貴方がくれたもの 7


 明日香は鼻歌交じりで朝食の食器を洗っていた。彼岸を過ぎた仲秋の頃。キッチンの小窓から差し込む陽光の角度の変化に季節の移ろいを感じ、さわやかな空気に秋到来の気配を感じる。清々しい、心地好い朝で、明日香の口元にはいつしか笑みが浮かんでいた。
「行って来る」
 美都留の声がした。
 明日香は鼻歌を止めてリビングの方に目を向けた。グレーのスーツを着て、出張用のバッグを提げた美都留がこちらを向いている。
「忘れ物はない」
 明日香は咄嗟にそう口にする。
「大丈夫だと思う。――あしたは、一度電話を入れるよ」
「せっかくの土曜日なのにね」
 明日香は片付けの手を休めないで言った。今日は金曜日。美都留は会社に寄ってから出張に出かけ、あした帰宅する。一緒に暮らすようになってから初めての泊まりがけの出張だった。
「そんなに遅くはならないと思う。――それじゃあ」
 美都留は玄関に向かった。
「行ってらっしゃい」
 明日香は、いつもなら立ち働きながらそう言うのだが、今日は彼のあとを追い、靴を履くために身体を屈めかけた彼に近付きながら言った。
 すると、美都留は靴を履くのを止めて、何か思い出したような顔で振り返った。
 彼の意味ありげな目付きに一瞬、何? と思った明日香は、ふと彼のネクタイに目が行った。背筋を伸ばして立つ彼は、朽葉色の地に斜めストライプの入ったネクタイを締めている。
「明日香――」
「ちょっと待って――」
 明日香はエプロンのポケットに入れていたミニタオルで手を拭くと、ネクタイを直そうとして手を伸ばした。ネクタイが特に曲がっているわけではないが、ちょっと弄ってみたくなったのだ。
 柑橘系の甘い香りが明日香の鼻をくすぐる。それは、彼が付けている清流をイメージしたオードトワレの香り。
 明日香は、意識して彼の香りを深く吸い込んだ。いい気持ちになって、自然に頬が緩んで行った。
 美都留は明日香の艶やかな黒髪をじっと見詰めている。
「これでいいわ」
 明日香はネクタイから手を離した。と、頭のてっぺんにそっと手が置かれたので、何事かと視線を上げた。
「今日はゆっくりしてろ」
 美都留の口からねぎらいの言葉が出た。
 反射的に、はい、と返事をした明日香は、ふっと思い付き、彼の手を掴んで頭から下ろすと、自分の手のひらを彼の長い手のひらに重ねた。
 やっぱり大きいわ。この手、好き。
 明日香は、彼のすらりと長い指と指の間に自分の指をそれぞれ入れると、彼の手を握った。そうすると握り返された。それから頬に彼のもう片方の手が当てられた。
 そして、彼は言った。
「行って来る」
 明日香は彼の手に頬を心持ち押し付けて、
「行ってらっしゃい」
 と応えた。
 彼が玄関から出て行くと、明日香はリビングへと戻り、出勤の支度をしようとしてエプロンを脱いだ、その時、不意に彼の香りがしたような気がして思わず振り返った。リビングのドアは開いていたが、その向こうからは物音一つ聞こえない。
「匂いが移ったのかしら……」
 手や髪の毛の匂いを嗅いだけれど、匂わなかった。目を閉じて鼻で小刻みに息を吸ってリビングの空気を嗅いでみても、やはり匂わない。なんだったのだろうと訝しく思いながらリビングを見回した。
 リビングも太陽の光の差し込み加減が変わって、夏の頃とは異なる色彩を帯びている。
 秋の色だわ……。
 光の妙技に感動しながらつくづくと眺め回していたのだが、やがてソファに目を注いだ。ソファにはレースのカーテンを通して差し込む光が当たっている。このソファの上に、美都留は長い足を持て余すようにして横になっていることが多い。
 ソファに当たる光は、木漏れ日のようにちらちらしている。
 美都留に木漏れ日は良く似合う……。
 そんなことを思った明日香の瞼に、ある日の出来事が浮かんで来た。
 ――寝っ転がるなら、ベッドの方が楽じゃない。
 明日香はソファに身体を横たえている美都留の顔を上から覗き込む。
 ――ここの方が、お日様に直ぐ手が届くんだ。
 彼は身体を起き上がらせると明日香の手を取り、引き寄せ、隣に座らせて、
 ――ほら、直ぐだろう。
 と、顔を寄せて来る。
 そこで明日香ははっと我に返り、壁にかかっている時計に目をやり、大急ぎで支度して家を出た。
