貴方がくれたもの 6


 明日香はベンチのそばに突っ立って、交差点の向こう側に並んで立つ美都留と女性を、ガラスを通して眺めていた。
 交差点を何台かの車が横切って行く。
 信号が切り替わった。
 美都留が歩き出し、女性も歩き始め、並んで横断歩道を渡って来る。二人はやはり言葉を交わしているようだった。余所目には二人は知り合い同士に見える。当然、明日香の目にもそう見えていた。
 この辺りに知り合いがいるなんて、知らなかったわ。
 明日香はそんなことを思いながら、二人に視線を当てていた。
 二人は横断歩道を渡り切ると立ち止まって、向かい合った。どうやらまだ話しを続けるつもりらしかった。
 何を話しているのかしら?
 明日香は首を傾げた。
 店内からは音楽や雑多な音が流れて来て、うるさかった。店の出入り口の自動扉が開くたびに車道を行き交う車の音が大きく流れ込んで来るが、二人の声などこれっぽっちも伝わって来ない。ひょっとすると、周囲が静かで、ガラスが邪魔をしなければ、二人の話す声をかろうじて聞けるかもしれない。もっとも、そうして音声として聞くことはできたとしても、言葉として理解することは無理かもしれない。明日香と二人の間の距離は、それくらい開いていた。
 立ち姿の奇麗な人……。
 明日香は、遠目に見る女性のことをそう思いながら、美都留を待っていた。
 美都留と女性が、お別れの挨拶を交わすような動きをした。そして、二手に分かれた。美都留の方は、店の正面出入り口に向かって歩いて来る。女性の方は、明日香たちがさっきやって来た店の横手に接する歩道をやって来る。
 たとえば、美都留と女性が立ち話をしていたところを頂点、ガラス張りの広い店舗間口を底辺とする三角形を考えると、美都留は底辺真ん中くらいを、女性は底辺右角を目指して進んでいるような感じだった。そして、明日香は、底辺から少し引っ込んだ右端寄りにいて、二人の姿に目を当てていた。
 美都留が自動扉の前に立った。扉が開いた。
 明日香は、やっと来た、と苦笑を浮かべながら美都留の姿にしっかり視線を当てたのだが、ふと彼と話し込んでいた女性のことが気になって女性の方に視線を転じた。女性の顔かたちが、さっきよりもはっきりわかる。
 明日香は、あれ? と思った。その女性を以前どこかで見たような気がして、思わず目を凝らして見詰めた。
 と、突然、女性が明日香の方に顔を向けて、立ち止まった。
 不意の出来事で、明日香はどきっとして、慌てて女性から目を逸らした。ところが、一体どこで会ったのか、誰だったのかが、どうにも気にかかる。それで、いけない、止めようという気持ちよりも、好奇心の方が勝って、また女性に目を戻してしまった。そうしたら、明日香の視線と女性の視線が一直線に結ばれた。
 あれ? と再び明日香は思った。つい最近、これと同じようなことがあったような気がして、思考を巡らせた。こんなにじっと見ていたら失礼だとか、愛想笑いの一つでも浮かべるとか、そんなことにまで気が回らなかった。考えた末に行き着いたのは、Sさんとすれ違った時のことだった。
 そうか。Sさんだわ。
 明日香は、多分、そうだろうと思った。
 Sさんと思われる女性は、視線が合っても動じた様子を見せずに涼しい顔をして、いくらかゆっくり歩いていた。そして、ガラスを隔てて明日香に最も近付いた時、明日香から視線をすっと外し、あらぬ方に向かってにっこりと微笑んで軽く頭を下げると前方に向き直り、歩き去った。
 明日香は、その女性が視界から消えると振り返って、
「お辞儀したあの人、Sさんよね」
 と、そばに立っている美都留に訊いた。そして、Sさんは美都留に挨拶をしたのだろう、と思った。
「そうだ」
「やっぱり。――それ、借りて来たの」
 明日香は、美都留の手にしている一冊の本に目を向けた。
「ああ。以前読んで、また読みたくなった。見るか?」
 美都留が本を差し出した。
 明日香はそれを受け取ると、表紙に目を落とし、ふうんという顔でページを開いてぱらぱらとめくった。
「なんだか小難しそう。読んでいるうちに、絶対寝ちゃうわ」
 明日香はその本に興が湧かなかった。
「かつての図書委員が何を言う」
