貴方がくれたもの 2


 平野が居酒屋の前で立ち止まったので、明日香も立ち止まった。二人の距離は、三メートルくらい開いていた。それまで、明日香の方を一度も振り返らなかった平野が、明日香の方に顔を向けた。その様子は、明日香がいることを確認するようでもあったし、ここにしようと言っているようでもあった。
 明日香は、好きにすればいいと思って、その居酒屋に向かって歩き出した。平野は何も言わず暖簾を割って店の中に入って行き、明日香も彼に続いた。月曜の夜の居酒屋は比較的空いていて、その中で学生らしき人たちの話し声が目立った。
 平野はカウンター席に腰を下ろした。
 明日香は彼の隣に腰を下ろすと、釘を刺すような口調で、
「つき合うのは、一杯だけよ」
 と言った。
「俺も一杯だけのつもりだ。酒は好きなんだが、決して強くないんだ。明日も仕事だし。――何にする?」
 明日香は、生ビールをグラスで頼んだ。ジョッキの一杯くらいなら平気なのだが、グラスにしておいた。それから、ささみの梅しそ巻き揚げを頼んだ。
 平野は、生ビールのグラスと、しらすおろしと甘エビの刺身に大根と水菜のシャキシャキサラダを頼んだ。
「私も大根と水菜のサラダと、ごぼうのさつま揚げもお願いします」
「さっきは」
 平野の声に、明日香は彼の方に顔を向けた。脳裏には会食の席で一言も言葉を交わさなかったことが浮かんでいた。そのことが彼の口から出て来るような気がした。
 カウンターの上に両腕を置き、視線を落としていた平野は、わずかな沈黙ののち、
「手酌で助かったな」
 と、少し口ごもった声で言って、明日香の方に顔を向けた。
 嘘っぽい、と明日香は思った。彼の強張った顔は、何かを隠そうとしている感じだし、今の言葉も、無難な言葉を選んでとりあえず口にしたような感じだった。
 それは、自分がいれば酒が美味いとか言って誘った男の態度にはとても思われなくて、明日香は、
「そうね。――平野君は、今どこに住んでいるの?」
 と、平野から顔を逸らしながら言った。なんだか彼に弄ばれているような気持ちだった。
「俺もこっちに住んでいる。関西の大学に行って、こっちに就職して、俺も二年ほど実家から海を渡って通っていたが、今は一人でこっちに住んでいる。――覚えているか? 一年の時の音楽コンクールの練習で」
 平野は、低い声を抑えて、ゆっくりと話し始めた。
 平野のことが疑わしくてならない明日香は、適当なところで話を終わらせて帰るつもりでいたのだが、しらすおろしと揚げ出し豆腐と焼きおにぎりのみそを追加注文した。平野も銀むつカマの塩焼きを注文した。
 平野の話は、高校での日々のちょっとした出来事や、校章や何気なく歌っていた校歌の歌詞の意味だとか、学校の成り立ちにまつわる奇談のようなものにまで及んだ。
 明日香は平野の語りにひたすら耳を傾けていた。話が意外に面白かったこともあるが、なによりも彼の口調が心地良かった。彼の口調は、小川の静かなせせらぎに似ていた。聴いていると気持ちが落ち着いて、細かいことにこだわるのが馬鹿らしくなって来て、ひどくのんびりした気分になる。余計な考えは流れ去って、懐かしい思い出たちが穏やかな日差しを受けてきらきらと輝くさざ波に乗って流れて来る。
 明日香は、静かな感動を味わっていた。ただ、二人が図書室で良く一緒になって、彼が明日香に声をかけて来たことには、彼はまったく触れなかった。
「ふう」
 平野は満足そうに息を吐き、
「高校の時の話をこんなにしたのは、初めてだ。斉藤さんが聴いてくれたから、楽しかった」
 と言った。
 明日香は彼の横顔に目をやった。彼の表情はいくらか柔らかくなっていたが、それでもやっと普通の表情になったという程度で、それほど楽しそうには見えなかった。それでも明日香は確かにこの男の話に感動させられた。
 その感動の余韻がまだ冷めない明日香は、ふと思い出して、
「平野君、私を呼び止めて、ありがとうって言って、駆けて行ったことがあったわよね」
 と、彼の横顔に向かって言った。
「ああ、あれは卒業式の前の日だ」
「あのありがとうは、なんだったの?」
 その言葉で、平野はゆっくりと顔を明日香の方に向けると、明日香の顔にじっと目を当てた。
 明日香は、また彼に危険なものを感じた。余韻は冷めてしまった。
「三年間、ありがとうって言っただろう? そういうことだ」
