貴方がくれたもの 5


 鰹節をシャッシャッと削る。大根をトントンと刻む。鰹節で取った出汁に大根を入れ、大根が透き通ったら火を弱めてお味噌を溶き入れる。フワリと広がるお味噌の香り。明日香は火を止め蓋をした。これで朝ごはんの支度が整った。
 次に、粗熱の取れたお弁当に蓋をして、それを重ねてバンドで固定すると、キッチン側からカウンターの上に置いた。お弁当は前夜に作ったものをアレンジした。これまでもそうして作っていた。
 新居からの出勤初日。そろそろ起こした方がいいだろう、と明日香が思ったその時、寝室につながる戸が開いて、美都留が寝間着姿で出て来た。
「おはよう」
 明日香は、キッチンから軽やかな口調で声をかけた。
「はよ――」
 美都留は面倒臭そうに言って、鈍重な動きでソファのそばまで行った。しかし、何故かぴたっと止まったかと思ったら、今度はキッチンの方に近寄って行き、カウンター越しに睨むような目付きでガスコンロの上の鍋を見て、
「味噌汁、何?」
 と、がらがら声で訊いた。
「大根。油揚げも入っているわ」
 すると、美都留のしかめっ面が綻んだ。
「ちゃんと起きている」
「なんとか、この辺くらいまで起きている――」
 美都留は右のこめかみに人差指の先を当てて、いかにも気だるそうに言った。
 エンジンがかかるまで時間のかかる人だわ。
 明日香はそう思いながらコップに冷たい水を入れて、それを彼に差し出した。
「ありがとう。――このピンクの箱は何?」
 美都留は、カウンターの上に置かれてある箱が気になるようだった。それは辞書くらいの大きさで、それを立ててあるという感じだ。
「私のお弁当箱」
「これが――」
 自分が持つ弁当箱のイメージとはかけ離れていて、美都留はどうもぴんと来なかった。
「こういうのがあるんだ。これも通販?」
 明日香は、そうよ、というようににこりとした。
 美都留は空になったコップをカウンターの上に置いて、代わりに新聞を手にした。
「朝、新聞が届くなんて久しぶりで、新鮮な感覚だったわ。私は取っていなかったから」
「俺は、これがないと物足りない。それにチラシも営業の大切な情報源になる」
 そして、明日香の通販も奥が深いな。今度カタログを見せてくれ。と、感心したように言った。
「チラシがねえ。なるほど。――朝ご飯、どうする?」
 明日香は食べないと、十時頃お腹がグーグー鳴り出す。それで何度か恥ずかしい思いをしたことがある。でも、美都留はずっと朝食抜きだった。それに、これまでは通勤に電車を使わなかったが、これからは使う。食べると電車内で具合が悪くなることも考えられるので、食べて欲しいのはやまやまだが、無理強いはできない。
「食べる。胃袋が味噌汁を飲みたいって騒いでいる」
 美都留は新聞を持ってソファに腰を下ろすと、見出しにざっと目を通して行く。
 明日香は朝食を低いテーブルの上に、二人でご飯を食べるには、朝はいいけれど、夜はここではやっぱり狭いわ。早くテーブルが来ないかしら。などと独り言のように呟きながら並べた。ダイニングテーブルも通信販売で頼んだが、まだ届いていない。
「どれ、頂こう」
 美都留は、新聞はソファの上に広げっぱなしで、明日香の向かいに座って味噌汁をすすった。
「美味い。胃の腑にすーと染みて行く」
 味噌汁が美都留をしゃきっとさせたようだった。
「食べられそう?」
「食べられる。身体が欲しがっている。明日香のお陰かな――」
 彼が、どういうつもりで、お陰、などと口にしたのかわからない。解釈は色々できる。そうなのだが、それを聞いた瞬間、明日香の脳裏には彼との愛の営みが甦った。
 耳元で愛を囁く彼の声が、肌にかかる彼の息が、肌を這う彼の熱が、やけに生々しく思い出されて、明日香は幸福感と満足感でぼうっとなった。
「飯に向かって、何、にやにやしているんだ」
 その言葉に、明日香ははっとして顔を上げた。美都留が怪訝そうに目を眇めていた。
「別に、にやにやなんてしていないわ」
 明日香は、つんと取り澄ました顔で平然と言った。
