野辺の邂逅 2


 初音は、何か声がするのを感じた。その声は、浩市の声であるようにも、またそうではないようにも思われた。そうしていたら、今度は何かが自分の身体に触れたのを感じた。これは浩市だと思った。浩市が助けに来てくれた、迎えに来てくれたのだと思い、安らいだ気持ちになった。笑顔を浮かべた浩市の姿が見えた。
(浩市――――)
 初音が心の中でそう呼びかけた時だった。
「お嬢さん、どうしたんですか?」
 そんな声がした。それを初音は、今度ははっきりと聞いた。すると浩市の姿は消えてしまった。
 初音は思わずぱっと瞼を開き、顔を上げた。ひどく眩しくて、咄嗟に瞼をぎゅっときつく閉じると、今度は恐る恐るほんの少しだけ瞼を開いた。しっかりと見えたわけではないが、目の前にはおそらく女性がいるのだろうと感じられた。聞こえて来た声も女性のものだったとぼんやり思った。
 初音は小刻みに睫毛を震わせながらゆっくりと瞼を開いて行った。
 そうしてやっと初音は、女性が心配そうな顔をこちらに向けてしゃがんでいる、と状況を呑み込めて来た。初音の右肩には女性の手が置かれてあった。女性は五十代の半ば過ぎくらいに見える。
「なんでもありません」
 初音は勝気な口調で言うと、平気なふりをして立ち上がったが、どうにもふらついて仕方がない。そんな今にも倒れそうな初音の身体を、その女性は支えてくれた。そうしたら初音は不意にお線香の香りを感じて、一瞬気持ちが緩んだ。
「貴女、顔が真っ青よ」
 女性は驚きと不安の混じったような声を上げ、
「このままでいけない、どこかで横になった方がいいわね。本堂が開いているけど……」
 と考えるように呟き、
「それよりも……ねえ、私たちの家、この近くなの。とりあえず家にいらっしゃい、ね」
 と勧めるように言った。
「本当に大丈夫ですから」
 初音は精一杯なんでもない風を装って言った。しかし、初音が無理をしているのは、誰の目にも明らかだった。
「そうしなさい」
 張りのある若い感じの男性の声がした。
 男性の声を女性に身体を支えられながら聞いた初音は、不思議な感覚に襲われた。脳裏にはすみれ色の瞳が浮かんで来ていて、すみれ色は私の一番好きな色、と思いながら地面に視線を落とし、すみれ色に強く、と考えた時、再び男性の声が聞こえた。
「私たちは、お節介夫婦とも、でしゃばり夫婦とも呼ばれていてね」
 初音は顔を上げた。直ぐそばに僧侶の格好をした男性がいた。
(このお二人はご夫婦……そうか、旦那さんがお坊さんなのね)
 初音はそう思いながら自分を支えてくれている女性に視線を移した。その初音に僧侶はじっと目を当てていたのだが、おもむろに口を開いた。
「貴女の顔は、魂の抜けた顔だ」
 僧侶が投げかけた言葉に、初音は胸を裂かれ、心臓を鷲掴みにされたような気がした。しかし、直ぐに楯突く気持ちが沸き起こり、貴方から言われる筋合いのものではないと思いながら僧侶の方へ首を動かした。
 僧侶は六十歳前後の小柄で丸い顔をした穏やかで優しそうな人だが、僧侶の格好をしていなければ特別人の目を引くような容姿ではなかった。
 初音は僧侶の顔を確実に目で捉えた時、咄嗟に浩市に似ていると思った。しかし、よく見ればそれほど似ていない。似ていると思ったのは瞬間的な思い込みだったのかもしれないが、とにかく浩市に似ていると思ったことで楯突く気はなくなっていた。しかし、人が自分に向ける感情に対して神経質になっていた初音は、僧侶から全てを見抜くかのような鋭さを感じ取り、警戒した。
 僧侶はいたわるような表情を浮かべながら口を開いた。
「こんな稼業をしていると、貴女のような人には敏感になってしまう。今の貴女をこのまま一人で帰す気にはなれない。暫く家で休んで行くといい」
 初音は喉の奥から絞り出したような声で、
「手桶と柄杓を返さなくては……」
 と辛うじて言った。そのことに対して強い責任感や義務感を感じ、またそのことをしなければ落ち着けなかった。
「それはやっておく」
 僧侶はそう言いながら、初音の足元にあった手桶と柄杓を拾い上げてしまった。
「さあ、行きましょう」
 女性に促され、支えてくれているその女性の手を振りほどくだけの力などもうなかった初音は、他にどうしようもなくて、ただ足を前に出していた。だけど、手桶と柄杓のことがどうにも気になって、後方に目を向けた。手桶と柄杓を持って水場の方に向かって歩いて行く僧侶の姿があった。それだけのことだが、初音は妙な安心を感じてほっと小さく息を吐き、うな垂れて自分よりも小柄な女性に寄りかかって歩いた。
 女性は、小此木(おこのぎ)と名乗った。
 野上、と名を告げた初音は、慣れ親しんだお線香の香りが小此木さんの身体から微かにするのを感じていた。
 慣れ親しんだものは安心を感じさせてくれ、気持ちをほぐしてくれるものである。そのためか、初音は、しみじみ小此木さんの親切をありがたいと思い、小此木さんに素直に従う気になっていた。
(こんなこと、ずっとなかったのに……あれこれ言われたりされたりすると、鬱陶しくて辛くて、お願いだから何もしないでそっとしておいてって思っていたのに……。今日一日で、同じことが二度も起きた……)
 初音はそう考えながら、一度目にこんな肩から力が抜けた素直な気持ちにさせてくれたすみれ色の瞳を思い出していた。
「あら、聖樹(せいじゅ)だわ。あのこ、丁度いいところに帰って来てくれた」
 その声に、初音はふっと今に立ち返り、顔を上げた。いつの間にか往来を歩いていた。
「今、車の入って行った家がそうです。あれ、息子なんです。野上さんが落ち着いたら、息子に車で家まで送らせましょう」
 小此木さんはそう言ってくれた。
 初音は小此木さんの家の方に顔を向けながら、この人には息子がいるんだと思っていた。

