貴方がくれたもの 3


 斉藤明日香が、思いがけず平野美都留に再会した翌年の八月の土曜日。明日香は美都留に誘われて、彼と初めての一泊旅行に出かけた。
 山の端に黄金色の太陽が沈みかける頃、青々とした田んぼが両側に広がる田舎道を、二人は宿に向かって歩いていた。風が稲の葉をさらさらと鳴らして、心地良い涼しさを運んで来る。二人はいつの間にか無口になっていた。
 二人の間に流れていた静寂を破ったのは美都留だった。
「明日香さん」
 と、改まった口調で言った。
 明日香は、それがまるで義務であるかのように足を交互に前に出し続けながら、固唾を呑んで次の言葉を待った。このあいだ、明日香が一晩実家に戻った時、美都留が手土産を持って挨拶に来てくれた。明日香も彼の家に顔を出した。
「これからは、将来のことを考えてつき合って行きたい」
 美都留は物静かな口調で言った。
 明日香は一瞬立ち止まったが、直ぐにまた歩き始めた。さっきよりも狭い歩幅でゆっくり歩いた。彼の言葉が胸に染みて来て、明日香は、なんとも言えない気持ちで真横を歩いている美都留を見上げた。美都留の横顔は真剣そのものだった。
 美都留は横目でちらりと明日香を見たかと思ったら、「ふふ」とおかしそうな笑い声を漏らして明日香に笑顔を向けた。夕日が美都留の笑顔を黄金色に染めていた。
 明日香は、彼の想いをしっかり受け止めてにっこりと微笑むと、ほうっと息を吐いて「くすくす」笑った。

 一夜明けて、美都留の腕の中で目覚めた時、明日香は自分の中に、昨日まではなかった、生まれて初めて知ったと言ってもいい、そんな力が宿っているのを感じていた。

 帰途、二人は電車に揺られていた。明日香の降りるT駅が近づいて来た。窓際の席に座って窓の外を眺めていた美都留は、自分にもたれて居眠りをしている明日香の肩を軽く二回叩いて、
「起きろ」
 と言った。
 明日香は緩慢な動作で顔を上げると、ぼんやりした目つきで美都留を見た。
「次がT駅だ。疲れたのか」
「ううん。気持ち良くなって寝ちゃった」
 明日香は舌足らずな口調で言うと、手で口元を覆って美都留の腕に顔を埋めるようにして欠伸をした。そうしたところに、
「よし、決めた」
 そんな美都留のきっぱりした声が聞こえた。
「何を決めたの?」
 明日香は顔を上げた。
「引っ越しだ。今のマンションは、単身用で契約者以外住めないから、引っ越すことに決めた」
 その言葉に、明日香の心がさわさわと揺れた。それはまるで澄んだ風に心を撫でられているようで、いい気持だった。
 明日香は、自分たちは婚約したのだ。それはまだ誰も知らない二人だけの約束ではあったが。そんなことを思った。
 電車はT駅に着き、停車しようとしていた。
 明日香は立ち上がった。
「気をつけてな。あとでまた連絡する」
 美都留は明日香を見上げた。明日香も彼に目を当てた。二人はお互いの気持ちを確かめるように見詰め合った。
「うん。待っているわね。それじゃあ」
 明日香は、名残惜しく思いながら美都留から離れ、夕日に照らされて赤く染まったホームに降り立ち、美都留の乗っている電車が視界から消えるまで見送った。
 その週の土曜日に部屋が決まった。その日、明日香は、この秋に結婚する短大時代の友人に会いに行っていて、昼間は留守にしていた。美都留からの電話連絡を受けたのは夜だった。
「どこにしたの?」
<T駅から歩いて行けるあのマンションにした>
「あそこにしたの?」
 明日香は、T駅から歩いて七、八分の、緩やかな坂の途中にあるグレーの外壁の六階建ての賃貸マンションを思い浮かべ、
「あれはできて二年か三年よね」
 と言って、美都留が現在、会社から歩いて十分かかるかかからないかのところに住んでいるのを考え、
「でも、そうすると今度は電車も使うことになって、歩いて十分なんていう楽な通勤じゃなくなるわよ。いいの」
 と言った。
<時間的には十五分かそこら長くなるが、海を渡って通っていたことを思えば、どうということはない。それに明日香は今とほとんど変わらないだろう?>
「うん? ――そうね。多分少し近くなると思う」
 明日香も二十分ほどかけて徒歩で通勤していた。
<とにかく明日香に部屋を見てもらいたんだ。明日、いいか>
「いいわよ。――ねえ、美都留。今、ふと思ったんだけれど、今回いやに行動が早くない? ほら、美都留って考えてから行動に移すまで、時間をかける方じゃない」
<俺は随分前から考えていた。部屋も色々見て回っていた。温めていた計画を実行に移しただけだ>
「そんなことをいつから考えていたの?」