 その日の午前中はミーティングがあり、午後一番で顧客のところまで届け物に行き、それから伝票整理をしていたらクレーム電話があって、その対応に追われたりで、気が付くと終業時間になっていた。
 明日香が机周りを整理していると、営業の男性が声をかけて来た。
「石田さんは、もう帰った」
「まだ帰っていないはずです――」
 明日香は室内を見回して探したが、石田の姿は見当たらない。
「さっきまで確かにいたんですが……」
 男性に向かってそう言った時、ふと何かを感じて出入り口の方に目をやったら、石田が部屋の中に入って来た。石田さん、と明日香は椅子から立ち上がって声をかけた。
 寄って来た石田に、月曜でいいから、と男性は仕事の話しを始めた。
 明日香は二人の横で帰り支度をしながら考え、男性がその場から立ち去ると口を開いた。
「今夜、ご飯を食べに行かない?」
 石田は意外そうな顔をした。このところずっと明日香は終業時間になると、そそくさと帰って行くからだ。好い人ができたのだろうと軽く囁く人もいるが、平野美都留の名前が出るようなことはなかった。
「出張なの」
 明日香は、他の人に聞かれないように口元に手を当てて声を潜めて言った。
「今夜はこれから夜行バスで出かけるのよ」
 石田はそれから何を考えたのか、母親と行くの、と言い足した。
「そう……。それじゃあ、また今度ね」
 明日香はがっかりしたが、かと言って他の誰かを誘う気にもなれず、ロッカー室で靴を履き替え、廊下ですれ違った石田に、お先に、と言って一人で会社を出た。
 陽は既に沈んでいたが、空は未だ明るさを残していた。赤みがかった青い空には星がふたつ輝いて、西空の低い位置には細い月がかかっている。しかし、秋の夜の帳は駆け足で下りる。空は薄墨を重ねて塗られて行くかのように青色から青鈍色へとみるみる変わり、そこに小さな星がぽつぽつと散らばってはかなげに揺らめく。月もだんだん沈んで行く。
 家々から漏れる明かりと街路灯の光に照らされた仄暗い坂道を、明日香は上っていた。
 車の往来はそこそこある。車が通り過ぎるたびに、明日香の姿とプラタナスの木が車のライトの光を受けて薄闇の中にぱっと浮かび上がり、すだく虫の声が車の音に一瞬かき消される。
 明日香は浮かぬ顔でため息を吐いた。
 結局、まっすぐ帰って来ちゃった。この先には時間を潰せるようなところはないし……。
 彼女は会社を出てから坂を上り始めるまでの間に、建物から溢れ出す光と、その光に誘われるように吸い込まれて行く人たちに何度か目が行った。昔は、と言ってもアパートで独りで暮らしていた時のことだが、一人でもよく寄り道をしていたし、今夜は時間を気にする必要もないので、ちょっと寄って行こうという気持ちが沸き起こり、光溢れる賑やかな方に足を向けたものの、何歩も歩かないうちに急速に興味が引いてしまって、今夜もいつものように道草を食わないで帰って来た。
 エレベータに乗り込んで、五階のボタンを押した。上昇するエレベータの中で、何をしようかな……、と明日香は考えた。帰り着くまではそれこそ帰宅するという目的があったが、帰宅したあとは秋の長い夜をどう過ごせばいいのかわからない。
「つまらない……」
 口の中で呟いた。
 自宅のドアを開け、微かな明るさを頼りに短い廊下を進み、淡い外光が入るリビングの照明スイッチを入れ、バッグをリビングの隅に置いた。
 どうしようかな……、とまた考えたものの、妙な疲労感が滲み出て来て、思考力は鈍くなって、ぼうっと佇んでいるだけだった――。
 静寂の中に電話の音が鳴り響き、明日香の頬がぴくっと動いた。
「美都留君?」
 口の中で呟き、そうであれと念じながら受話器を耳に当てた。
「はい。――こんばんは。美都留さん、出張で今日は帰らないの。――山久君は土日が忙しいものね。――そう? それじゃあ、電話があったことは伝えておくわ。――お休みなさい……」
 明日香は、山久が電話を切ったのを確認してから受話器を置いた。そして、
「調子が出ない……」
 と、言葉を漏らし、大きなため息を一つ吐いた。
 昔は一人でも十分楽しく過ごしていたのに……。
 そのいくつかの場面を思い起こした。しかし、
 なんで一人でも楽しいと思えたのかしら……?