 小此木さんの家は、立派な門構えの家であった。
「直ぐにお布団を敷きますから、もう少し辛抱して下さい」
 小此木さんは初音を支えながら門をくぐった。
 敷地は木で囲まれ、建物の正面には立派な槙の木があった。建物と門の間は広い庭で、庭には花壇があり、プランターや植木鉢が並べられ、車が一台置かれてある。車とこちらの距離は十メートルくらい。その車のそばでは人が背中をこちらに向けてしゃがんでいた。
 それらを初音は小此木さんに抱きかかえられて踏み石の上を歩きながら漫然と眺めていた。
 小此木さんが足を止めた。
「聖樹、また擦ったの、それともぶつけたの?」
 大きな声でからかうように言った。
 初音は、あの人が息子なのか、としゃがんでいる人になんとなく目を当てたのだが、はっと閃くものがあって、目を見開きじっと見た。
「お袋。その、またって言い方はないだろう」
 不服そうに、こちらに聞こえるように大きな声を出しながら立ち上がった息子・聖樹は、すらりとした長身の持ち主だった。
「俺は擦ったこともぶつけたこともないぞ。駐車場でどっかの馬鹿に当て逃げされた。走行に支障はないんだが、板金修理に出す必要がある」
 忌々しそうに言いながらこちらに向かって歩いて来る。
「あっ、――野上さんっ」
 小此木さんが、いきなり初音に手を振り払われて、頓狂な声を出した。
「――うわっ」
 聖樹が、いきなり初音に飛び込んで来られて、たまげた声を上げた。
 初音は、聖樹の身体にしがみついていた。
「なっなんだ、なんなんだよ」
 聖樹はこの突然の出来事に慌てふためいた様子で、迷惑そうな顔を母親に向けながら、
「お袋、こいつ、どこから拾って来たんだ?」
 と訊いた。
「お墓参りに来て気分が悪くなったみたいだから、家で休んでもらおうと思って連れて来たのよ」
 小此木のお袋さんは頬に手を当てながら怪訝な表情でここにいる経緯を話した。初音に意外なほどの勢いと力で突き飛ばされるように手を振りほどかれたことでびっくりしたのに、その上初音が息子にしがみついてしまったものだからますます驚いていた。
「墓参りだって……」
 聖樹はそう呟きながら、それがなんでこうなるんだ、と理解できず額に皺を寄せた。と、掠れた声がした。聖樹は初音に目を当てた。
「あんた……泣いているのか……?」
 疑わしげに言った。
 初音は聖樹の肩の辺りに顔を押しつけ、枯れたはずの涙を溢れさせ、しゃくりあげながら、
「帰る……家に帰る……帰る……」
 と繰り返していた。
 そんな初音の様子に聖樹は呆れて何にも言えず、ただ彼女に双眸を向けるだけだった。その双眸は、右の瞳は茶色、左の瞳は綺麗なすみれ色をしていた――――。
 お袋さんは、肩を震わせて悲しそうに泣きじゃくる初音を見ていたら、自分も悲しくなって来た。少しでも初音を慰めてやりたくて、背中を擦ってやろうと手を伸ばした。と、今まさに手が背中に触れようとした瞬間、手にばしっという衝撃が走り、驚いて反射的に手を引っ込めた。
 すると突然、強い風が吹いて来た。風は庭の木々の梢を揺らし、葉を打ち鳴らし、ざわざわと騒がしい音を立てた。が、風は程なく収まり、今度は打って変わった静けさが辺りを包んだ。
 その静寂の中、お袋さんは確かに人の気配を感じた。てっきり夫が帰って来たのだと思い、門の方に目を向けたのだが、そこには誰の姿もなかった。今、目に映る人間は聖樹と野上さんだけなのだが、何故かもう一人いるような気がしてならなくて、辺りを見回した。植木鉢が何個かひっくり返っていた。あれが倒れるほどの風だったか、と首を傾げた。ふと自分の手に目を当てた。まるで誰かに弾かれたようだった、と不思議な気持ちでいた。何かがおかしい、と感じながら手を見詰めていた。
 聖樹は、突然の強い風を正面から受けて思わず瞼を閉じ、手で目の辺りを覆い、顔を逸らし、それから少しだけ瞼を開いた。
 聖樹の身体に初音はしがみついたままだった。
 聖樹はこの有り様が呆れるを通り越しておかしくなって来た。
 初音は落ち着きを取り戻しつつあるようで、泣き声が小さくなり、風が止んだ頃には泣き声はしなくなった。とは言え、しがみついて顔を埋めたまま動こうとはしなかった。
 辺りに静けさが戻って来た中、手持ち無沙汰な聖樹は自分の濃い茶色の髪をした頭を撫でていたのだが、だんだん困って来て、
「お袋、これ、どうしたらいいんだ?」
 と、初音を指差しながら訊いてみた。
 お袋さんは自分の手に落としていた視線を初音に移し、それから聖樹に向け、
「あんた、車で家まで送ってあげなさい」
 と言った。
「なんで俺が……。俺はこれから車を修理に持って行こうかと……」
 聖樹はどこか納得しかねるように言った。
「それだったら尚更でしょう。ついでに送ってあげなさいよ。――お父さんがここにいれば、同じことを言いますよ」
 聖樹は半ば呆れ半ば諦めたような顔をして、
「あの親父なら言うだろうな。――なあ、どうしていつもいつもそうやって二人して、何が楽しくて人の世話をしたがるんだ」
 と言った。
「あら、そんなこと言わなくたって、あんたにならわかるでしょう。あんたは私たちの息子なんだから」
 お袋さんは笑いながら当然のことのようにさらりと言った。
 聖樹の顔から一瞬だけ表情が消えた。が、次には困ったような照れたような笑いが浮かんだ。
「そうでした……よくわかりました」
 聖樹はそう言いながら視線を下げ、
「あんた、家に帰りたいんだろう。送ってやるよ」
 と初音に言った。そしたら彼女が顔を埋めたまま黙って小さく頷いたので、彼女から身体を放し、車に向かって歩いて行った。
 初音は、思わず知らず頷いてしまったものの、恥ずかしいやら何やらで動くことができず、その場に俯いて立っていた。しかし、今更、やっぱりいいですなどと言えるわけがない。もう迷惑をかけてしまったのだし、この際ついでだ、と開き直った気持ちで顔を上げた。車のそばに立つ聖樹の姿が目に入った。
 と、初音は、あっというように口を開き、目を大きく見開いた。自分と聖樹の間に浩市が現れたのだ。
 浩市は笑いながら手をこちらに向かって差し伸べて来た。
 浩市、と初音は言ったつもりだが声にならず、駆け寄りたくても、身体が金縛りにあったように動かなかった。
「野上さん――――」
 そんな声が聞こえた。すると浩市の姿が陽炎のように揺らいだかと思うと消えて、同時に初音は自由を感じた。
 お袋さんが気遣うような目でこちらを見ていた。
「お陰さまで、だいぶ楽になりました」
 初音が笑い顔を作って言うと、お袋さんは励ますような笑顔を見せてくれた。そして二人で車に向かって歩き始めると、聖樹が助手席側のドアを開けた。
「お願いします」
 初音はそう言いながら聖樹の顔に目を当てた。彼のすみれ色の瞳があたかも紫水晶のように見えた。