「美都留と私の読書レベルを一緒にしないで」
「Sさんは、これを読んだことがあるって。面白くて為になったって。あの人の解釈には感心した」
 この言葉に、明日香はかちんと来て、
「そう? それで話していて、なかなか来なかったのね。どこで一緒になって、そんな話になったのよ」
 と、内心むかむかしながら言った。
「図書館で声をかけられた。いい本を選ばれる方だと感心しておりました。だってさ。――さあ、帰ろう。その本は、持っててくれ。これでいいんだろう」
 美都留はベンチの上にあった袋四個を、両手にそれぞれ二個づつ持った。
 明日香は、あら、まあ、と思った。怒気が少し薄らいで、
「一人じゃ、重いでしょう。私も持つわ」
 と言った。
「これぐらい平気だが、じゃあ、一つ頼む」
 明日香は彼の大きな手から荷物を一つ受け取った。気持ちは収まり、頬が自然に緩んだ。
 翌日。二人が水族館に行くために家を出て、マンション近くの公園横を歩いている時だった。いきなり明日香が、うわっ、と声を上げて、身体のバランスを崩した。
「どうした。大丈夫か?」
 美都留は、彼女が何かに足を取られたのだろうと思った。
「ヒールが……、取れちゃった」
 明日香は、路上に転がっているヒールを拾って美都留に見せた。
 美都留は彼女の足元に目をやった。確かに、右靴にヒールが付いていなかった。
「挫かなかったか?」
 美都留が心配そうな顔で言った。
「ちょっと危なかったけれど、平気。――履き替えて来るから、ここで待っていて」
 明日香は来た道を戻った。出ばなをくじかれたことと、歩きにくいことで、気がくさくさしていた。角を曲がったところで、ベビーカーを押した一組の男女に出くわした。明日香は男性の方を何度か見かけたことがある。マンションの住人ということは知っているが、名前までは知らない。習慣的に、こんにちは、と声をかけながらすれ違った。
 誰かがマンションの外階段を下りて来る。明日香はそれを横目にエントランスに向かった。
 エントランスのガラス扉の向こうに人影があった。と、ガラス扉が押し開かれて、Sさんが出て来た。
 明日香は咄嗟に眉を顰め、あまり関わりたくないと思った。しかし、そんな気持ちを押し殺し、なんでもないような表情で、こんにちは、と形の上だけの挨拶をすると、Sさんと入れ違いにエントランス内に入った。そして、部屋に着くとやれやれと思い、靴を履き替えて美都留のところに急いで戻った。が、角を曲った途端、はっとして思わず立ち止まった。
 美都留とSさんが一緒にいた。Sさんが美都留に話しかけている。Sさんの話が明日香にはよく聞き取れなかった。
 あそこだけ空気が違う……。
 明日香はそこに高尚な雰囲気を感じて、気おくれがして、美都留のそばに行きにくかった。そうしたら、美都留がこちらを見て、明日香、と呼びかけて来た。
 Sさんも、ちらりとこちらを見た。そして、では、お先に、とそんな風なことを美都留に言って、その場から離れて行った。
 明日香は、ほうっと息を吐くと美都留に近付いた。
「お待たせ。今のSさんね。私もさっきすれ違ったのよ」
「ああ、向こうから寄って来た。あの人、思っていたよりも人懐っこいみたいだ」
 明日香は彼の意見に納得できなくて、
「そうなの?」
 と、不満そうな声を漏らした。
「さあ、行こう」
 美都留が歩き出した。
 明日香は彼に従って歩いた。ところが、坂に差しかかった時、坂を下っているSさんの背後姿が目に入り、歩く速度が落ち、彼に遅れた。
「どうした?」
 美都留が振り返って、
「やっぱりさっき足を痛めたんじゃないのか」
 と、戻って来た。
「そんなことないわ。ほら――」
 明日香は何度か足踏みした。そうしているうちに、Sさんの姿は見えなくなった。
 その日、明日香は今一つ楽しくなかった。ふとした拍子にSさんのことが頭に浮かんで、重苦しい気持ちになった。
 あの人は、どうも苦手だわ――。
 明日香の中に、Sさんに対するそんな気持ちが根付いてしまった。

 明日香は美都留と一緒に暮らすようになってから、彼の感覚を理解できない時があった。その場の有様を見れば、彼が何をしていたかなど一目瞭然。なんでやりっ放しで平気なのか、とその締まりのなさに頭を抱えた。
