貴方がくれたもの 4


 明日香は肌寒さを覚えて目を醒ますと、自分が布団をかけていないことに気づいた。夏掛けはベッドから落ちかけていた。明日香はそれを身体にかけ直したのだが、サラサラ感のある軽い夏掛けでは薄ら寒くて、毛布のことが頭をかすめた。
 その時の室温は夏の快眠に適したものだったが、身体が猛暑に慣れていたので肌寒く感じたのだ。
 何時だろう。
 明日香は思って、ベッドの左脇に右手を伸ばした。そこに時計があることを身体が覚えていた。果てしてそこに時計はあった。
 明日香は時計を掴んで目の前に持って来た。そろそろ五時半を回ろうとするところだったが、そのわりには薄暗いと思った。そして、時計をもとのところに戻すと布団に潜り込んで身体を丸めた。そうしたら、ふと窓が開いているのかもしれないと思って、布団から顔を出した。と、一瞬目に入ったものがなんなのかわからなかった。が、すぐにそれがクローゼットの扉であることに気づいた。
 新居のマンションで迎えた初めての朝だった。
 明日香は、ベッドの上で上半身を起こすとクローゼットと反対方向に顔を向けた。そちら側に出窓があって、ブラウンの遮光カーテンが閉じられていたが、カーテンの隙間から白い光が漏れていて、室内の様子がうっすらと見て取れた。
 シングルベッドがぴったりとくっつけられてあった。美都留は窓に背中を向けて、夏掛けにくるまって、ちゃんと自分のベッドに寝ていた。
 明日香はそっとベッドから降りて窓辺に行くと、カーテンの向こう側に手を差し入れた。やはり窓は開いていた。それを静かに閉めて、自分のベッドに戻ると美都留に向かい合って横になった。
 美都留は安らかな寝息を立てて寝ている。
 明日香は、自然と頬が緩んで来て、
 私って幸せ者だな。
 と思った。
 美都留が水曜日に引っ越しをしたのは、木曜日金曜日に泊まり込みで研修があったからだ。彼は、金曜日の夜には明日香のアパートに帰って来た。土曜日の午前にはマンションのリビングにエアコンを取りつけてもらった。そしてその午後に明日香がマンションに移ったというわけだ。
 明日香は、水曜日はマンションには行けなかったので、電話で美都留と少し話しただけだった。美都留から色々聞かされたのは金曜日の夜だった。その時、美都留は、
「水曜の夜は、寝室の窓と戸を全開にして、それからリビングの窓も開けたが、風がそよとも吹かなかったから、蒸し暑くてあんまり寝られなかった。それで研修に行って、缶詰め状態で気を抜けなくて、もう参った」
 と言った。
 明日香はそれを思い出して、水曜に限らず寝苦しい日が続いていたけれど、今朝は戸は閉まっているし、窓も閉めた。それで布団にくるまっていて丁度いい。こんな日は久しぶりだと思った。それから、この一週間、仕事の合間に引っ越しの準備でてんてこ舞いで忙しかったけれど、楽しかったとも思った。
 そんな風に心は充実、身体は快適な状態の明日香の耳に、美都留のすうすうという寝息が聞こえていた。それに誘われたかのように、明日香はうつらうつらし始めた。
 カーテンの隙間から漏れる光の輝きが強くなり、カーテンも白み始め、室内はいくらか明るくなった。
 美都留が起きる気配はなかった。
 一方再び目覚めた明日香は、眠気も完全に取れて、今日自分がやる仕事を考えていた。部屋をすっきりと使いやすいように片付けなければならないけれど、洗濯物を二人してため込んでしまっていたので、まずは洗濯からだと思った。
 洗濯機は、明日香のものの方が容量が少しばかり大きかったし、洗濯機置き場にも問題なく置けたので、明日香のを使うことにした。
 美都留は洗濯機の貰い手を見つけていた。
「誰なの? 会社の人」
「市の博物館だ」
「博物館?」
 明日香は、洗濯機と博物館がどうにも結びつかなくて首を傾げた。
「そこも俺の受け持ちの範囲なんだ」
「そういうところにも行っていたのね」
「明日香の会社のように大口の相手じゃない。割に合わないところだ。そこの通用口の外に洗濯機が置いてあるんだ。軍手とか雑巾とか、スニーカーなんかも洗っているらしいんだが、それの調子が悪いって言っていたのをちらっと聞いた覚えがあって、話してみたら、貰ってくれることになって取りに来てくれた。それが、水が完全に抜けていなくて、運んでいる途中で水がこぼれて、ちょっとした騒ぎになった。その時、冷蔵庫も一緒に持って行ってくれた」
「それは良かったわね」
 冷蔵庫も洗濯機同様に明日香のものの方が大きかった。
「ああ。――なんでも、持ち込まれる、口に入れられないようなものを冷やしておくのに欲しかったらしいんだ。どっちもまだ充分使えたから、そうやって使ってくれる人がいて良かった。――それから、両隣には水曜日の夜に挨拶をしておいた。片方は学生みたいだった」
「学生? わあ、贅沢。それって男の子、女の子」
