ぬくもりの記憶 9(回想編)


 小百合が直人に怒鳴られた翌日の月曜日。その日、空は抜けるようにただ青かった。時折、風がそよそよと吹く。風は心地良く肌を撫で、桃色や赤や白の可憐な花をつけた秋桜を優しく揺らして行った。
 昼食時、学生が大勢集まって賑やかな学生食堂に小百合はいた。
 中庭に面した一面ガラス張りの外壁や吹き抜けの天井から陽の光が差し込む学生食堂は、開放的な明るい雰囲気があって自然と足を向けたくなる、学生たちの憩いの場になっていた。また、カフェテリア形式も人気を呼んでいた。カウンターにはハンバーグや煮魚、野菜炒めや肉団子の甘酢炒め、肉じゃが、コロッケ、玉子焼きにサラダ、なめこ汁や豚汁、コーンスープなどが並び、ご飯類や麺類も充実している上に安かった。
 小百合はミートソーススパゲティと海草サラダとコーンスープを乗せたトレーを持って、座る場所を探して食堂内を見回した。文学部の仲間たちがいて、彼らのテーブルには空席があった。
「小百合、あそこにしましょうよ」
 一緒にいた鈴木智子がそう言った。小百合も同じことを言おうとしたのだが、智子の方が早かった。
 智子はガラス張りの外壁の方に顔を向けていた。その外はテラスになっていて、テラスにはテーブルと椅子が幾つか置かれてあり、テーブルの一つに矢麦健介と紺野直人がいたのだ。
 小百合は、今日も会っちゃったと思い、眉根に皺を寄せ、口をへの字に結んで直人を見ていた。
 すると智子が言った。
「そんなに紺野君と一緒は嫌なの? ねえ、小百合。彼のことを悪く言う人もいるけれど、彼は人に馴染むのが苦手なだけで、陰で噂されているような人じゃないわよ。それに彼って人が羨ましがるものを色々持っているから、そういうものに対する僻みや妬みと、極端に口数の少ないことが、彼を冷酷無情な人に仕立て上げちゃうのよ。私はそんな風には思わないけれどね――。人には相性というものがあるから、小百合がどうしても嫌なら仕方がないけれど……。私は健介さんとご飯を食べたいから向こうに行くわね。――ほら、あそこに竹岡さんたちがいるじゃない。お互い楽しく食べられるところで食べましょう、ね」
 智子は、小百合が最初そうしようかと思ったテーブルの方を見ながら言うと、両手でトレーを持って離れて行った。
 小百合は、そうじゃないのよ、と思っていた。昨日と一昨日起こったことを智子に打ち明けていいものかどうか迷っていた。
 紺野直人のことが、どうにも頭から離れなくなっていた。昨日の彼の怒声の勢いにはわけがわからず、その直後は驚き呆れるばかりだったが、時間が経つにつれて、傘に入るよう勧めたら怒鳴り声が返って来たことにショックを受け始めた。一緒の傘に入るのも厭なくらい自分は彼から嫌われていたのかと思ったら、なんだか落ち込んでしまって、それがまだ続いていた。
 でも……、と今日も紺野直人の姿を目にした小百合は、もう一度考えてみるのだった。
 最初の印象が悪かったのを引きずっていたこともあって、これまで彼に関する悪い噂を鵜呑みにして来た。そんな風に悪い方向に偏った見方をしていたのだから、彼はそれを感じて嫌気が差していたのかもしれない。祖母と彼が親しい知り合いであるという思いも寄らない接点があったのだから、これまでのことは水に流して、これから仲良くやって行けばいいのではないか? そうすれば彼のことを『優しいこ』と信じて気に入っている祖母は喜ぶだろう。
 もともと太平楽で楽天的な性格の小百合である。こっちが好意を示せば向こうも好意を持ってくれる、一本の傘に二人で入るようなことができたら上々だ、などと思いながら、コーンスープをこぼさないように気をつけてテラスへ向かった。
 テラスでは四人がけの白い丸テーブルに直人と健介が向かい合って座っていた。智子は健介の隣に座っていたが、それは直人の隣でもある。当然、小百合も智子と同じことになる。
「私も入れて」
 小百合は軽やかな声で言うとテーブルの上にトレーを置いた。テーブルの上は四枚のトレーでいっぱいになった。
