貴方がくれたもの 8


 美都留は早出するその日の朝、自然にいつもより早く目が覚めて、無意識に明日香の方に顔を向けた。彼女はこちらに背を向けて、ぐっすり寝入っている様子。
 疲れているんだろう……。
 美都留は彼女を気にかけて、そっとベッドから下りて寝室を出ると、冷たいものを飲もうとしてキッチンに入った。
 流しにはきのうの夕飯の食器類が洗われないまま放置されている。
 美都留は冷蔵庫から牛乳のパックを取り出して、牛乳をガラスのコップに注ぎ入れる。コップ半分ほどで、パックは空になった。美都留はキッチンに立ったまま牛乳をゆっくり飲み干すと、流しの上にコップをパックと並べて置いた。それからリビングのカーテンを開け、室内にあった物干しスタンドを外に出そうか出すまいか迷った。明日香が昨夜洗濯して干していたのだ。
 やっぱり俺は手を出さない方がいいだろう……。
 美都留はそう考え、新聞を玄関から取って来て、ダイニングテーブルに着いて読み始めた。
 明日香の起きて来る気配はない。
 美都留は何か食べようと思って立ち上がり、キッチンでやかんを火にかけると、汚れた食器に目を当てた。
 どうせ、ごめんなさいだろうからな……。
 冴えない顔でそう思いながら、お湯が沸くのを突っ立って待っていた。
 紅茶を淹れて、テーブルロールがあったので、それにジャムを付けて一人で朝食を取り、食べ終わると着替えを取りに寝室に入った。
 明日香は布団の中でぴくりとも動かない。
 美都留はリビングで着替えた。それから、いよいよもって、これは起こさないと絶対に起きないだろうと考えて、完全にベッドに沈み込んでいる彼女に、「明日香――」と声をかけた。
 何かを感じて明日香はうっすらと瞼を開いたものの、どうにもこうにも眠くてたまらなくて、すっと瞼を閉じて感じた何かから逃げるように寝返りを打った。と、シャッという音がして、明日香は眩しさを感じ、それが不快で、掛け布団を頭から被った。
「もう、起きた方がいいぞ」
 そうはっきりと聞こえて、軽く肩を叩かれて、明日香は美都留に起こされていることはわかったが、しかし、きょうは日曜日のような気がして、でもきのうは火曜日だったような気もして、果たしてきょうが出勤する日なのかどうかわからなくて、
「きょうは行く日だっけ……」
 と、くぐもった声で言った。
「俺は行く。明日香も特に休みだとは、聞いていない」
「ん……」
 明日香は布団の中で気のない返事をしてから、まだ週の半ばであることにようやく気付いて、
「何時……?」
 と、覇気がない声で訊いた。
「もう直ぐ七時になる」
 美都留は明日香の枕元に目覚まし時計を置いた。
 その気配に、明日香は掛け布団から顔を出し、腹ばいで時計を手にし、寝ぼけ眼で文字盤を見た。まさに時刻は七時に迫ろうとしていた。明日香は自分の目で確認して、七時という時刻の意味を悟り、しまった、寝過ごしたと思った。次に、なんでアラームが鳴らなかったのか不思議になって、壊れたのかな? と思いながらアラームのスイッチに触れた。オフになっている。
「寝る前にちゃんとセットしたのに……」
 明日香は怪訝そうに呟いた。
「寝ぼけて止めたんだろう」
「止めたんなら、覚えているわよ」
「そういうのは、覚えていないものだ。俺も学生の時はしょっちゅうやっていた。脳が完全に起きていない状態では複雑には考えられなくて、眠い、うるさい、止めると単純にやってしまう。脳がまともに働いていない時の無意識下の行動だから記憶にも残らない」
 朝に弱い美都留がそう言うのだから、その通りなのだろうとは思いながらも、自分にとっては初めての経験で、どこかまだ信じられなくて、本当にそうなのだとしたら、多分そうなのだろうけれど、これは情けないことをしたものだと、自己嫌悪に陥る明日香だった。
 彼女が気だるげな感じでぼうっと時計を見たままなかなか起きようとしないものだから、美都留は、
「起きられないのか」
 と、心配そうな口調で言った。
「起きる気はあるんだけれど、身体が動かなくて……」
 明日香は秒針を見詰め、秒針が一秒、二秒、三秒と時を刻むのに合わせて、いち、にい、さんと心の中で言った。そして、じゅうまで数えると、手のひらで上体を支えて起き上がった。と、頭全体が圧迫されるような鈍い頭痛がして、明日香は頭を手で押さえ、顔を歪め、ベッドの上に座り込んだ。
「頭が痛いのか」
 また、彼は心配そうに言った。
「ちょっと……。でも、大丈夫。だんだん治まって来たわ」
 頭の周りを締め付けられるような重い痛みがあったが、明日香は心配をかけたくなくて殊更なんでもないように言った。