 平野は名刺を取り出すと、その裏にペンを走らせ、その名刺を黙って明日香に差し出した。
 明日香は名刺を受け取った。その裏には住所と電話番号が書かれてあった。
「俺の住所と電話番号だ。斉藤さんのも教えてくれ」
 明日香は、やられた、と思った。彼のを見てしまった以上、駄目とは言えなかった。
「電話番号だけでもいい?」
「いいよ」
 明日香は、仕方なしに自分の名刺の裏に電話番号を書いて彼に渡した。彼は名刺の裏に視線を落としてから、名刺をバッグの中に入れると、
「それじゃあ、帰ろう」
 そう言って椅子から立ち上がった。
 二人は店を出て、途中で別れた。
 明日香は、彼のあまりの変わりように驚くばかりだった。

 平野美都留と再会した翌日は、彼のことが、明日香の脳裏にはまだ色濃く残っていた。
 明日香は、不意に彼のことを思い出して、軽い興奮状態に陥ることが何度かあった。日常とはかけ離れたところで、彼と特殊な時間を共有したような気がしていた。けれども、時間が経つにつれて、彼のことは脳裏から薄れて行って、あの時間が特殊なものとも思われなくなって、金曜日になると、ほとんど彼のことを考えなくなった。
 そんな明日香に、金曜日の夜八時頃、平野から電話がかかって来た。その内容は、明日会おう、というものだった。
 これに明日香は、LOVE的なにおいを感じた。だからこそ断るつもりで、明日は用事がある、と言いかけて考えた。こんな嘘が通じる相手とは思われなかったし、都合のいい日を訊かれるとも思った。この災難にどう対処すればいいのか考えあぐねていた。
<用事があるのか?>
「どうしてもっていうのは、ないわ」
 明日香は鬱陶しいと思いながら、重い口調で答えた。
 彼は、この春にオープンしたシネマコンプレックスを待ち合わせ場所に指定した。
<そこに九時半だ>
「九時半ね」
 上から言って来るような彼の口調に、明日香は思わず復唱したものの、内心反発していた。
<それじゃあ>
 彼は電話を切った。
 昔の平野からは考えられないような強引とも思える誘い方に、明日香は、
「本当に変わったわ」
 と、受話器に向かって呟いた。そして、こんなことをされては困る、と彼に直接言うことにした。
 その夜は、そんな気持ちを固めつつ床に就いた。その気持ちは、翌日の朝目覚めた時も、家を出た時も少しも変わらず、待ち合わせ場所に向かっている時も、そこに平野の姿を見つけた時もまったく揺るがなかった。
 明日香は肩をそびやかして平野に近づき、どっかとその前に立つと、口を開きかけた。しかし、それよりも先に平野の方が、
「迷惑だったかな?」
 と言った。
 明日香は、頭の中では「そうよ」と言っていたのだが、口では「特に用事があったわけじゃないから、いいわよ」と言っていた。平野は辛そうに顔を歪めていた。それが明日香の心を揺さぶり、ちょっとした同情の念を起して、そう口から出させた。それに今日の平野は、まるで高校時代に戻ったように背筋が曲がっていた。
「映画を見るか? ――斉藤さんの好きなのでいいよ」
 上映中の作品は、ファンタジーものや歴史ものにホラーものもあったが、間もなく始まるのは、アクションものとロマンスもの。明日香はロマンスものを選び、それを観ながら、同情だけでこうしているのは彼にも自分にも良くないと考えていた。
 映画が終わると、平野は、
「食事に行こう」
 と立ち上がった。明日香も立ち上がり、彼と一緒に表に出た。
「食事のあと、展望台に行こうと思うんだ。公園のあたりをぶらぶら歩いたり、水族館にも行ってみたい。――斉藤さんは、どうしたい?」
「平野君、私、こういうの困るの」
 明日香はそう言って、彼に目をやり、
「もうこんな風に誘うのは止めって言うつもりで出て来たの」
 と、彼の横顔に向かってはっきりした口調で言った。
 平野は無表情な顔を明日香に向けると、
「――やっぱり俺は嫌われていたか」
 そう冷めた口調で言った。
 これに明日香は直ぐには答えられなかった。彼のことが苦手ではあったが、嫌いとは違うような気がした。高校生の時は「嫌い」と口にしたこともあったが、今はそう言うことに何か躊躇わせるものがあった。明日香の脳裏に居酒屋で彼の口調に聞き惚れていた時のことが浮かんで来た。あんな風に話す彼となら一緒にいるのも悪くなかった。