 智子が、やっぱり来たわね、というような目で見ていた。
 小百合は智子に向かって、やっぱり来ちゃった、と心の中で言いながら笑いかけ、健介の姿を目の端で捉えつつ椅子に腰を下ろした。そして一呼吸置いてから直人の方に首を動かしてみた。すると、彼が顔を逸らすのが目に入った。それと同時に、「どうぞ」という声がして、小百合のトレーの上にマドレーヌが置かれた。置いたのは健介だった。マドレーヌは智子や直人のトレーの上にも乗っていた。
 健介はお菓子作りが趣味で、しかもかなりの腕前だった。
「ありがとう、頂きまーす」
 小百合はマドレーヌを早速口にした。
 直人も小百合に合わせるようにマドレーヌを食べ始めた。
 デザートを先に済ませてしまった小百合は、
「今日のも美味しかったわ、流石は矢麦君。――あのね、私の祖母の作るおはぎも美味しいのよ。とにかくあんこが絶品なの」
 と言いながら、直人の方に視線をやった。祖母の話ならば、彼が関心を示すのではないかと思ったのだ。
 しかし、直人は、随分と涼しい顔でお椀を持って、その中から箸でなめこをつまみ出すということをしていた。つまんだなめこが箸から滑ってお椀の中に戻った。が、彼は表情一つ変えないでお椀の縁に口をつけた。
「それは是非一度食べてみたいですね。直人もおはぎの方がいいんじゃないんですか。クリームよりあんこの方が好きなんですよね」
 健介が言った。
「あら、私もあんこ派。粒あんが好きなの」
 小百合は健介に向かって言った。
「直人も粒あんの方が良かったんですよね」
 健介は直人に向かって言った。
「へえ、そうなの……」
 小百合は妙に感激して、お汁粉でも食べに行かない、ってそのうち誘ってみようかなと思いながら直人に視線を移した。
「健介――」
 直人は健介に向って制止するように言うと、小百合へ顔を向けた。
 小百合はどきっとした。直人は何か言いたそうな顔をしていたのだ。小百合は胸をどきどきさせながら、彼の言葉を待っていた。
 しかし、直人は何も言わないまま顔を逸らし、残っていた南瓜の煮物一切れを口に放り込むと足元に置いてあったバッグの中から文庫本を取り出して開いた。
 小百合は内心がっかりしながらフォークを持った。直ぐ横に直人はいるというのに、彼に触れることはおろか、話すことさえできないもどかしさを感じながら食事をし、健介や智子と話していた。
 結局、四人でいる間に直人が発した言葉は、『健介』の一言だけだった。
 食器を返してから男同士女同士で別れた。男性二人はテラスから中庭へ出て行った。
 小百合は、今日はもう会えないのかなと思いながら廊下の窓から外を見た。そうしたら、健介が一人で歩いているのが見えた。
 小百合の中で何かが弾けた。
「先に行っていて」
 小百合はそう言うや否や、走り出していた。聞いてもらいたい! と切に思った。紺野直人について話せるのは矢麦健介しかいないと考えて、小百合は健介を追いかけた。

 やはり一人でいた健介は、道を曲がるところだった。
「矢麦君!」
 小百合は大きな声で彼に呼びかけ、追いついた。
「神谷さん……そんなに息を切らしてどうしたんですか?」
 健介は小百合と向かい合った。彼は、直人よりも身長は三センチくらい低かったが、体格はがっしりしていた。健介と智子は高校時代バトミントンをやっていて、今も続けていた。
 小百合は息を弾ませながら、
「紺野君の……」
 と言ったものの言葉が続かなくて、目を伏せてしまった。聞いてもらいたいという衝動に駆られて追いかけて来たのはいいが、いざ健介の前に立ったらどう説明すればいいのかわからなくなって、心がくじけ始めた。
「大丈夫ですか、辛そうですよ。――直人がどうしたんですか?」
 健介の声は柔らかだった。
 小百合は健介の顔に目を当てた。すると、眼鏡の向こうの目が優しげに細められた。不意に小百合の脳裏に直人の冷たい目が浮かび、耳に彼の怒声が聞こえた。小百合はむしゃくしゃして来て、