「女の子だった。なかにはそういうのもいるよ。もう片方は、おそらく三十代半ばくらいの夫婦だ。あれは共働きだと思う。どっちも一応ドアは開けてくれたけれど、そうですか。それはどうも。で、すぐに引っこんでしまった。まるで関心がないって感じだった」
「私はこのアパートに入った時、そんな風に隣に挨拶なんてしなかったし、挨拶をして出て行くなんてまるで考えていないわよ。それに両隣の住人は替わっているけれど、確か挨拶なんてなかったと思うわ」
「俺だって前のマンションの時はそうだった。そういうところだったし、それで良かった。今度のところも似たようなものだが、俺としては、これからはそういう筋道はきちんと踏んでおきたいんだ。土曜日にも荷物が運び込まれるので騒がしいってことも断っておいたから、これで義理は果たしただろう」
「美都留君……」
 明日香は美都留をしげしげと見つめた。
 美都留は、なんだというような目つきで明日香を見た。
 明日香は、自分たちの生活も自分のことも、美都留が大切に守ろうとしてくれていることをひしひしと感じて、それを嬉しく思って、その気持ちを込めて、
「ありがとう」
 と、美都留に微笑みかけた。
 美都留は眩しそうに目を細めた。
 その時のことを思い出しながら、明日香は美都留の寝顔に目を当てていた。そしてまた、自分は幸せ者だと思った。と、美都留が小さな声を漏らして身じろぎ、薄っすらと目を開けた。
 美都留は寝返りを打つと、のっそりと自分のベッドの脇にあった時計を覗き込んで、
「七時か。――いっとき、えらく涼しくて目が醒めた」
 と、仰向けになった。
「窓が開いていたから。閉めたわ」
「開いているとは思ったが、眠くて身体が動かなかった」
「起きる?」
「まだ寝る」
 美都留はうつ伏せになって顔を枕に埋めた。
「起きたら、荷物の片付けの続きをやるんでしょう」
「そうだな……だけど、それはもうそんなに急がなくてもいいだろう……できる時にやる……」
 美都留は口ごもった声で言った。最後の方は聞き取りにくかった。そして彼は寝息を立て始めた。
 美都留君らしいと思いながら、明日香は起き上がった。このところ美都留は精力的にひたすら突っ走っていたのだが、本来彼は余裕を持って淡々と静かに物事をこなすタイプだった。だから、今朝の美都留がいかにも美都留らしく思えたのだ。
 明日香は、なんとなく彼の掛けている布団を直すと、ベッドを離れて寝室を出た。
 リビングのカーテンは、光を遮るタイプではなかったので、寝室よりもずっと明るかった。
 明日香は寝室の戸を閉めて、リビング内に視線を走らせた。物が収まるべきところに収まっておらず、入り乱れて置かれてあって、まとまりのない落ち着きのない部屋だった。
 明日香はカーテンを開けた。白い光が眩しく差し込み、影が濃くなり、部屋の表情が変わった。明日香は、真新しいものに触れた時のような新鮮な感動を覚えた。――まだ体を成していない部屋を二人の色に染めて行こう。二人のために、美都留のために頑張ろう。そんな意気込みが彼女の中に沸いて来た。同時に、家の中のことでは美都留は当てにならなさそうだという気持ちを持っていたので、自分がやるしかないという使命感が彼女を駆り立てていた。

 明日香は、洗濯物を取り込むためにベランダに出た。洗濯物にトンボが止まっていた。ギンヤンマだわ、と明日香は思った。子供の頃、針金を輪にして竹の先にくくりつけ、輪にクモの巣をからませてトンボやセミを捕ったことを思い出した。そうして捕ったものには当然クモの巣がくっついているので、べとべとしていた。それで、気持ちが悪くて捨ててしまう。それなのにクモの巣でトンボやセミを捕まえるという行為そのものが面白くて、止められなかった。
 トンボは飛び上って一旦空中で静止したかと思ったら、すうっと飛び去って行った。群青色の空には刷毛で掃いたような雲が浮かんでいた。明日香は秋の気配を感じた。
 キャスター付きの物干しスタンドに干した物は、パリッと乾いていた。十時過ぎに美都留が起きて来て、それから彼のシーツと枕カバーと寝間着を洗って干したのだが、それも乾いていた。
 明日香は乾いた物をソファの上に置きながら、
「暑いことは暑いけれど、暑さが違うわね。なんかこう、秋って感じ」
 と言った。
 床に座り、テーブルに向ってプレゼンテーション資料を作っていた美都留は、
「そうだな。空気が秋っぽい。これは冬まで必要ないかな」
 と、エアコンを見上げた。
「そうでもないんじゃない。このまま秋になるとは思えないもの」
 明日香はまたベランダに出て、洗濯物の取り込みを続けた。それが済むと物干しスタンドを折り畳み、それを持ってリビングに入った。
 美都留は物干しスタンドを見て、
「それ、便利だな。それ一つにこれだけ干せるんだから、大したもんだ」
 と、取り込まれた物に視線を移して言った。
「そう、すごいでしょう。これ、通販で買ったのよ。折り畳めばこんなに薄くなるから隙間に置いておけるし、広げればシーツだって干せる。それにベランダに出しても外から見えにくい高さでしょう」