<明日香さんが、当たり前のように俺に笑いかけてくれるようになった時から。明日香さんのほとばしるような情熱は、俺にはないものだ。たまらなく魅かれるよ>
「美都留君……」
 明日香は思わずそう漏らしたものの、次の言葉が出て来なかった。こんな嬉しいような恥ずかしいようなことになんて答えればいいのかわからなかった。
<明日はT駅に十一時でいいか>
「ええ、それでいいわよ」
 明日香は反射的に言った。
 それで電話が終わった。
「もう美都留君ったら」
 明日香は頬を両手で覆って顔を綻ばせた。が、ややあって、怪訝そうな表情を浮かべると首を捻った。自分一人の時間が戻って来たら、自分の中にすっきりしないものがあることに気がついた。嬉しさはあるのだが、なんだか素直に喜べなくなった。そんな気持ちを抱えて風呂に入ると、浴槽の縁に腕を組んで、その上に顎を乗せながら、
 彼は、これからは将来のことを考えてつき合いたいと言った。それを自分は新たな一歩を踏み出す気持ちで聞いた。それからいくらも時間が経っていない。つき合う時間に明確な基準などないのはわかっている。しかし、このまま結婚してしまってもいいのだろうか。何か物足りない。
 そんな風に思えて来た。
 翌日、明日香は、T駅の改札口の前で待っていた。市街のど真ん中にあるローカル駅のようなT駅の改札口は一箇所だった。
 改札口から出て来た美都留は、
「今日も暑いな」
 と言った。その年の夏は暑かった。
「ほんと、もう嫌になるわ。――いつ引っ越して来るの?」
「休みを取って、この水曜日に引っ越す」
 二人はマンションに向かって、緩やかな坂を上り始めた。坂にはプラタナスの木が立ち並んでいた。ジー、ジジジジジと蝉の鳴き声が微かに響いていた。明日香は日差しを避けてプラタナスの木陰を歩いた。
「昨日の夕方ここを通った時は、ツクツクボウシがうるさいほど鳴いていた。それから明日香のアパートに行ったんだが、まだ帰っていなかった」
「昨日戻ったのは、九時近かったわ。友だち、結婚してからも仕事を続けるってことだから、そうなると時間の自由も利かなくなるでしょう。それで昨日は思いっきり遊んで来たわ。でも、その友だちは公務員で、結婚後は実家の近くに住むのよ。仕事を続けやすい環境だなって、つくづく思ったわ。――あのね、美都留。私、今、すごく嬉しいの。だけど、なんだか美都留が珍しく熱くなって、一人で突っ走っているような気がして、私、ついて行けなくなっている」
 明日香は地面に視線を落とした。プラタナスの短い影が揺れていた。
「二人で話し合っておくことがたくさんあると思うの」
 明日香は咎めるような口調で言った。
「突っ走っているつもりはないんだが。そんな風に思っていたのか。――そうだな。いつもだったら突っ走るのは明日香の方だな。その明日香がそう思うんだから、そうなのかもしれないな。――来年の秋を考えている。それでどうかな?」
「そう? ――そうね。私もそれくらいがいいわ。でも、だったらなんでこんなに早く引っ越すのよ」
「明日香さんのお日様のような笑顔を守りたいから。そう思うとつい力が入ってしまう」
 少し前を歩いていた美都留が立ち止って振り返った。
 明日香も足を止めて顔を上げた。
「そんなに不安そうな顔をするな。そんな顔をさせてしまったら、それでは本末転倒だ。二人で話し合って決めるものだっていうのは、わかっている」
 美都留は明日香に向かって言った。
 明日香は美都留をつくづくと眺めた。彼は、背筋がすっと伸びた奇麗な姿勢で立っている。そんな彼に明日香は頼もしさを感じた。この男を選んで良かったと思った。
「続きは部屋に行ってからにしよう」
 美都留は言った。二人は再び歩き始めた。
 マンションは、坂から一区画入った北側にあった。ベランダは南側を向いている。マンションの西側には道を挟んで公園があった。その公園の脇を通って北側にあるマンションのエントランスに向かった。
「五階だよ。部屋は全部フローリングだ」
 美都留は、エレベーターに乗り込みながら言った。
「ここだ」
 美都留は玄関のドアを開けた。
 明日香は室内に視線を向けた。短い廊下の突当りにあるドアにはめ込まれたガラスが、眩しいほど白く光って見えた。
 二人は靴を脱いで上った。
「ここは納戸だ」
 美都留は廊下の途中にある引き戸を開けた。窓がなかったので、明日香は電気のスイッチを押した。そこは変形型の二畳ほどの部屋だった。
「納戸があると助かるわね」
「だろう? ――そして、リビング」
 美都留が突当りのドアを開けた。明日香は彼の横を擦り抜けてリビングに足を踏み入れた。その途端、