「紺野君が私を突き飛ばしたの――」
 と、つい言ってしまった。
 途端、健介が不審そうな表情を見せた。
 小百合は、しまった、まずい! と思い、
「昨日、紺野君が私を口で突き飛ばしたの――」
 と、言葉を補足してもう一度言った。
 健介はほんの少しの間、考えていたが、
「もしかして、それは怒鳴られたということですか?」
 と言った。
 小百合は頷いた。
「直人がね……」
 健介は驚いている様子だった。
「僕は高校の時からつき合っていますが、彼が怒鳴ったなんて、多分初めてだと……。ただし、胸の内で静かに燃える怒りを感じることは、珍しくなかったりして」
 そう言って健介は、自分で自分を指差しながら意味ありげに笑った。
「僕はともかくとして、神谷さんにしてみれば、愉快なことではないですよね――。でも、彼は自分より力の弱い者に暴力を振るって自分の気持ちを収めるようなことは、絶対にしません。僕の知っている直人とはそういう男です。それで、突き飛ばされたって言われても、腑に落ちなかったんです」
 小百合は恥ずかしくて居た堪れない気持ちで健介の言葉を聞いていた。彼の口調は非難めいたものではなかったが、直人に肩入れしているようだった。それも当然だろう。健介にとって、直人は長く親しくつき合っている友人だし、小百合は恋人の友人の一人に過ぎないのだから。もっと言葉を選ぶべきだったと小百合は後悔した。
「あのですね、神谷さん。彼も色々言われていますけれど、どうか色眼鏡で見ないでやって下さい。彼は真面目で気持ちの優しい男です。ただし、真面目すぎて融通が利かなくて遊びがなくて、更に言うと堂々巡りの人生を送っていて、ちょっと厄介なんですけれど――。それにしてもどうして神谷さんを怒鳴ったんでしょう。昨日って言いましたよね。昨日、直人に会ったんですか?」
 小百合はぎこちなく頷いて顔を伏せた。
「さっきは直人の隣で明るく振舞っていたから、そんなことがあったなんて驚きました。神谷さんって、逞しいですね――。そう言えば直人、いつになく神谷さんを気にしていたようだったな――。相談相手に僕を選んでくれたのは光栄ですよ。それとも直人のことだから僕しかいなかったのかな――。とにかく事情がわからなければアドバイスのしようがないし、直人が感情を剥き出しにしたっていうのにも興味があるので、厭でなかったら昨日あったこと、話してくれますか?」
 小百合はそっと目線を上げて健介を見た。
 矢麦君は、こちらの目の高さに合わせてくれる人だわ――。
 小百合は彼の雰囲気からそう感じて、これまで以上に親しみを抱きながら口を開いた。
「紺野君、道端に花束を置いて、そのままそこに突っ立っていたの。雨が降っているのに傘を持っていなかったから、傘に入れてあげようとして話しかけたら、最後には怒鳴って行っちゃったの」
「それ、どこですか?」
「小谷場町の」
 と、小百合が言いかけたら、
「金のすず通りではないですか」
 と、健介が素早く言った。
「そう。良くわかったわね――。あの、紺野君のお父さん、交通事故で死んだって聞いたけれど、もしかしてそこなの?」
「そこです」
「やっぱり」
「お父さん、車道に飛び出した直人を庇って事故に遭ったんです。雨の日だったそうですよ」
「それって、お父さんが車に轢かれて死んじゃったのは、全部紺野君のせいってこと」
「あの、神谷さん。そういう捕手も球審もぶっ飛ぶ直球剛球ど真ん中な言い方をするのは、僕だけにして下さい。神谷さんが損をしますよ」
 健介はちょっと渋い顔で言った。
「矢麦君、うちのお父さんと同じようなことを言うわね――。お父さんからそんな言い方をするもんじゃないみたいなことを言われて、ひどく怒られたことがあるの。こっちが冗談で言ったことが気に障ったらしくて、むきになって怒るのよ。適当に言っただけだから、今そんなこと言ったっけ? ってことだったのよ。それなのにあそこまでむきになられると、もう滑稽としか思えなかったわ」
「冗談も時と場合、人を選ばないとね。直人なんて冗談が通じない代表格ですよ」
