野辺の邂逅 3


 聖樹の運転は丁寧であった。
 初音は身体をシートに深く沈め、視線をフロントガラスに当て、次々と変わり行く車外の風景を目でぼんやり感じ取っていた。
「あんたの名前、まだ聞いていなかったな。俺は小此木聖樹、さっきのお節介おばさんの息子だ――。あっ、もしかして親父にも会ったか」
 聖樹からそう言葉をかけられて、初音はシートの背に凭れたまま、首を彼の方にゆっくり動かした。
「ええ、墓地でお会いしました。お優しそうな方でした。なんかこう、いかにも親父さんお袋さんって感じの方ですね――。私、野上初音です」
「そうか。まあ、お袋はともかく、親父の見かけに騙されるなよ。あれでなかなかの食わせ者だ――。なあ、俺たち一度会っているよな」
「はい、お昼前にホームセンターでお会いしました。あの、シャンプーのこと、ありがとうございました」
 覚えていてくれた、そう思った初音の顔に自然と笑みが浮かんで来ていた。
「それにしても、さっきは驚いた。いきなりしがみついて来たかと思ったら泣き出して、まるで蝉だった」
 聖樹が笑い顔でそう言うと、初音は真面目な顔になって居住まいを正した。
「失礼なことをしたと思っています。申し訳ありませんでした。それなのに背中を擦って頂いて、ありがとうございました――。とても安心できて嬉しかったです」
 途端、聖樹の顔に腑に落ちないような表情が浮かんだ。
「あんた、おかしなことを言うな。俺は、お袋だって、あんたの背中なんか擦っていない……」
 聖樹は怪訝そうに言った。
 聖樹の言葉は初音にとって全く意外なものであった。初音は、驚きのあまり口をぽかんと開けたまま言葉が出ず、心の中に動揺と戸惑いが広がって行った――――。
 そんな馬鹿な――、誰かの手が確かに背中を擦ってくれていたのに、あれはこの人でもなければ、小此木さんでもなかったの。だったら、あれは一体なんだったのよ。
 それに私、なんでこの人にしがみついたのかがよくわからない。気がついたらしがみついていた。
 あの時、いきなり強く引っ張られたかと思ったら、強く抱き締められていた。その強い何かを感じていたら、どうしても家に帰りたくなって来て、泣きたくなって来て、涙が溢れて来た。そうしたら背中に触れて来るものがあって、それがずっと背中を擦ってくれていた。
 私を引っ張ったのは強いけど優しいものだった。背中を擦ってくれていたのは強くて優しい手だった。
 そうして初音は、ようやく気がついた。あれは浩市の手だ、なんで直ぐにわからなかったのだろうか、と――――。
 初音は目の奥がじわりと熱くなって来て、ぎゅっと瞼を閉じると俯いた。せっかく浩市が来てくれたというのに、自分は彼にもう何もしてあげられない、そう思うと閉じた瞼の間から涙がこぼれ落ちて行く。
 と、不意に初音はお線香の香りを嗅ぎ取って、思わず瞼を開き首を動かした。目に映ったのは聖樹の姿だった。
「なんだ」
 聖樹は運転しながら横目でちらりとこちらを見て言った。
「今、お線香の香りがしたような気がして――。ホームセンターであった時も、貴方からお線香の香りがしていました」
「ああ、染みついているんだろう。あんた、鼻が利くんだな」
 聖樹はさらりと言った。
 初音は聖樹の横顔をじっと見詰めていた。先程の母子の会話が脳裏に浮かんで来て、確認のために訊いてみた。
「貴方も僧侶なんですよね?」
「一応な」
 聖樹は現在、父親から寺以外の事業を引き継いでいて、こちらが本業であった。僧侶はただ助っ人でやるだけである。とは言え、ここまで言う必要はないと思い黙っていた。
 初音が、そうなんだ、と言ったら、聖樹は渋柿を食べたような顔になり、
「あんた、それ、洒落のつもりか?」
 と言葉を返して来た。
「違います。あ……その、供養をお願いできないかなと思って……」
「それ、あんたがやるのか。一体誰の?」
 初音は、どう説明したらいいのだろうと考えた。