「そうか? なんか面白いことでも思い付いたのかと思った。――帰りは多分、八時頃になると思う」
「私は、今までとほとんど変わらないから、どんなに遅くても七時。それより遅くなることは滅多にないわ」
「なんでもやってみないことにはわからないから、今週過ごせば生活のリズムも整って来るだろう――」
 美都留が出勤した十分後、明日香も出勤する。リビングを出て行きかけた明日香は、ふと気になって振り返った。
 リビングは、物が収まるべきところにきちっきちっと収まっている。美都留が広げっぱなしだった新聞とチラシもきちんと揃えて畳んでカウンターの上に置いた。ベッドも整えたし、美都留が脱ぎっぱなしだった寝間着もハンガーにかけた。食器も洗って拭いた。
 奇麗。完璧。
 と、明日香はほくそ笑んだ。奇麗な部屋から出かけて行くのは気分がいい。奇麗な部屋へと戻って来るのはもっと気分がいい。
 夕飯の下準備もしたし、この調子この調子。
 と、思いどおり順調に事が運んでいることで明日香はにんまりし、ウォーキングシューズを履き、3ウェイバッグを肩からかけ、足取り軽く会社に向かった。
 会社のロッカー室で、明日香がパンプスに履き替えていたら、おはよう。との声がして、隣に人が立った。明日香はその人にちらりと目をやって、おはよう。と返した。それは同僚の石田だった。
 自称身長百五十センチの石田は、座敷わらしを思わせるような女性で、入社以来の明日香の友人だった。明日香は彼女の代わりに会食に参加したから、美都留に再会できたのだ。
「お昼、弁天様で食べない」
 石田が言った。
 弁天様とは会社近くの弁財天を祀ってある小さな公園のこと。石田がここに明日香を誘うのは、明日香だけに聞いて欲しい話がある時だった。
 また、何かあったのね……。
 明日香は内心心配しながらも、
「いいわよ」
 と、顔ににこりとした笑みを浮かべた。
 十二時を回って、明日香と石田は一緒に会社ビルを出た。一歩外に出た途端、むっとした暑さが襲って来た。石田は、あつーい。と言い、公園の入口で、あたし、ちょっと行って来る。斉藤さんのお茶も買って来るね。と、お昼ご飯を買いにコンビニに向かった。
 公園には、小さな池と自然の小川を模した細い水路があった。池の中にはこじんまりした島が作られて、そこに弁天様を祀った祠が立てられている。
 明日香は公園内に入って、ほっと息を吐いた。周囲と比べてこの中はいくらか涼しかった。それに、街の喧騒の只中にいるのに、聞こえて来る音は小さくて、まるで遠くの街の音を聞いているかのようだった。樹木が多いので、それが涼しさと静けさを生み出しているのだろう。
 明日香は木陰の古ぼけた木のベンチに腰を下ろした。座る前にベンチをティッシュで拭いた。汚いという意識はないが、拭くのが習慣になっていて、拭かないと気が済まないのだ。
 石田がやって来て、明日香の隣に腰を下ろした。そして、お茶を渡しながら、
「平野さんのお弁当も作ったの」
 と言った。
「今はいいって。でも、いずれは欲しいって」
「それもそうだね」
 石田は軽く何回か頷いた。職場内の人で、明日香と美都留が恋人同士だと知っているのは、石田だけだった。
「人事課の女の子たちが、平野さんのことを話していたわ。仕事をスマートにそつなくこなす上に、顔は一級品。その顔を崩さないクールさがたまらないとかって。――そんなにしょっちゅううちの会社に来るわけでもないのに、どういう情報網を持って、どこから見ているのかしらね」
「さあ? でも、うん。気を付けるわ」
「そうした方がいいよ。――斉藤さん。あたし、今度こそ本当に別れたから」
 石田は、少しおどけた顔で、手のひらを空に向けて肩をすくめた。
「えっ? だって、やり直すことにしたばかりじゃない」