 明日香は物干しスタンドを持ってリビングを出て行くと、手ぶらで戻って来た。それからシーツと枕カバーを持って寝室に入って行ってまた戻って来ると、ソファのそばの床に腰を下ろした。
「それ、全部畳むのか」
 美都留が言った。
「うん、全部畳んじゃうから」
 明日香は当然というような表情で返事をしながら、乾いた物の山に手を伸ばした。すると美都留は、
「どれ、自分のは自分でやろう」
 と、にじり寄って来た。
「プレゼンの方はもういいの」
 明日香は言いながらてきぱきと手を動かして、Tシャツを形良くぴしっと畳み上げた。それを眺めていた美都留は、
「なるほど――」
 そう呟いて、ぎこちない手つきでTシャツを畳むと、畳み上げた物に視線を当てて、
「奇麗じゃないな。何せやったことがないから――」
 と言った。
「あら? それじゃあ、これまでどうしていたの」
「ハンガーに吊るしっ放しだった。たまには衣装ケースに放り込んだ。明日香が来る時にとか。畳もうなんて思わなかった」
「私は、その時その時にきちんと畳んで決めた場所にしまう方がいいわ」
 明日香は譲れない気持ちで言った。
「明日香だったらそうだろうな。そこが俺と違うところだ。他にも違うなと感じる時がある。そんな時、どうしてだろうって考えるんだ。そうして理解できる時もあるし、できない時もある――」
 彼の言葉に明日香は不安になって来た。自分の信条をはっきり言ったことで、二人の間に亀裂が生じるきっかけを作ってしまったのかもしれない。そんな気持ちを抱え、固唾を呑んで彼を見守った。
「だけど、それが嫌だとか、そういうんじゃない。そうだな――、相手の中に自分と同じものを見つけて、それで繋がるのは楽で楽しいよ。でも、それは脆くて危ういものだ。考え方なんて変わるものだから。――明日香にはいいところも、困ったところもある。そういうもの全てをひっくるめて明日香という存在がある。その存在は、俺には欠くことのできないものだ。違いを知れば知るほど、その違いを乗り越えて一緒にいたいと思う。俺にそう思わせてくれる人は、明日香さんだけだ。悩む時ほど、俺は明日香さんを愛しているって思うよ」
「美都留君……」
 明日香は彼の名をぼそっと口からこぼし、
「もう、やだ! 背中が痒くなって来ちゃった」
 と、可愛らしい声で言って身体をよじった。悪い方に考えていたので、嬉しくて余計むずむずしていた。
 美都留は目を伏せておかしそうな顔をしていた。
 それから、どちらもなんとなく黙ってひたすら作業を続けた。
「やっと終わった」
 美都留は疲れたように肩を落とした。
 シュールだわ。
 明日香は、美都留が畳んだ物を見て思った。
 セミの鳴き声が大きく響いて来た。
「どこで鳴いているのかしら。―― 子供の頃、クモの巣を使ってセミを捕まえたりしなかった」
「俺はそれはやらなかった。クモの巣に絡まってもがいているのが可哀想だったから」
「そうね。美都留君ならそうだったでしょうね――」
 明日香は立ち上がるとベランダの網戸を開けて身を乗り出した。
 セミの鳴き声が止んだ。
「すぐそこの壁にいたわ」
 明日香が振り向きながら言った。
 電話が鳴った。美都留が電話機に向かった。
「はい。――おう。――なんとか落ち着いた。――今回はそんなのいいよ、山久」
 そんな声を聞きながら、明日香は畳んだ物を寝室に運び入れ、それからクローゼットの扉を開けた。この中ももっと工夫しようと思った。ふと美都留がパイプに掛けた服が気になった。きちんと掛っていないように見えたので、形を整えた。これもこのままでは皺になると思って、美都留の畳んだ物を畳み直すことにした。
 これはやっぱり私の仕事だわ。
 そう思って作業をしていたら、「明日香」と声がした。明日香はびくっとして慌ててクローゼットの扉を閉めた。美都留に見られてはいけないことをしていたと思った。
「散歩に行かないか」
 美都留が近づいて来た。
 明日香は途端、後ろめたさが吹き飛んで愉快な気持ちになった。
「行きたい。ちょっと待ってね」
 そう言って、格好を確認しようと姿見鏡の前に行った。
「山久がよろしくって」
 そんな声がして、鏡に美都留の姿が映った。それが身体を少し低くしたので、鏡に二人の顔が同じ高さで並んで映った。
「この格好でおかしくない?」
 明日香が言うと、美都留は、
「おかしくない」
 と、明日香の頬に唇を軽く押した。そして、
「さあ、行こう」
 と、背筋を伸ばした。
 二人が階下に下りてエントランスを出たところ、向こうから若い女性が歩いてやって来た。どういうわけか、明日香はその女性とすれ違った時に目が合ってしまった。
「あれが、隣の学生だ」
 美都留が小さな声で言った。





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