃないの」
「そんなことはない。明日香が、一生懸命やっているのはわかっている。――なあ、明日香。それだったら、無理はしないという俺との約束はどうした」
 明日香はぎくりとした。背中に汗が滲むのを感じた。自分がうろたえているのがわかったが、それを悟られまいと意地になって、
「私は無理なんてしていない!」
 と、声を張り上げて否定した。
 にわかに、美都留の纏う空気が険悪な色に染まった。
「それが無理していない人間の顔か!」
 彼は荒々しい声を上げて勢いよく立ち上がり、
「来い!」
 と、明日香の手首をぐいっと掴んで歩き出す。
 明日香は驚いてされるがままだった。こんな風に怒りをむき出しにする彼を見たのは初めてだった。何かが壊れて行くような予感がして、心が震えた。
 美都留は寝室に入ると照明を点けて、明日香の手首を引っ張って、彼女を姿見の前に連れて行った。そして、
「自分の目で確かめてみろ」
 と、明日香の二の腕を鷲掴みにして、彼女を姿見と向き合わせた。
 姿見には暗い顔をした女が映っている。どんよりした目、しなびたように艶を失ってくすんだ肌をした若い女。
 明日香の目に映ったそれは、彼によって見せつけられた現実。彼が見ていた現実。
 くたくたになったぼろ雑巾か、干からびた椎茸……。
 明日香はそう思い、女の姿を見ているのが辛くて目を逸らした。
 そして、スーパーで会った信玄袋を持った老婆のことを思い出した。顔は皺だらけだったが、ほっとするような愛らしさと見惚れるような笑顔の持ち主だった。
 それに比べて私は……。
 現実を振り払おうとするかのように頭を振った。
 と、めまいがして、ひどい倦怠感が襲って来た。全力で走り切ったあとのようで、もう動けないし、立っているのも辛い。緊張の糸が切れて、心が綻びて、抑え込んでいたものがこんこんと溢れ出して来る。
「だって、約束したんだもん。私、それしか貴方にして上げられること、見付からない。それでしか貴方を引きとめておけない。貴方がいなくなっちゃうのが、怖いのよ」
 明日香は項垂れ、口元をわななかせた。
 美都留は背後から彼女の両肩にそっと手を置いた。そして、語り始める。
「俺は、こうも言った。俺がそばにいることを忘れないでくれ。これも、約束だったはずだ。それは、助けてやれる手がそばにあるってことなんだ。――俺がなんで明日香を選んだか、もう一度言う。俺は、明日香の笑顔が好きだ。俺は昔、明日香の笑顔に憧れていた。そして、再び出会って、それを守りたいと思った。明日香が笑っていることが、俺には一番嬉しいことなんだ。――二人で暮らすからには、お互い合わせないといけないものもある。正直、そこまでやるのかって呆れる時もあるが、明日香の几帳面な性格を考えれば、それも仕方ないと思う。それでも、がみがみじゃなくて、やんわり言って来るから、そこはよく心得ていて、小憎らしいくらい上手いし、可愛いと思う。――だが、だんだんしんどくなって来たんだろう。大変そうだから手伝うと、泣きそうな顔でごめんなさいと言う。それだったら、手伝わない方が親切なのかなとも考えた。――俺は、明日香の笑顔を久しく見ていない。――俺のせいなのか? 守りたくてそばに置いたことが、負担をかけることになって、俺が明日香から笑顔を奪ったのか。――いちどこうと思い込んだら突っ走って、俺の言うことなんて聞こえないのが明日香だから、いつ言おうかと考えていた。――俺は、明日香のなんだ?」
 わずかな時間、沈黙が二人の間を支配した。そして、
「怒鳴って、済まなかった。でもな、心配で仕方がないんだ……」
 美都留は背後から彼女の身体をひしと抱き締めた。
 明日香は身じろぎもしないで、ただ閉じた瞼に涙を滲ませて、彼の告白を聞いていた。それから、彼の腕の中に収まるとほっとして力が抜けた。
 すると、さらさらと涼やかな葉擦れの音がどこからか聞こえて来た。エメラルドグリーンに輝く澄んだ湖が瞼の裏いっぱいに広がった。葉擦れの音が心の綻びを癒し、澄んだ水は心の渇きを潤す。
 明日香は安心感に包まれた。例えるならそれは、柔らかな草の上に腰を下ろして大樹の幹に凭れかかり、優しい木漏れ日を浴びてまどろむような。
 美都留に抱かれながら明日香は思った。
 自信をなくしていた。愛しているという自信。愛されているという自信を。
 でも、愛を持続させるためには努力もいる。
 顔色を窺ってばかりいては駄目だ。本音でぶつかり合い向き合うことも必要だ。
 この人は、私を受け止められるだけの度量を持っている。
 私も、この人にふさわしい女にならなければ――、と。
 どのくらい時間が経ったのかわからない。
 明日香が美都留の腕の中で身体を返して顔を上げると、彼は焚き火のわずかな明かりを頼りに闇の夜を一人で過ごす旅人のような孤独な表情をしていた。
 自分が馬鹿だった、と明日香は思った。そして、
「貴方は私の人生のパートナー。貴方が私を選んでくれたことは、私の誇りです。――ありがとう」
 美都留はほうっと息を吐いた。そして、
「俺を選んでくれて嬉しいよ。――ありがとう」
 と、微笑んだ。
 明日香は微笑ましい気持ちになって、それが自然に顔に表われた。

 ありがとう、美都留。貴方が私に微笑みをくれた――――。





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