「十年ぶりに、思いがけず会ったばかりよ。懐かしい気持ちが勝って、他の気持ちはぼやけていて良くわからないわ。――昔の知り合いだし、映画につき合うくらいならいいけれど、それ以上のことは、困るの」
 それを生真面目な顔で聞いていた平野は、
「実は俺もわからないでいるんだよ。斉藤さんに会ってから、やけに昔のことが思い出されて来て、今と昔がごっちゃになって、感情的になっている。――さっきも、斉藤さんに悪いことをしたんじゃないかって不安で、マイナス思考になっていた。かなり強かった。――最近は、あまりそういうことはなかったんだが」
 と言って、一度大きく呼吸すると、
「迷惑なのを承知の上でもう一度誘う。斉藤さんのことが気になって仕方がないんだ。今日は一緒にいてくれないか? そうすれば、このはっきりしない気持ちがなんなのか、少しは見えて来ると思うんだ」
 と言った。
 自分本位な考え方である。しかし、明日香の心はくすぐったく揺れていた。
「ここで帰ったら、かえってわだかまりが残りそう。――いいわ。展望台でも水族館でもつき合ってあげる」
 明日香は、こんな風に自分の心を揺らしてくれる、危ない雰囲気を漂わすこの男に、離れがたいものを感じていた。
 食事をしてから、公園周辺をのんびり散策して、展望台に行った。それから少し遠かったが、水族館にも行った。水族館を出た時には、とうに陽は落ちていた。
「月が奇麗だ」
 平野が言った。
 明日香は空を見上げた。白く輝く丸い月が、夜空にかかっていた。
「本当に奇麗ね」
 明日香は心底から呟き、月を眺めていた。
「今日は十六夜だ。ためらいながら上って来るから、十六夜(いざよい)の月か」
 平野が独り言のように言った。
 明日香は、冴え冴えとした月の姿を瞳の奥に焼きつけて、視線を平野に移した。平野も視線を空から明日香に移した。
「困った。斉藤さんのことがますます気になって来た。もっと一緒にいたいと思っている」
 平野が真剣な顔で言った。
 彼の言葉が、明日香の胸にすとんと落ち、体中にすーと広がり、顔に笑みを浮かばせた。
「住所も知りたければ教えてあげてもいいわよ」
 明日香は言った。すると、彼は一瞬顔を強張らせたかと思ったら、ゆっくりと目を細めた。
「平野君の笑い顔を見たのは、初めてだわ」
 明日香は何気なく言った。すると、彼は、
「そうか?」
 と言って、顔を伏せて、微かな笑い声を漏らした。
「何がおかしいの?」
 明日香の問いには答えないで、平野は笑っていた。

 その年の最後の日曜日に、明日香は平野と一緒に山久に会うことになった。
「仕事でこっちに来るから、夕方会おうってことになって、斉藤さんがこっちにいるって言ったら、それだったら三人で夕飯を食おうって話になったんだ」
「平野君は山久君と仲良かったものね。――私も山久君に会いたいから、いいわよ」
 そういうことで、明日香と平野は、待ち合わせ場所のファミリーレストランに行った。
 平野は一枚目のドアを開けて明日香を先に行かせた。明日香が二枚目のドアを開けて中に入りかけたら、右手側の椅子に座っていた男が立ち上がって、
「本当に斉藤さんだ」
 と言った。
「待ったか? 山久」
 そんな平野の声が、明日香の背後でした。
「たいして待ってはいないよ。――卒業以来だね、斉藤さん。三年の時のクラス会が一回あったけれど、俺は仕事の都合で出られなかったから。平野から斉藤さんとつき合っているって聞かされた時は驚いたよ」
「つき合っているなんて言わなかった。時々会うと言った」
 平野が言った。
「俺には、つき合っていると聞こえた。――どうなの、斉藤さん?」
「山久君が考えているようなつき合いとは、多分、違うと思うわ」
「何をいまさら誤魔化す必要があるんだよ」
 そんな会話をしながら、平野と山久は並んでテーブルについた。明日香は彼らの向かいに座った。
 山久はコップの水を少し飲んで、「ふう」と息を吐くと、
「夏に会った時よりも雰囲気が和らいでいる。斉藤さんのお陰か?」
 そう平野に向って言って、
「高校の三年間憧れ続けていた人だものな」
 と、明日香に視線を移して、
「こいつの気持ちに気がついていた?」
 と、平野を指差しながら興味深い顔で言った。平野は決まりが悪い顔をしていた。
 明日香は考えた。平野君から想われているんじゃない? と目ざとい友人から言われたことがあった。その時には、止めて、あの人嫌い、と言った。絶対そうであって欲しくなかった。そのことを、