「それはほんと厄介な人ね――」
 小百合は言った。すると何故か脳裏に金のすず通りの映像が浮かんで来た。小百合は実際に金のすず通りを眺めているような気分になって行った。そうしたら、俄かにあっと思った。直人に怒鳴られる直前、事故について口に任せて喋りまくっていたことを思い出したのだ。
「そうだったわ……」
 小百合は納得したように呟き、
「紺野君のいるところ、わかる?」
 と、健介に訊いた。
「研究室へ行きました」
「研究室?」
「東館三階の奥の方です」
「ありがとう。話して良かった、じゃあね」
 小百合は言うが早いか走り出した。
 健介の視界から小百合が消えた。
「あっという間に行ってしまった。なんか、風みたいな人だ――。悩みは解決したのかな?」
 健介は感心半分心配半分で呟いた。
 小百合は走りながら思っていた。
 意味のない呟きに腹を立てるなんて、うちのお父さんと同じだわ。だけれども、確か彼のお父さんの事故は自業自得だみたいなことを言ったような覚えがあったりして――。全然違ったみたいだから、これってやっぱりまずいわよね? 一言言ってくれれば、あの時謝ったわよ。むっつり屋は厄介だわ。一応今からでも謝っておかないと、私の気が収まらないわ。

 小百合は軽快な足取りで東館の階段を駆け上がり三階に着いた。すると廊下の中ほどで教授と立ち話をしている直人がいた。小百合は立ち止まり、逸る気持ちを抑えながら見守っていた。
 一分かそこらしてから直人と教授が別方向に歩き出すと、小百合も歩き出した。彼女は普通に歩いていたが、教授と擦れ違ったかと思ったら小走りになり、
「紺野君!」
 と呼びかけた。
 直人が足を止めて肩越しに振り返った時には、小百合は彼の直ぐ目の前にいた。
「お父さんの事故のことを矢麦君から聞いたわ。昨日はお父さんが悪かったみたいなことを言ってごめんなさい!」
 小百合は人目も憚らず大きな声で言うと深々と頭を下げた。すると、頭の上の方から、
「健介め、余計なことを言いやがって」
 という声が聞こえて来た。
「矢麦君を怒らないで!」
 小百合はぱっと頭を上げた。直人は好意的とは程遠い表情を見せていた。
「あんた、もう少し相手を見て、状況を考えてからものを言った方がいい」
 直人は疎ましそうに言った。
「だって、知らなかったんだから仕方がないでしょう!」
「言葉は時に凶器になる。何気なく言った言葉が、相手の一生を左右することもある。覚えておけ」
 直人の口調は静かだが、声には力がこもっていた。
「はーい」
 小百合は彼の言葉の意味に考えを巡らすより先に、条件反射的に返事をした。
「あっさりした、軽い返事だな――。あんた、俺の言ったことの意味がわかっているのか。そもそもまともに聞いていたのか?」
「ちゃんと聞いていました。これからは気をつけます!」
 問い詰められたら厄介だと思って、小百合はそう大声を上げた。
「あんた、口の軽さもだが、その声のでかさも、もっと自覚した方がいい。さっきから喧しくて仕方がない――。それと、昼飯の時は健介たちがいたから言わなかったんだが、昨日は怒鳴ったりしてすまなかった――」
 直人はそう言うと、改めて小百合の顔に目を当てた。
「神谷のお婆さんには小さな頃から良くしてもらっている。俺と同い年の孫がいるのは知っていたが、それがあんただったとは――。なるほど、良く見ればお婆さんに似ている――」
 直人の雰囲気は和やかなものになっていた。
 小百合は祖母に似ていると言われて、褒められたような、認められたような気がして嬉しかった。
「これからも祖母のことを宜しくお願いします。――あんこが好きなのよね。今度一緒にお汁粉を食べに行かない?」
 小百合は言った。
 直人は小百合を真顔で眺めていたのだが、何度か瞬きをしてから、
「今日、行こうか?」
 と言った。





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