ぬくもりの記憶 4(回想編)


 神谷家では一輝も滋郎も成績が抜群によかった。一輝は大学で、滋郎は高専で、学費免除となる特待生に選ばれていた。紅葉も兄たちに引けを取らない優秀な成績を収めていた。では、末っ子の小百合はどうかと言えば、あまり芳しい成績とは言えなかった。
「目も当てられないほどひどいわけでもないし。これくらいだったら、まあいいだろう……。これくらいだったらだぞ」
「これよりは下がらないようにしてね」
 両親は、兄姉とは少し歳の離れた末娘の小百合には甘くなりがちだった。
 小百合はそんな両親のもとで太平楽な娘に育った。
 中学二年一学期の通知表を受け取った時、小百合は担任の初老の女教師・木津から言われた。
「お兄さんたちは成績を競い合っていたわね。お姉さんを受け持ったけれど、学年三位から落ちたことがなかったわ」
 この時、小百合はかちんと来た。
 「神谷の四番目は出がらし……」
 小百合はそんなことをふと口にした。そんな風に噂されているのを知っていた。小百合は、兄たちと過ごした記憶が薄く、兄たちとの間にある距離を感じていた。姉とは実の姉妹であっても持って生まれて来たものが違うと思っていた。自分とは少し隔たったところにいる兄姉と比較したがる方がどうかしていると思って、これまでは聞き流していた噂が気になって来た。
 彼女の意識に変化が生じ始めた。
 夕餉の食卓。
 紅葉はもう耐え切れなくなったように、横に座っている小百合に向って口を開いた。
「あんた、さっきからこっちを恨めしそうな目でちらちら見ているけれど、言いたいことがあるんならはっきり言いなさいよ」
「別になんにもないわよ」
 小百合はそう答えたものの、姉は自分などとても敵わない器量や力量の持ち主だと今更ながら思って、そんな姉に羨ましさと悔しさを感じていた。
「だったらそんな目でこっちを見るのは止めてよ……そうだ。あんたの担任、木津先生よね? あの先生、あんたみたいなのらくらしている怠け者には容赦ないわよ。――お父さんが甘やかすから、このこ、手前勝手なことばかりしているじゃない」
 紅葉は小百合から、テーブルに向かい合わせで座っている母へと視線を移した。父はまだ帰っていなかった。
「でも、お父さんに一番叱られるのも小百合よ」
 母が言った。
「どんなに叱られても、このこ、ちっとも応えていないじゃない。結局、お父さんは小百合には甘いのよ。一輝も滋郎も、小百合には弱いし」
 紅葉は不満そうだった。
「そういう紅葉も、なんだかんだ言いながら小百合には結構甘いわよ」
「私は甘くなんかするつもりはないんだけれど、いざこのこを前にすると、気持ちがへなへなふにゃってなっちゃって。小百合って得な性格をしているわ。あーあ、羨ましくて、ちょっと悔しい。――あんた、目標とか夢とかあるの? あれば勉強にも身が入るわよ」
 紅葉は小百合へと視線を戻しながら言った。
 目標や夢と訊かれても、これといったものを持っていない小百合は、口をつぐんだ。
 姉の紅葉は、細面ですっと筋の通った鼻、すっきりした切れ長の目に引き締まった薄い唇。身長は百六十五センチある。顔立ちと頭の良さは、亡くなった祖父譲りだった。
 妹の小百合は、どちらかというと丸顔でぽてっとした鼻、垂れ気味のどんぐり眼にふっくらした唇。まだ伸びるはずだが、今のところ身長は百五十三センチだった。
 赤ん坊の頃から、紅葉はすらりとした感じ、小百合はずんぐりした感じだったと母は言う。姉妹にしては似ていなかった。
 テーブルに目を落として何も考えずにたくあんを噛んでいた小百合は、ふと視線を感じ、たくあんを飲み込むと目を前方へ向けた。小百合の向かいには祖母が座っている。祖母は目を細めた優しい顔をして小百合を見ていた。
 小百合は祖母へ微笑み返しながら、成績が上がったらお婆ちゃん、喜ぶかな? と思い、成績で祖母を喜ばせることを差し当たっての目標とすることに決めた。