 車はアパートの近くまで来ていた。
「あのアパートです。小此木さん、どうか家に寄って行って下さい。見ればわかりますから……」
「いいだろう」
 聖樹は、初音のことをおかしな女だと思いつつ、ここは一先ず彼女に従うことにして、彼女から言われたところに車を止め、彼女のあとについて行った。
 玄関を上がった聖樹は、キッチンを通り抜ける時、テーブルの上に置かれてあるホームセンターの袋にふと目を向け、奥の部屋に入ると、真っ先に部屋の片隅に置かれてあった仏壇に目が行った。
 聖樹は仏壇の前に立つと僅かに眉根を寄せ、ふうん、と小さく言葉を漏らし、あとは表情の乏しい顔で黙ってしまった。
 彼女が自分で戒名を書いたと思われる紙には、開眼供養が行われていないと思った。十中八九間違いないだろう。
 その『開眼』、あるいは『魂入れ』とも言われる儀式によって、ただの紙にも魂が宿って拝む対象となり、亡き人がこの場所にいてくれることになっている。その反対に、『魂抜き』を頼まれることもある。
 これらを聖樹は立前として言ったりやったりしている。魂を入れたり出したりできるはずがないというのが本音だった。そうしてやりたいと思うその人の気持ちこそが一番大事なのだと思っている。
 聖樹は男性の写真に視線を当てた。
 彼女はこの部屋で亡き人を偲びながら、彼女がその人のためにできる精一杯のことをしているのだろう、そう考えると彼女のおかしな言動もなんとなく納得できた。
 聖樹は横に視線を移した。そこには虚ろな表情で佇む初音がいて、生気のない目を仏壇に置いてある写真に向けていた。そんな初音のことがまるで魂の抜け殻のように見えた。
「空っぽだな……」
 聖樹が呟いた。
「わかっています。ここにこの人、浩市と言いますが、浩市の魂はありません……」
 初音はしゃがれた声で答えると唇を噛み締め項垂れた。やっぱり見る人が見ればわかるんだ、と口惜しさを感じていた。
「俺が空っぽだと言ったのは、あんたのことだよ」
 この言葉を聞いた時、初音ははっとし、そして思い出した。オッドアイは物の本質を見抜く力を持つ、とどこかで聞いたことがあった。
 初音は胸の高鳴りを覚えながら顔を上げた。すみれ色の瞳がこちらを見ていた。
「俺は子供の頃から、魂の抜けた、大切なものを失って生きる気力をなくしたという意味だが、そんな人を見る機会が多かった。そのせいかどうかわからないが、そういう人が近くにいると、なんかこう伝わって来るものがあって、ああ、こいつもなのかと思うんだ。ホームセンターであんたを見た時も、寂しそうな奴だって思ったが、俺がしてやれるのはシャンプーを取ってやるくらいだ――。尤も、いきなりしがみつかれたのには呆れるばかりで、俺にとってのあんたは、おかしな奴になっているがな――。供養というのは、人が共に養う、と書く。供養される方だけじゃなく、供養する方にも意味のあることで、共に救われなくてはいけないんだ」
 聖樹は言葉を次々と吐き出しながら、自分の言っていること、これからやろうとしていること、これらをお節介というんだと思っていた。
「やってやるよ――。だが、それは空っぽなあんたに魂を入れるため、この浩市とやらはついでだ。俺はそうする気だ」
 聖樹は、いつからこんなお節介焼きになったんだ、両親のお節介焼きがうつってしまった、と言葉を止めることのできない自分に内心呆れていた。
 聖樹は初音の顔を真っ直ぐに見ながら言っていた。初音もまた、瞬きもせずこちらをじっと見て聞いていた。
「それでいいか?」
 聖樹が念を押すように訊いた。すると初音は目を何度か瞬かせ、すっと顔を動かした。彼女の視線は浩市の写真に向かっていた。
 初音は暫く無言でいた後、聖樹の方に向き直りながら、
「浩市がやってもらえって言いました」
 と言った。
「奴の声が聞こえたのか?」
 それに初音は、はい、と答えて、にこりとした。