「やり直したいって向こうから言って来て、約二箇月、過ごした。正直、最初の別れた理由ってないのよ。なんとなく会う回数が減って行って、いつの間にか疎遠になった。でも、いざ会わなくなったら、今度は会いたいって気持ちが強くなって、向こうもそうだったって。やり直そうって言われ時は、すっかり舞い上がった。だけど、冷めるのも早かった……。一緒にいても楽しいと思えない人、そういう人になってしまったんだってはっきりわかって、向こうも同じことを感じていた。お互い、少しばかり残っていた未練を断ち切るための二箇月だったってこと。今度はちゃんとした理由があって、きちんと別れた。やっと終われたよ。解放された気分」
 自由っていいな、と独り言のように呟きながら、石田はサンドイッチの包みを開けた。
 小柄で童顔の石田がサンドイッチをいかにも美味しそうに食べるのを、明日香は複雑な気持ちで眺めた。さばさばしているが、それがなんだかわざとらしく思えて仕方がなかった。
 明日香は珍しく箸の進みが悪かった。何故か母親の言葉が思い出されていた。
 平野さんの住んでいる辺りは、昔の風習が根強く残っていて、付き合いが難しいのよ。こっちの感覚でやると恥をかくわ。でも、美都留さんは長男じゃないし、家を離れているから、いくらか気は楽だけれど。
 あんたはうちの総領娘で、いつだって自分の言い分が通ったし、今も自分一人の裁量で自由にやっている。わかっているだろうけれど、向こうではあんたの言い分は通らないし、通そうなんて考えちゃ駄目だからね。
 あんたたちの勝手を許してくれた、向こうのご両親に感謝するのよ。
 明日香は改めて考えた。
 彼に結婚しようと言われて嬉しかったけれど、いくつかの自由をまだ手放したくないという気持ちもあった。
 彼を夫と呼び、彼の妻と呼ばれたいけれど、平野美都留君、斉藤明日香さんともう少し呼び合っていたかった。
 思い立ったら脇目も振らず突っ走るところがある自分だけれど、彼と共に歩む人生は一歩一歩足元を固めながら進みたい。
 そんな自分に彼は時間をくれた。この時間を大切にしたい。
 木の葉が微かな音を立てた。
「風が出て来たね」
 石田が言った。
 明日香は何気なく視線を頭上に向けた。白い光が木の葉の間から射して来る。
 さわさわという葉擦れの音に加え、さらさらという水流の音も明日香の耳に届いていた。それらが明日香の心の琴線に触れた。
 明日香はちらちらと散る木漏れ日を浴びながら、風と水の音に聞き入った。
 風が木の葉を鳴らす音が、耳に心地好く響く。美都留の囁く声が、そうであるように。
 水のよどみなく流れる音に、気持ちが安らいで行く。美都留の穏やかな口調に、心がなごんで行くように。
 その日の夜、明日香は満面に笑みを湛えて美都留に、お帰りなさい、と言ったのだが、美都留は素っ気ない態度で、ああ、と応えるとソファに崩れるように座り込んだ。
「なんか顔色が悪いわよ。大丈夫」
「疲れた――」
 美都留はYシャツの襟元を緩めながら言った。
「忙しかったの」
「いや、特には。これは今日だけの疲れじゃない。夏の疲れがどっと来た感じだ。少し休んでから飯にする。食ったら寝る」
 美都留はソファの上に寝転がって目を閉じると、額に手を当てた。
「熱、あるの」
「ちょっと熱っぽい……。昼間は暑いけれど、朝晩は涼しくなっただろう。なんだか身体がついて行かない……」
 どうも疲れやすいようね。
 と、明日香は思った。それは以前から感じていたことでもあった。その原因の一つは、彼のこれまでの不規則な食生活だろうと思っていた。
 眩しいのか美都留は目を手で覆って、じっとしている。
 食事のバランスに気を付けよう。自分に先ずできることは、それだろう。
 と、明日香は考えた。
 明日香は保冷剤を冷凍庫から出してタオルで巻いて、それを美都留の額に当てた。
「気持ちいい。ありがとう。――明日香」
「何?」
 明日香は、床に膝を折って座っていた。
「今夜も味噌汁あるのか」
「あるわよ。今夜は玉ねぎとわかめ」
「いいな。明日香の味噌汁はほんと美味いよ。ただ、もうちょっと薄くてもいいかなって……」
「そう? うん……。わかったわ……」
 言われてみれば、美都留は薄味を好んでいた。やっぱり食事には気を付けないといけない。と、濃い味付けに慣れている明日香は思った。