 ――――紫水晶は負の感情を取り除き、癒しと安らぎを与えてくれる。その綺麗なすみれ色に強く引きつけられる時は、新しい何かが自分の中で目覚めようとしている時なんだ。

 そう初音に教えてくれたのは、浩市だった。
「なんで俺の顔をじろじろ見ているんだ?」
 聖樹は低いすごみのある声で言った。
 明らかに気分を害した様子が見て取れ、初音は恐縮して頭を下げると車に乗り込んだ。ドアを閉めようとしたらぼそぼそとした話し声が聞こえて来て、なんとなく開けたままにしておいた。
「聖樹。お父さんも言っていたんだけど、このお嬢さんは――――」
「わかっている。俺だって僧侶の端くれだ――――」
 そして聖樹が覗き込んで来た。
「閉めるぞ」
 助手席側のドアが閉められ、次に運転席側のドアが開いた。
 そのドアの開く音に、初音はびくりと身体を強張らせた。
「シートベルト」
 そんな声がした。
 しかし、緊張で硬くなっている初音は、石像のようにじっと座ったまま動かなかった。
 と、聖樹が初音の身体を抱くような仕草をした。
 シートベルトを締めてくれたのだが、これで初音はますます身体を硬くした。
 窓を叩くような音がした。
 初音が音のした方にぎこちなく首を動かしたら、お袋さんの顔が見えた。
 お袋さんはにこにこしながら手を振ってくれた。
 それで初音はいくらかほっとして、手を振り返した。
「どこに行けばいいんだ?」
 聖樹が訊いた。
 初音が行き先を告げると、聖樹は車を発進させた。
 初音はシートの背もたれに身体を預け、フロントガラスに目を当てていた。





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