「寝起きが悪い時はそうだよ。俺なんかそんなの珍しくもない。――俺、もう行くが、ほんとに大丈夫か」
 明日香は、えっ? と思い、
「どうしたの。まだ、早いじゃない」
 と、顔を上げて、その朝、初めてまともに美都留を見た。彼はさっぱりした顔をして、ぱりっと身支度を整えている。隙のない美丈夫ぶりだった。
「早く出るって、言っただろう」
 明日香は一瞬考え、夕べそう言われたのを思い出した。そして気になって、
「ご飯は」
 と言った。
「食べた。お湯を沸かして、ポットに入れてある」
 美都留はそう言うと、不意に顔に笑みを浮かべた。
 明日香は、心臓がどきりとした。
「二度寝するんじゃないぞ」
 美都留は顔に微笑みの花を咲かせながら、明日香の寝起きでくしゃくしゃの髪を撫でた。
 明日香は彼の笑顔に目を奪われていた。かつては笑うことが苦手だった彼は、今では当たり前のように笑みをこぼし、いつも一番身近で見ているはずの明日香でさえたまに思わず見惚れてしまうような、いい笑顔を浮かべる。
 枝葉の隙間からこぼれ散る光のような彼の微笑みに包まれる時、彼に頭を撫でてもらう時、明日香は安心と彼を恋い慕っている自分を感じる。
 彼の笑顔を手放したくない。彼との生活を失いたくない。そのためには、自分にできることはなんでもやる。彼の手を煩わすようなことはしないという約束を守る。
 そんな想いが、明日香の中に根付いていた。彼女にとって彼に尽くすことが生活の中心であり、彼への愛情表現だった。
 それなのに、朝からまた彼の手を煩わせてしまったと思って心苦しくて、自分のだらしなさに呆れもして、明日香は、
「美都留君、ごめんなさい」
 と、目を伏せた。すると、
「どうしていつもそうなんだ」
 と、響きのない乾いた声がして、覆うように頭の上にあった手が離れた。
 明日香は何かしっくり来ないものを感じて、訝しく思いながら視線を上げた。彼の顔から微笑みが消えて、表情に陰りが差していた。
 急にどうしたの?
 突然の出来事に明日香はわけがわからず、心配して顔を曇らせた。そうすると、彼の表情に苦悩の色が加わって、陰りが濃くなった。
 本当にどうしたの?
 明日香は理解に苦しみつつも、このままでは好からぬ、危険なことが起きるような、嫌な予感がした。危険を回避るために最も有効で手っ取り早い手段は、へりくだった謝罪。早出をうっかり忘れていたり、寝過ごしてしまったりしたことを申し訳なく思っていて、それでいささか卑屈になっていたこともあって、明日香は眉間にしわを寄せて、
「色々ごめんなさい」
 と謝った。
「だから、どうしてそうなんだ……」
 美都留は当惑したような声でそう言うと、堪らないというような表情でため息を吐いて身体の向きを変えた。
 何がだからなの……?
 明日香は発言の趣旨がわからなかった。が、彼の機嫌を損ねてしまったようなので、それに焦りを感じて、
「美都留君!」
 と、彼の背中に向って上ずった声で呼びかけた。
「遅れるわけにはいかないんだ。――明日香も、仕事には遅れるんじゃないぞ」
 美都留は振り返らずに苛立ちを滲ませた低い声で言った。
「美都留君、ほんとにごめんなさい!」
 明日香は、機嫌を直して欲しい一心で、ベッドの上に両手をついて叫ぶように言った。が、美都留は何の反応も示さずに寝室から出て行った。
 いつもの彼とは異なる、彼らしからぬ態度だった。
 明日香は愕然としてしまって、叫んだ姿勢のまま動けないでいたのだが、彼が玄関を出て行く気配を感じると、力なくぺたんとベッドの上に尻をついた。
 温厚で、のんびり屋の彼でも、不機嫌になることくらいあった。しかし、今朝のそれはこれまでとは随分異なる様子だった。
 明日香は、彼の態度がひどくつっけんどんなものに感じられて、こんな風に扱われたことはなかったので、彼から見放されてしまったような気がして、ショックを受けていた。
「美都留のことが大好きなのよ。私の中は美都留でいっぱいなのよ。美都留がいないと私、空っぽになっちゃう……」
 今にも泣きそうな顔で、彼に語りかけるように呟いた。
 美都留と再会して一年余り。再会した時にはこれほど大切な人になるとは思わなかった。高校時代を振り返るとなおさらその感は強い。
 明日香は、なんだか高校時代が懐かしくなった。美都留がすうっと現れては変な顔をしたことも、それを気味悪く思って彼のことが嫌で嫌でたまらなかったことも、懐かしい思い出の一つだ。明日香は、高校生の彼の変な顔を思い出そうとしたら、今の彼の涼やかな笑顔が脳裏に浮かんで来た。
 よそでもあんな風に笑うのかしら?