 聖樹は、少しは生きているって感じになったじゃないか、と思いながら、いつにする、と訊いた。
 浩市の命日に当たる日、聖樹は約束通り来てくれた。
 初音は、聖樹が僧侶の格好をして現れたものだから、正直驚いた。考えてみれば当たり前のことではあったが、それを初音はすっかり忘れていた。
 初音はどうしてもすみれ色の瞳に目が行き、そのまま見惚れてしまう。
「俺の瞳が気になるようだな」
 聖樹が皮肉っぽく言った。
「とても綺麗だから見惚れてしまうんです。すみれ色は私の一番好きな色なんです」
 初音はそう言いながら目を細めた。
「そうか、あんたはこの色が好きなのか……」
 聖樹はどこかおかしそうな顔で言った。
 初音は聖樹の読経を聴きながら、浩市の言葉を思い出していた。
 ――――すみれ色に強く引きつけられる時は、新しい何かが自分の中で目覚めようとしている時なんだ。
 初音は、浩市に心配をかけてはいけない、変わらなくてはと思った。そんな初音が出したお布施を、聖樹は固辞した。
「受け取ってもらわないと、私が困ります」
「俺はあんたから金を受け取るつもりは、最初からなかった。拾ってしまった以上、面倒を見る責任があるからそうしたまでだ」
 聖樹はそう言いながら、自分が何を言っているのかわからなかった。拾って来たのは母親だったのに、自分が拾って来たような気持ちになっていた。それに、見つけたのは自分の方が先だ、と妙な優位感があった。
 聖樹はふとシャンプーのことを思い出し、初音の少し癖のある長い黒髪に目をやり、
「あのシャンプーを使ってるいのか?」
 と言いながら髪をひと房掴み、それに唇を当てた。
「その気になったら、いつでも俺のところに来い――。待っている」
 そう告げて、聖樹は帰って行った。
 初音の方は驚いて何も言えず動けずの、まさに金縛り状態にあった。
 部屋にはオッドアイの優しい残り香が漂っていた――――。

 二週間ほど後、初音は大きな荷物を大事そうに持って小此木家の門をくぐった。
 親父さんとお袋さんが庭先にいた。二人は初音を見ると顔を見合わせ、嬉しそうにしていた。
「もう大丈夫ですね」
 お袋さんは安心したような顔で言うと、今度は何やら含みのある顔で初音の顔を覗き込み、
「あの、つかぬことを伺いますが、うちの聖樹に何かされませんでしたか? 野上さんのところへ供養に行って以来、聖樹、やたらそわそわして落ち着きがないんです」
 と訊いて来た。
「聖樹め、すっかり恋の病にかかりおった」
 そう親父さんが言ったところに、黙れ、と大きな声がした。そして三人の輪の中に怖い顔をした聖樹が飛び込んで来た。
 初音は、聖樹から髪に口づけされたことを思い出してもじもじしていたのだが、聖樹を見たらどきりとして、慌てて視線を地面に落とした。そうしながら、文句を言う聖樹の声を聞いていた。
「野上さん、今日はゆっくりして行けるの?」
 お袋さんの問いかけに、初音は顔を上げながら、はい、と答えた。
「だったら、今お茶を淹れるから上がって行って」
 そう言うとお袋さんは、親父さんと一緒に家の中に入って行った。
「よく来たな」
 聖樹が改まったような口調で言った。
「今日は、貴方にお願いがあって来ました」
 初音はそう言うとしゃがみ、
「これをお焚き上げして欲しいんです」
 と、足元にあった荷物を解きながら言った。荷物は、彼女が使っていた仏具一式だった。
「お願いできますか?」
 初音は立ち上がり聖樹と向き合って言った。
「いいのか?」
 聖樹が真剣な眼差しで訊いた。
「ここに来る前、浩市のところに寄って、あとのことは小此木さんにお任せすると話して来ました」
「そうか。よし、わかった、引き受けた――。俺も、たまには奴に線香を上げてやるよ――。なあ、ちょっとその辺を歩かないか?」
 小此木家の門を出たところで、聖樹が、俺、養子なんだ、と話し始めた。