 我ながら不思議な気持ちでいっぱいになる。それと同時に、美しい十六夜の月を美都留と一緒に眺めたことが瞼に浮かんでいた。
 寝よう、と明日香は思った。寝てしまえば、月の光のない夜は、知らぬ間に終わる。
 軽いもので夕飯を済ますとあしたを楽しみに床に就いた。しかし、なかなか寝付かれない。
 彼の舌に合わせた薄い味付けに慣れた。
 彼を朝、送り出し、夜、食事の支度を整えて待つのも、彼の身の回りの世話をするのにも慣れて、それが当然になった。
 いつも当たり前のように隣から聞こえる彼の寝息が、今夜は聞こえない。
 彼の気配が、今夜はどこにもない。
 今夜は一人。
 一人は寂しい。一人は不安。
 色々な想いが胸の中で渦巻いて、でも想いを受け止めてくれる人がいなくて、それが辛くて、明日香は布団の中で身体を縮こまらせた。

 たっぷりと時間をかけて端から端まで読んだ朝刊を畳むと、明日香は椅子から立ち上がり、空のコーヒーカップをキッチンに持って行った。カップを洗いながら、行くとしたらお昼前の方がいいわよね? と考えた。
 シンクに跳ねた水を拭いて、濡れた手を拭いて、冷蔵庫や戸棚を開けて何があるかを確認したところ、やはり買い足す必要を感じた。
「それにしても随分曇って来たわね」
 明日香は独り言を言いながら、空模様を見ようとして洗濯物の干されているベランダに出た。さっきまで雲間から薄日の差していた空は、今はすっかり雲に覆われている。新聞の天気予報によると午後から雨が降る。
 傘、持って行ったのかしら……。
 どんよりした空を眺めながら、明日香は美都留のことを心配する。
 美都留からいつ電話があるかわからないし、遅くなると雨が降るらしいので、直ぐに出かけることにした明日香は、玄関に彼の傘が揃っているのを見て眉根を寄せた。が、彼女も、雨が降るのは午後からだと決め込んで、荷物になる傘は持たないで家を出た。
 ところが、坂を下り始めていくらも進まないうちに、手の甲にぽつりと何かが当たったのを感じて、雨? と空中の一点を目を凝らしてよく見た。
 絹糸のような細い雨がまばらに降っている。
 明日香はどうしようかと考えた。傘を取りに戻った方がいいような気もするのだが、五階まで上るのが面倒臭くもある。わずかな手間を省きたい気持ちが、自分の感覚よりも天気予報を信じる気にさせる。明日香は先を急いだ。
 しかし、細い雨は間断なく降り続く。歩行者が傘を開き、走行中の車がワイパーを動かす。
 明日香はついに引き返した。
 大外れだわ。天気予報のウソつき。
 天気予報を恨んだ。
 いつしか雨は大粒となって、ばらばらと音を響かせる。明日香は自然小走りになる。
 マンションのエントランスの中に入ってやれやれと思い、服や髪をハンカチで拭きながらエレベーターに向かうと、エレベータの閉まりかけたドアが何故か開いたので、そこに急ぎ足で乗り込んだ。
 エレベーターには四階に住む年配の女性が乗っていた。その人から明日香は何度か声をかけられた。今日もそうだった。
「降って来ましたね」
「ええ。午前中なら大丈夫だと思って傘を持たないで出たら、失敗でした」
 明日香は応えた。
 部屋に戻ると真っ直ぐベランダに向かい、物干しスタンドを部屋の中に入れようとした。動かし難かったのだが、むきになってそのまま引っ張り込んだ。それから着替えるとほっとして、動くのが億劫になって、ソファの背もたれに身体を預けた。
 ……。
 明日香は見るともなしに生乾きの洗濯物を見ている。
 ……。
 瞼が重くなって来た。
 夕べ、あんまり寝ていないから。ちょっとだけ……。
 直ぐまた出かけるつもりで、ソファに身体を横たえると目を閉じた。耳を澄ますと雨の音が聞こえて来るような気がする。
 美都留君、やらずの雨に足を止められなければいいんだけれど……。
 霞み行く意識の中でそんなことを思った。
 ……。
 薄ら寒さを感じて、明日香は目を覚ます。夢うつつで身体を起こすと、無意識に時計に目をやった。時計の針は三時過ぎを指している。
 もう買い物は済ませたのよね……?
 朦朧とした頭で考える。
 何を買って来たんだっけ……?