「ねえ、美都留、ここはもういいの? 終わったんならさっさと片付けてよね。ここは私の通り道なんだから、こうなんでもかんでも置きっ放しにされると邪魔なのよ」
 明日香はいきり立って文句を言うと、床の上に散らかっている品々を拾って有るべき場所に戻した。それから、
「お願いだから、終わったら、その都度片付けてよね。それから、服もあっちこっちに脱ぎっ放しにしないこと」
 と、困った顔で美都留に笑いかける。
 すると、それまで彼女の勢いに押されたように沈黙していた彼は、わかった、と口ごもった声で応える。
 そういうやり取りもあったし、また、彼の手際が悪いものだから、見るに見かねて彼女が口を出し手を出すと、彼は何も言わないで手を引っ込めて、彼女のするがままに任せるということもあった。
 彼は今でも以前と変わらず、悠々閑々と構えている。
 彼のこせこせしないおおらかさに、彼女は引かれている。ところが、一つ屋根の下で寝起きを共にしてから、やたらと目に付いて彼女を悩ませるようになった彼の引き締まらないところも、観察していたら、彼の美点であるおおらかさから来ているように思えた。
 とにかく明日香は見ていて我慢できなくて、何かと言うと手助けするつもりで彼に手を差し伸べていたのだが、自分でやった方が手っ取り早いと感じて、次第に先回りをすることが多くなり、いつしかそれが当たり前になってしまった。そうすることは、彼女にとって彼の手を煩わせないという約束を守ることであり、彼の役に立っていると実感することでもあって、自信であり、喜びでもあった。
 私のことを欠くことのできない存在だって言ったけれど、確かに私がいないとこの人は駄目ね。
 明日香はそんな想いを胸に宿して生き生きとした毎日を過ごし、その日もいつものように終業後まもなく会社を出て、まっすぐ帰宅したところ、いつもなら暗いマンションの自室に明かりが灯っているのに気付いて、怪訝な気持ちになった。
 玄関内に美都留の靴が脱ぎ捨てられ、リビングのドアが開かれていた。
 明日香は彼のいつになく早い帰宅に胸騒ぎを覚えながらリビングに入った。彼はソファに横になっていた。それに真っ先に目が行った明日香は、心配事が当たってしまったと思った。
「お帰り」
 美都留が身体を起こした。
「早かったのね。どうしたの?」
 明日香は、彼の体調を心配した。
「午後の打ち合わせが延期になったから、早めに帰って来た」
「なんだ――。また、具合が悪いのかと思って、心配しちゃった」
 明日香はほっとした。
「体調はすこぶるいい。――それで、せっかく早く帰って来たから、たまには飯の支度でもと思って始めて、いまちょっと休憩していたんだ。今夜の飯は俺に任せろ」
 美都留はソファから立ち上がった。
 明日香は思わずキッチンに目をやった。キッチン周りはごちゃごちゃしていた。
 座って通販のカタログでも眺めていろという彼の声がした。しかし、明日香はそういうわけにはいかないという気持ちで、
「でも――」
 と口にしかけたら、彼に座っていろと言われて頭のてっぺんに手を置かれたので、従わざるを得ない気持ちになって口を閉じた。
 見るとおそらく手を出してしまうだろうから、ソファに腰かけて、睨むようにカタログを眺めた。ところが、彼の立てる音がどうにもこうにもに耳に付いて集中できないので、気を紛らわそうとテレビを点けた。
 もう気が気でなくて、できたぞという声に、
「はあ――」
 と大きく息を吐き出し、テレビを消してテーブルに付いた。
 献立は肉じゃがとコロッケで、コロッケは少し焦げていた。
 栄養のバランスは別にして、思ったよりもちゃんとしたものが出て来たことに明日香は感心しながら、
「頂きます」
 と言って、コロッケを口に入れた。そして、
「この焦げたところがなかなか乙ね。これもいいわ。美味しい」
 と褒めた。
「そうか? 明日香の好きなものをと思って。初めて作ったにしては上出来だろう。――肉じゃがも食べてみろ。時々作っていたから、自信あるんだ」
 明日香は言われた通りにした。そして、
「美味しい」