「広い」
 と思わず声を上げた。リビングは十四畳ほどあった。明日香はアパートの狭い部屋を見慣れていたので、荷物ひとつ置かれていないリビングが実際よりも広く感じられた。
「こっちが寝室。クローゼットがついている」
 美都留はリビングに隣接する引き戸を開けた。
「ここも広いわね。八畳くらいあるんじゃない」
 明日香は寝室内に入り、クローゼットを開いてみた。
 美都留はベランダに続くガラス戸を開けた。
 明日香はリビングを横切って対面式のキッチンに入った。対面式キッチンに立つのは初めてだった。
「リビングが良く見えるわ。――これいいわ。素敵」
 明日香は新鮮な気持ちでキッチン内を見回した。
「気に入ったか?」
「気に入ったわ」
 明日香は美都留に視線を向けた。美都留はベランダに続く窓際に立っていたのだが、太陽の光が強く差し込んでいて眩しくて、美都留の姿は光の中に溶け込んでいて見えにくかった。明日香は思わず目を細めた。
 美都留がこちらにやって来る。彼はキッチンに入ると、
「婚約者と住むと言って借りた。一緒に暮らそう」
 と言った。
 明日香は、心の中で「ああ」と感動の声を漏らした。そんな予感があった。
 ――――同棲。
 それは、甘美で楽しい響きがあって、刺激的で秘密めいたにおいがした。
 そんな時があってもいい。
 明日香はそう思った。それで美都留の片手を取ると彼の顔に視線を当てて、
「よろしくね」
 と、顔を上気させ、目を輝かせて言った。
「こちらこそよろしくな」
 美都留はもう片方の手を明日香の手に重ねて言った。
 明日香はその日から引っ越しの準備に取りかかった。両親からは、あんたがその気になったら何を言っても無駄だからね。秋のつもりでいるから、がっかりさせないでおくれ。そんなことを言われた。
 美都留は、
「なんでそんな面倒なことをするんだと言われたが、俺たちには俺たちのやり方があると、そこはちゃんと話しておいたから大丈夫だ。その日を楽しみにしている。そう言っている」
 と言った。
 明日香は、その週末に二人の新居へと移った。が、いささか気持ちが浮かなかった。
 家具は、二人がこれまで使っていたものを持ち寄った。それをいざ部屋に配置してみると、統一感がなかった。新しくしたものは、明日香が選んで買ったカーテンと美都留が用意したエアコンだが、これらの新しさが際立って見えて、これがまたバランスの悪さに一役買っていた。
「ちぐはぐでごちゃごちゃしているわね。どうしたらもっとすっきりするのかしら」
 明日香は、部屋の中を色々な角度から立ったり座ったりして眺めながら考えに考えた。
「これでいいんじゃないか」
 美都留はさして気にならない様子だった。
「そう?」
 明日香は不満に思いながら美都留を見た。
「そのうち慣れるよ。俺たちの一人暮らしの歴史が染み込んだ家具だ。追い追い換えればいいよ」
「そうかもしれないけれど。――ダイニングテーブルは、一人の時はいらなかったけれど、これからはあってもいいんじゃない」
 明日香がそう言うと、美都留はカウンターと低いテーブルに目をやり、それから明日香の顔を見て、
「あってもいいかな」
 と、ぼそっと言った。
 美都留は家の中の細かいことには気が回らないようだった。そんなところが心もとなく感じられて、明日香は自分がしっかりしなくてはと思い、
「家の中のことは私に任せて」
 と言った。
 美都留は何か考えるような顔をして、明日香に視線を当てていた。彼女はうずうずした感じで、顔を輝かせている。
「すっかりやる気になっているな」
 と口の中で呟き、それから、
「気持ちは嬉しいよ。それはそれでありがたく受け取るが」
 そう言いかけたら、その言葉を遮るように明日香の人差し指が唇に当てられた。
「家の中のことは私の役目だわ。美都留の手を煩わすようなことはしないって約束する。これまで一人でもちゃんとやって来たんだから、大丈夫よ」
 彼女は一人で決め込んでしまった様子だった。
 美都留はなおも考えているようだったが、やがて、
「わかった。やると言ったらやるのが明日香だから」
 そう仕方なさそうに呟くと、明日香の手首を掴んで両腕を開かせ、
「いいか? これまでは一人だったが、これからは二人なんだ。俺がそばにいるってことを忘れないでくれ。無理はしないこと。これも約束だ」
 そして明日香に顔を寄せ、
「約束だぞ」
 熱く囁いて、明日香の唇を求めた。





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