 寺の境内で一人泣いていた聖樹に小此木のお袋さんが気づいた。当時、聖樹は二歳。間もなく名乗り出て来た未婚の母は、誰からの援助も受けずに聖樹を育てていたが、生活の不安から心ならずも置き去りにしてしまった。
 聖樹は施設に預けられ、そこで母親の迎えを待つことになった。しかし、聖樹と暮らしたい一心で無理を重ねた母親は一年後に急死した。それを知った子供のなかった小此木夫妻が、聖樹を養子に迎え入れた。縁故者に受け取りを拒否された実の母親は、小此木夫妻の手によってあの墓地に葬られた。
「この瞳だろう――、随分いやな目にも遭って来た。自暴自棄になって悪さばかりしていた時期もあった。警察の世話になったこともある。だがな、俺には、俺のことを信じ、丸ごと受け入れてくれた親父とお袋がいた。あの二人に顔向けができないような生き方だけはするまいと自分に誓って、それで今の俺がいる――。なあ、これで、あんたも自分のこと、少しは話しやすくなったんじゃないのか。俺、あんたのこと、もっと知りたいんだ――。今、直ぐにとは言わない。何か話したくなったら、いつでも来てくれ――。俺もまた、あんたのところに行ってもいいかな?」
「私、今度引っ越すんです」
 初音がそう言うと、聖樹は顔を曇らせた。
「あっ、近くにですよ――。落ち着いたら、ご招待します」
 初音がにこやかな顔つきでそう言うと、聖樹はちょっと驚いた様子を見せたが、やがて納得したような笑みを浮かべた。

 聖樹は、初音の部屋をしばしば訪れるようになっていた。
「今度はいつ来るのかって、お袋に訊かれたよ。どうやら、娘と一緒に買い物というのをやってみたいらしい」
 聖樹にそう言われて、初音は目元を綻ばせて何か言いかけたのだが、何故か言葉を発することはなく、その表情を見る見る翳らせて行った。
「どうしたんだ?」
 聖樹が目を丸くして訊いた。
「なんでもないのよ。ちょっとね。なんか、一人じゃないんだなって思って、そしたら急に……」
 初音の目には涙が浮かんで来ていた。
 聖樹は、そうか、と安心して目を細めながら呟いた。泣くなよ、と初音を抱き寄せながら言った。
 二人は黙って暫く身体を寄せ合っていた。
 聖樹は、一人ではないことを初音にはっきりとわからせてやりたいと思い、もうどうにも我慢ができなくなって来た。初音を抱く腕に力を込め、まだ早いか、と囁き訊いた。
 初音が首を左右に振った。
 聖樹は初音を抱き上げ、ベッドに運んだ。
 初音は聖樹のするがままに身を任せていた。しかし、彼の手が秘所を覆う下着に触れた時、初めて拒んだ。愛される悦びを知っている身体は、聖樹が欲しくて疼いているのに、動き出したばかりの心がついて行かない。熱い疼きに心が怯え――、苦しい、そう口から言葉をこぼしていた。
 そうだった、と聖樹の呟きが聞こえた。
「初音はずっと一人ぼっちで苦しんでいたんだよな。その苦しみが、そう簡単に消えるわけがない。俺は苦しみを代わってやることはできないが、分ち合うことならできる。苦しみだけではない。俺は初音と全てを分かち合って、この先を生きて行きたい。だから、俺は初音を抱く。初音、一人で抱え込むな。俺にもわけてくれ」
 初音は聖樹の想いを聞き、そして己の想いを訴えた。
「助けて……」
 助けてやるよ、と声がして、聖樹が肌を合わせて来た。
 二人の全裸の肌と肌が合わさり、その心地よさに初音は酔いしれながら、聖樹、と彼を呼んだ。
 聖樹の手と唇が肌を這い、その顔が秘所に埋められ、その牡が秘所に当てられた。
 初音は己の中に聖樹の牡を深く迎え入れた。
「初音、俺を受け取れ」
 そんな声を初音は聞き、己の中に聖樹の魂が注ぎ込まれるのを感じた。
 聖樹の魂で満たされながら、聖樹と巡り会い、想いを分かち合えることの幸せを、初音は噛み締めていた――――。





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