「ああ、そうだ。エレベーターでSさんと一緒になった」
 美都留は、不意に思い出したとでもいうような感じで言った。
「Sさんって」
「隣の学生だよ」
「ああ。そう言えばそんな名前だったような」
 明日香は、学生の名前もまともに覚えていなかったし、顔も、一度すれ違っただけなので、あまりよく覚えていなかった。でも、確か美人系だった。
 そんな風に始まった週だが、美都留の体調が大きく崩れることはなく、平穏無事にその週は過ぎた。

 土曜日。明日香は窓辺にしゃがんで外を眺め、ベランダガーデニングの計画を練っていた。
「できた」
 背後で美都留の声がした。彼は午前に届いたダイニングテーブルの上で、新聞のパズルをやっていたのだが、それが解けたらしい。
 明日香はパズルを覗き込んだ。
「これ、懸賞なのね。送るの」
「そうだな。送ってみるか。俺、結構当たるんだ、懸賞」
「ふーん。――私、食品の買い出しに行って来るわ」
「どこまで行く」
「そうね――。アリタにする」
「だったら、俺も行こう。図書館に行ってみたかったから、丁度いい」
 二つはごく近い場所にあった。
 プラタナスの木が立ち並ぶ緩やかな坂の歩道を、二人並んで歩いて下る。
 いくらか風があった。時折強く吹き付けることもあったのだが、突然ひときわ強く吹き荒んだ。砂埃が立ち、ビニール袋が舞い上がり、プラタナスの枝葉が大きく揺れ、明日香の黒く艶やかなセミロングの髪が乱れ舞った。明日香は思わず立ち止まって髪を押さえた。
 すぐに風は鎮まった。
「すごかった。今のってつむじ風――?」
 明日香は乱れた髪に手櫛を入れた。
「突風だな。――あした、どっか出かけようか」
 美都留が言った。
「あした? あ――、なんだか急に水族館に行きたくなって来た」
 明日香は美都留を見やった。晩夏の日差しの中で、彼は顔に笑いを浮かべて頷いた。
 彼の自然な笑顔が、明日香は本当に嬉しい。
 アリタは交差点の脇に、図書館は交差点を渡った少し向こうにあった。
 アリタの建物に差し掛かり始めた時、明日香は歩きながら、
「買い物は私一人でも大丈夫だから、図書館に行って来たら」
 と言った。図書館のグリーンとアイボリーに塗られた建物の一部がそこから見えていた。
「そうか? それじゃあ、適当な頃に迎えに来るよ」
 美都留も歩きながら言った。
「買い物が終わったら、あそこにいるわ」
 明日香は、アリタの店内、ガラス張りの外扉と内扉の間に置かれてあるベンチの辺りを指差した。
 美都留は明日香と別れ、交差点を渡った。
 歩道に面した図書館のウインドウに、小中学校の児童生徒の工作や手芸品が展示してあった。美都留はそれを横目に通り過ぎ、入口に回り込んだ。
 それから一時間後。
 明日香は人待ち顔でベンチに腰を下ろして、美都留の迎えを待っていた。両脇には買い物袋が二個ずつ。
 その十五分後。
 美都留がなかなかやって来ないので、明日香は待ちくたびれて渋い顔になっていた。
 さらに五分後。
 もう待っているのが嫌になった。
 美都留にも持ってもらうつもりでたくさん買った。しかし、手当たり次第に買ったわけではない。下処理して保存しておこう。常備菜も作っておこう。そう考えて計画的に買った。自分には帰ってからやることが山ほどある。美都留の適当な頃というのがどのくらいかわからないが、彼のことだから、このあとのことなど考えないでのんびりと構えているに違いない。
 痺れを切らした明日香は、仕方ない。迎えに行こう。と思って立ち上がり、両手に荷物を提げて振り返った。そうしたら、ガラス越しに美都留の姿を交差点の向こうに見た。
「やっと来たわ」
 明日香はほっとして、思わず口からそう漏らし、自分一人で持って運ぶには重たすぎる荷物をベンチの上に下ろした。
 美都留は赤信号で止まっていた。美都留の隣には若い感じの女性がいた。二人は話をしているようだった。




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