 ふと考えた。
 美都留の会社にも奇麗な女性はたくさんいるだろう。彼女たちが彼の笑顔を見たらどう思うのだろう。明日香が胸をときめかせるように、彼女たちもまた胸をときめかせるのではないだろうか。
 明日香は嫌な気持ちになった。彼女たちの誰かに、彼を取られてしまうような不安を感じた。
「いや! 取らないで」
 目を見開いて思わず叫んだ。呼吸は荒く、心臓がどきどきしていた。
 今の関係はなんて不安定なのだろうと思った。自由であるけれど、無責任でもある関係。お互いを繋ぎ止めるものは、お互いの気持ちだけ。でも、それこそ人の気持とは移ろいやすい不安定なもの――。と、
「ふふふ」
 明日香の口からおかしそうな笑いが漏れた。
 彼は篤実な男だ。それを自分はよく知っている。彼は私を妻にすると約束してくれたのだから、彼を信じていればいいのだと思った。
 不意にどこからか美都留の声がしたような気がした。
 ――仕事には遅れるんじゃないぞ。
「はい」
 明日香は思わず返事をした。そう言えば、遅れるわけにはいかないって、彼は急いでいた。頭の中が仕事のことでいっぱいだったから、ああいう態度になってしまったのかもしれない。
 そこまで考えた時、頭に何かがずしりと置かれたような重苦しい痛みを感じた。
「急いでいたから、ああだったのよ……」
 自分に言い聞かせるように呟いて、頭を揉みながら床に足を下ろして立ち上ると、ふらつきを感じながらリビングに移って、まるで座れというように引かれてある椅子へと腰を下ろした。
 テーブルの上には新聞が広げられ、汚れたカップと淹れ終わったティーバッグ、ジャムの瓶とジャムの付いたスプーン、ポットとロールパンの入った袋が置いてあった。それと、明日香のカップと新しいティーバッグもあった。
 明日香は複雑な気持ちでカップにお湯を注いだ。自分の分を揃えておいてくれたことは嬉しいのだが、いつものことながらテーブルの上を散らかしっ放しなのはありがたくない。流しに放置したままの食器も気になるが、洗う気になれない。
「こんなことなら、夕べ、洗っておけば良かった……」
 そう独り言を呟いて、茶葉が開くのを待った。
 近頃、明日香は、定時で帰れないことが多かった。仕事量が増えたわけではないのだが、何故か時間内に処理できない。そして、思うように行かないのは、家事も同様だった。尤も、こちらは一人から二人になって部屋も広くなったのだから、やることは増えていた。それでも、全部自分できちんとやらないと気が済まないのが明日香だ。しかし、実際は美都留に面倒をかけるようなこともあった。昨夜も食事を済ませたらもう眠くて、なんとか洗濯物は干したのだが、食器は洗わずに寝てしまった上に、今朝は寝坊した。ただ、美都留もこのところ帰宅時間がいくらか遅かった。これが、明日香には救いだった。
 明日香は、紅茶に牛乳と砂糖を入れようとしてカップを持ってキッチンに入り、出しっ放しの牛乳パックを見、どうしようもないという表情をして持ち上げたところ、随分軽かったので、思わず振った。空だとわかって、がっかりした。買い置きもなかった。帰りに買って来ようと思い、その場で紅茶をストレートで飲むとほっと息を吐いて、琥珀色の液体に視線を落とした。
 行ってらっしゃいって言わなかった……。
 瞼に寝室から出て行く美都留の後ろ姿が浮かんで来た。
 寂しそうで、辛そうで、何かに憤っていたような後ろ姿だった、と明日香は思った。そして、
 ――仕事には遅れるんじゃないぞ。
 最後の言葉が妙に気になった。自分の役目をちゃんと果たせと言われているような気がした。
 自分は彼に、家の中のことは私に任せて。私の役目だわ。と言った。つまり、そう言ったからには、家の中のことをもっとちゃんとやれという意味だったのではないだろうか? 彼の様子がおかしかったのは、急いでいたからではなく、自分のだらしなさに呆れていたからなのかもしれない。確かに近頃の自分は、自分でもだらしないと思う。家のことも、会社のことも。
 もっとちゃんとしないと、彼は私からどんどん離れてしまう――!
 明日香は焦燥感に駆られながら冷めた紅茶を飲み干した。
 流し周りやテーブルの上を片付けている時間はない。
 明日香は、確かあったはずだと思って冷凍室を開けて、カレイの切り身と豚の薄切り肉があるのを確認した。夕飯のメニューをカレイの煮付けと肉じゃがに決めると、出勤の支度をし、物干しスタンドを陽の光が良く当たるように窓際に寄せ、そして家を出た。
 明日香は早足で坂道を下る。
 今日は何がなんでも会社を定時で出る。白滝と牛乳を買って、帰って来たら洗濯物を畳んで、部屋を掃除してすっきりさせて、夕飯を整えて、彼に「お帰りなさい」と言う。
 そんな考えが頭の中を占めていた。

 明日香一は心不乱に伝票整理をしていた。この調子なら間違いなく定時に帰れそうだった。
「斉藤さん」
 出し抜けに声をかけられて、顔を上げたら課長がそばにいた。
「この間頼んだ資料は、できているかね」
 資料?
 明日香は首を捻った。





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