 思い出そうとしたら、雨に降られて途中で帰って来たことが思い出されて来た。
「まだだった!」
 思わず声に出した。
 自分に呆れて暫しぼうっとしていた明日香は、やがて立ち上がるとベランダの窓から外を見た。本格的に雨が降っている。
 湿ったひんやりした空気が漂う中で、明日香は思った。
 夕べから半端なことをしているような気がする。落ち着く場所が決まらなくて、さまよい続けてるような感じがする。あの人がいないと何をしたらいいのかわからない。あの人がいないと私、駄目みたい……。
 額を窓ガラスにこつんと当てて、瞼を落とした。
 ……。
 電話が鳴った。
 明日香ははっと目を開けた。
「美都留君?」
 今度こそそうであれと祈るような気持で受話器を持ち上げた。
「はい」
<美都留だ>
 彼の声を聞いた瞬間、明日香は閉塞感から解放されたような気がした。
<これから帰るよ。昼までには終わると思ったんだが、今までかかってしまった。それで、夕めしの支度、もうしたか? 評判のいい駅弁があるんだ。どうせなら、明日香と一緒に食べたいと思ってな>
「それが夕飯ってことよね? それでいいわよ。山久君から電話があったわ。彼も出張が続くから、折りを見てまた電話するって。ねえ、傘持っているの。こっち、結構降っているのよ」
<山久が? わかった。こっちもたまにぱらぱら落ちて来るが、傘がいるほどの雨じゃない。そっちに着いて雨がひどいようだったら、タクシーを使うから、心配するな。それじゃあ、駅弁、買って帰るから。――実はもう買ってあるんだ。予約制でな……>
「あら? はい。気を付けて帰って来てね」
 明日香は顔を輝かせて、弾んだ声で言った。
 電話を終わると、気力がみなぎっている自分を明日香は感じ、あした友人の結婚式に出るための支度をしようと思い立ち、取りかかった。
 降りしきる雨の中、六時過ぎに美都留は帰宅した。
「お帰りなさい。濡れたでしょう」
「少しな。やっぱりタクシーにした。――どうだった? ゆっくりできただろう」
 明日香は笑い顔を作って、
「夕べはまっすぐ帰って来て早く寝ちゃった。今日も出かけようとしたら雨が降って来たから昼寝しちゃった」
 と言った。
 美都留は直ぐに、
「それは、よかったな」
 と、言葉を返した。
 彼が着替えると、明日香は彼のスーツの手入れをした。それが済むと味噌汁を作ってテーブルに運び、美都留の向かいに座って駅弁の包みを解いた。
「わあ、豪華。言われないとこれが駅弁だなんて思わないわよ」
 明日香が言うと、美都留はしたり顔をした。
 見た目だけではなく、量も味も申し分なかった。口中に広がる味わいの豊かさに、彼と過ごす時間の豊かさを重ね、明日香は彼との時間を噛み締める気持ちで、ゆっくりよく味わって食べた。
「幸せそうな顔だな。――あしたは晴れるらしいじゃないか。よかったな」
 美都留が和やかな口調で言った。
 すると明日香は箸を止めて思案顔になった。そして、
「私……、やっぱり二次会には出ないで帰って来るわ」
 と、深刻な口調で言った。二次会に出席すると帰りが遅くなってしまう。
「なんだ、また言っているのか。俺なら適当にやっているから大丈夫だよ。長年の友人だろう。最後までしっかり祝ってやれ」
 彼の言うことは尤もなことで、ありがたいことでもあると明日香は思いつつ、気が進まない。彼女は、気の置けない仲間同士の二次会に出席したいのだが、そうすると彼を放っておくことになるので、それが嫌だった。けれども、出席しないと積極的に勧めてくれる彼の気持ちを粗末にするようで、それも嫌だった。
 明日香は迷った末に、
「美都留君がそう言うのなら出て来るわ。――ごめんなさい」
 と、身体を小さくして頭を垂れた。彼に気兼ねする気持ちがあった。と、美都留が出し抜けに立ち上がったので、それにひどくびっくりして、
「どうしたの?」
 と、どぎまぎして彼を見上げた。
「お茶が欲しい。明日香もいるか?」
「ごめんなさい。私がやるわ――」
 明日香は思わずそう言って席を立って行った。
 美都留は腰を下ろして怪訝そうな顔をした。
 戻って来た明日香はお茶を彼の前に置くと、
「それと、私、来週帰りが遅くなりそうなの。――ごめんなさい」
 と、眉間にしわを寄せた申し訳なさそうな顔をした。
「うん、そうか……」
 美都留はそう応えた。が、内心では彼女の様子の変化に戸惑っていた。さっきまでにこにこして飯を食っていたのが、なんでこんなに卑屈になるんだ? とわけがわからないでいた。
 明日香の方は、何か考え込んでいるような表情を見せる美都留のことを気にしていた。
「ご馳走様」
 明日香が言った。
 するとそれを待っていたかのように美都留は口を開いた。
「なあ。俺がいない間に何かあったのか?」
「別に何もないけれど、どうして?」
「いや、なんか明日香おかしいから……」
「あら、そう? だったら、美都留君がいなくて手持無沙汰で調子が狂っていたから、まだそれが続いているのかもね」
 明日香は変に気を使ってそう言った。
「そうか。それだったらいいんだが……」
「それだけよ。だから、そんな心配そうな顔をしないで。――心配かけてごめんなさい」
 またごめんか、と美都留は思った。言われると、すっきりしないものが残るのだ。





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