「私は、先輩とか電車で一緒になった別の学校の男の子に憧れていたから、その他は一切受け付けなかったわ」
 と、オブラートに包んで言った。
「そう? 脈がないとは思っていたよ」
 山久はそう言うと平野に視線を戻し、
「でも、本当に顔つきが良くなった。――平野とは家が近くて、小さい時から良く一緒に遊んだんだよ。いいやつなんだが、臆病だったから、囲まれたのが余計にショックだったと思う。別にそいつらのことを笑ったわけじゃないのに、中学生だか高校生だかわからなかったが、小学校の三年生一人を大勢で囲んで睨むなんて酷いよな」
 と言った。それはどちらかと言えば、明日香に向って言っているような口ぶりだった。
「あの時は、山久が通りかかって大声を出しくれたお陰で助かったよ」
「俺はもう喉が破けるくらい叫んだ。――それからだ。表情が乏しくなって、いつも隅っこにいるようになった。――俺は、平野が笑えなくなったのが、寂しくてたまらなかった」
「仕方ないだろう? 思い出し笑いが原因で囲まれたんだから。――でも、まるで笑わないってこともなかった」
「まともに笑えなくなったって意味だ。あれは、笑っているようには見えないって」
 平野と顔を見合せていた山久はそう言うと、明日香に向かって、
「平野が斉藤さんにいつも変な顔を見せていただろう? あの顔をどう思った」
 と言った。
 会話が弾み始めたので、明日香は今度は、
「気味が悪かったわ」
 と、するっと口から出た。
「そうだろう? そう思うのが普通だ。俺以外は、誰もあれが笑顔だなんて思わないよな」
 山久の言葉に、明日香は思わず平野に目をやった。平野と目が合った。平野の顔がみるみる赤く染まった。明日香は、そんな平野を愛しいと思った。
「俺は、あんな風にしか斉藤さんの前に立てない平野のことが、歯がゆくて見ていられなかった」
「もういいだろう。止めろ」
 平野が山久に向って言った。
 山久はコップの水を飲み干すと、
「それから」
 と言った。
「まだ続ける気か?」
「ここまで話したんだから、最後まで話す。――斉藤さん、何も知らなかったって顔をしている。そうじゃないかとは思ったが、やっぱり何も言っていないな」
「勝手にしろ」
 平野は投げやりな口調で言った。
「平野はそんな臆病な自分を変えたいからって、わざわざ関西の大学にしたんだよな」
「結局は自分に負けて、家に逃げ帰って来た」
「だが、勤め始めてから変わった。度胸が据わった」
「俺の仕事を認めてくれた人がいて、自分に自信がついた。こっちで一人暮らすようにもなった」
「平野は真面目だから、それが良かったんだよ」
「果たして真面目なのがいいかどうかはわからない。人間は、多少いい加減な方が長持ちする」
 平野と山久の会話を明日香は興味深げに聞いていた。
 三人は話をしながら食事をして、充実した時間を過ごした。
 山久は、また三人で会おうと言い残し、帰って行った。
 山久の姿が人混みの中に消えると、明日香は平野を見上げた。それに気づいたように平野の視線が明日香に向けられた。二人は暫し無言で顔を見合わせると、どちらからともなく歩き出した。明日香が平野について行っているようでもあり、平野が明日香に合わせているようでもあった。そんな風にして、二人はただ歩いていた。
 風が少しあった。頬に触れる空気は硬くて冷たかったが、身体が妙に火照っていて、明日香はあまり寒さを感じなかった。
 突然、背後から風がひゅうっと吹きつけ、路上を枯葉がかさかさと乾いた音を立てて走って行った。
 そして、風は止んだ。
「会食の席で会って、懐かしくて、なんだかくすぐったかった。――俺、斉藤さんのこと、笑顔の素敵な女の子だって思っていたんだ。図書室で斉藤さんが俺に笑いかけてくれただろう? あの時は嬉しかった。斉藤さんの笑顔が眩しかった。斉藤さんの笑顔に救われて、憧れていた。――でも、そんな想い出にすがってこうしているわけじゃない。――好きだよ」
 平野が歩きながら言った。
 明日香は俯いてのろのろ歩き、いつしか立ち止まっていた。平野も立ち止まった。明日香は、背中がこそばゆくなって来てくすくす笑いながら平野を見上げ、平野に寄り添い、再び歩き始めた。





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