 と、目を丸くし、喜び勇んで食べた。
 美都留はご満悦の様子だった。
「すごく嬉しそうね」
 明日香は言った。そう言わずにはいられない浮き浮きした表情だった。
「それは嬉しいさ。明日香が俺の作ったものを美味しいって食べてくれるんだから。明日香にはやってもらってばかりだから、俺だって明日香に何かしてやりたい。明日香の喜ぶようなことを。――だから、明日香が笑っているなら、それでいい。明日香の生き生きとした笑顔があるんなら、俺はそれが一番嬉しいんだから……」
 言い終えた時には、彼の様子が変わっていた。
 彼は静かな雰囲気を漂わせている。いつもならそれに明日香はほっとして気が休まるのだが、何故か今回はそうはならなかった。
 なんかしっくりしない……。
 明日香は違和感を感じて戸惑い、困って、
「隣のご夫婦、どこに越したのかしら? 私、とうとうまともに顔を合せなかったわ」
 と、まるで関係のない話題を持ち出した。
「さあ――」
 美都留は関心がないようだった。
「Sさんの部屋にも明かりが点いていたわね――。あの人、何を勉強しているのかしら?」
 明日香はついそう言ってしまった。
「医学だ。医師免許を持っているって」
「えっ? じゃあ、あの人、学生じゃなくて、お医者さんなの」
 明日香は、絶対診てもらいたくないと思った。
「大学院で研究しているって」
 すらすらと答えが出て来るものだから、明日香はなんとも言えない気持ちで美都留の顔に視線を当てた。
 それを彼は自分なりに解釈して、話を続けた。
「父親も兄さんも医者で、Sは母方の姓で、あのS氏の分家だって」
「あのS氏って?」
「九州のSだよ。世が世ならば大名のお姫様だ。と言っても、あそこは分家が多いから、一括りでは考えられないが」
「あの人のこと、随分詳しいのね……」
 明日香は、妙に不愉快だった。
「何回か話しをしたから」
 美都留はそう言ったのだが、何か感付いたらしく、
「向こうから声をかけて来て、勝手に喋るんだ。俺は話を合わせただけだ」
 と言い直した。
「なんか、口が軽い人ね……」
 明日香は油断できない相手だと思った。
「いや、軽率なのとは、また違う。感覚が一般人とずれているだけだ。人柄は悪くないし、つい聞き入ってしまう話し方をする。――それで、今度留学するんで、ここはもうじき、引き払うそうだ」
「もう、いいわ!」
 明日香は我知らず声を上げた。
 美都留はきょとんとした。
「後片付けは私がやる!」
 明日香はやけっぱちな調子で言った。
「今日は俺がやるって」
「だって、美都留がやるとシンクの周りが水浸しのままなんだもん。それに、やりっ放しにしないでって、いつも言っているのに……」
 明日香はキッチンに目を向けた。キッチン周りはがっかりするような有様だった。そのせいなのかどうかはわからないが、明日香は泣きたいような気持だった。
 一瞬、何か考えるような表情を見せた美都留は、
「気を付ける……」
 と、押し殺したような声で言った。
 それからの二人は一言も言葉を発しないで、用を身振り手振りで伝えた。
 明日香が風呂から上った時には、美都留は既にベッドに横になっていた。
 ほのかな明かりが灯る寝室で、明日香は布団に入ろうとして、ふと彼の後ろ姿に目をやった。やるせない気持ちが込み上げて来た。そんな気持ちをぐっとこらえて布団に潜り込んだ。すると、
「明日香」
 と、美都留が寝返りを打った。
 薄明かりの中で、彼は明日香をじっと見詰めた。その視線を明日香は息を殺して受けていた。しんとした時間が流れた。
 息苦しいような静寂を破ったのは美都留だった。
「お休み」
 彼は言って、また寝返りをした。
「行ってもいい?」
 明日香の口からそう微かな声がこぼれた。
 美都留が身体の向きを変えて掛け布団を持ち上げると、明日香は夢中で彼の胸に飛び込んだ。
「まったく、この甘えん坊が――」
 美都留は囁いて、明日香の髪を撫でた。
 明日香は張り詰めていたものが緩んで行った。ごめんなさい、と心の中で呟いて、彼の胸に顔をこすった。





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