 五年後。小百合は大学の文学部に進学した。
 大学生活にも慣れて来た小百合は、同じ学部で仲良くなった鈴木智子とお喋りをしながら、学生たちで賑やかなキャンパスの中庭を歩いていた。何気なく辺りを見回した小百合は、経済学部の矢麦健介の姿を見つけた。後ろ姿だけれど、矢麦健介に間違いなかった。
「智子さん、あそこ」
 小百合は人差し指で矢麦健介を指した。
「あっ、やむぎくん」
 智子は嬉しそうな声を上げた。
 小百合と智子は笑顔で頷き合うと、矢麦健介を目指して転がるように走った。
「やむぎくーん」
「矢麦くーん」
 智子と小百合の声が届いたのか、矢麦健介が振り返った。そして片手を上げて応えてくれた。彼のもとへ先に着いたのは、智子だった。
 鈴木智子と矢麦健介は、智子が親戚の家にいた時、そこに健介が家庭教師としてやって来て、それで知り合って交際が始まったと言う、できたてほやほやの恋人同士だった。
 この日、健介には連れが一人いた。
「お二人とも、直人に会うのは初めてでしたね。彼は僕と同じ経済学部一年の紺野直人」
 健介は親指を立てて紺野直人を指し示した。
 小百合は紺野直人に見とれていた。健介に遅れて振り返った彼を遠めに見た瞬間、かっこいいと思ったのだが、こうして直ぐそばで見るとまさにかっこいいの一言に尽きる。
 身長は百七十五センチ以上ありそうだった。彫りの深い目とすっと伸びた鼻筋、涼しげな薄い唇と細く尖った綺麗な顎のライン、すらりと伸びた足、細身だが華奢な感じはしない。
 時代劇で凛々しい立ち回りを演じる、バラエティーにも出ているあのアイドルに似ているわ。でもでも、この人の方がずっとずーと素敵じゃない。
 小百合はそう思い、子供のように無邪気な気持ちと浅はかな考えで彼をアイドルと同列に置いてしまった。
「こちらは鈴木智子さん。こちらが」
 智子を指し示した健介の手が小百合に向いた。
「私、矢麦君と仲良しの智子さんの大親友で文学部一年の神谷小百合、現在フリーです」
 小百合は健介の紹介を待たないで自分から張り切って名乗ると、紺野直人の顔にじっと目を当てた。アイドルといえば旺盛なサービス精神と爽やかな笑顔。小百合は紺野直人の笑顔と言葉を目を輝かせ、胸をときめて、今か今かと待ちわびた。
 ところが、彼からはなんの反応も返って来なかった。
 磁器製のお人形みたい。
 小百合はそう思った。彼からは精気というものが感じられなかったのだ。
 紺野直人が無表情な顔を小百合にまともに向けて来た。
 なんて冷たい目で私を見るの。
 小百合はそう思った。お前など取るに足りない存在だ、とそんな風にこちらを眼下に見ているような、そんな目だった。彼女の楽しくて弾んでいた心はしぼんでしまった。
 紺野直人が身体をすっと動かした。
「巻き込むな」
 彼は、辛うじて聞き取れるくらいの小さな声で健介にそう言うと、一人離れて行った。
 小百合は呆然としていた。紺野直人をアイドルのような軽快で爽やかな人と決め込んで一気に崇拝してしまったために、理想と現実の違いが彼女にはショックだった。
 智子は、健介を見ながら頭を捻っていた。去って行く直人を見守る健介の顔には痛みを堪えているような表情が浮かんでいた。智子は健介のそんな顔を見たのは初めてで、彼のことが心配だった。
「直人、朝から虫の居所が悪くて。悪気はないんです。どうか気を悪くしないで下さい」
 健介が取り成すように言った。
「それじゃ、鈴木さん、またあとで」
 健介はその場から立ち去って行った。
 遠ざかる健介を眺めていた小百合は、彼の姿が見えなくなると、
「何あれ、感じわるーい」
 と、思わず言っていた。が、言ってしまってから、智子に変な誤解を与えたかもしれないと思って、
「紺野直人のことよ」
 と、慌てて付け足した。
「紺野って人も、小百合ちゃんのことをそう思っているかもね」
 智子が呆れたような顔で言った。
 小百合は驚いたように目を瞬かせたかと思ったら、今度は訝しそうに目を細めた。
「初対面の人をあんなにじろじろとまるで嘗め回すように見たら、あの人綺麗な顔をしていたから小百合ちゃんの気持ちもわからなくはないんだけれど、見られた方はたまったもんじゃなくて不愉快にもなるわ」
 智子はどこか批判めいた口調で言った。
「じろじろと嘗め回すって……何? そんな風に見えたの」
「そんな風に見えたわよ。今のは、小百合ちゃんが失礼だったと思うわよ。まあ、向こうの態度も、あれはちょっとないんじゃないとは思うけれど。――紺野って人、気位が高くて神経質な感じだったじゃない。だから、小百合ちゃんにじろじろ見られたのが、余計に気に障ったのかもよ。――あっ、ご免なさい。ちょっと言い過ぎたかしら。小百合ちゃん、気にしちゃった?」
「ううん……確かにちょっとじろじろ見過ぎたかもしれないから」
 小百合は笑いながら首を横に振った。
「やむぎくん、あの人のことをかばっていたわね……ああ、わかった。そうだったんだわ」
「そうだったって、何が?」
「それでやむぎくんは、あんな顔をしていたのよ」
「あんな顔って、どんな顔?」
「辛そうな、困ったような顔。やむぎくんのあんな顔、初めて見たわ。人が好い、面倒見のいい彼のことだから、あの紺野って人に気を使い過ぎて疲れているのよ。彼、またあとでって言っていたから……よし、その時はうんと優しくしてあげようっと」
 智子は、自分の赤く染まった頬を両手で包んで一人できゃあきゃあ喜んでいる。
 智子は矢麦健介さえいれば、紺野直人のことなどどうでもいいのだが、小百合は違った。
 私は、かっこいいって褒めてあげたのよ。この清純な乙女が、純粋な憧れを抱いて見とれていたのよ。そんな乙女の憧れを粉微塵に打ち砕いてくれた紺野直人の方が失礼なのよ。小百合ちゃんの乙女心はずたずたに引き裂かれ、もう捨てるしかないぼろ雑巾のようだわ。ああ、なんて可哀想な小百合ちゃん。
 小百合は自分をそう憐れんで、紺野直人と言うのは偉ぶった傲慢な人間だと思った。

 バイト料が入ったその日、小百合は、表通りから横道に入って奥の方にある老舗の和菓子屋へ向かった。そこで祖母の好きな金鍔と甘納豆を買うと来た道を引き返した。
 道を半分ほど引き返した時だった。健介の友人である男子学生二人の姿が目に入った。健介の数多い友人たちの中でも、ひょうきんでお喋りでいつも笑わせてくれる楽しい人たちだった。彼らは表通りを小百合の右手から左手の方向へ歩いて行った。それは小百合の行く方向でもあった。小百合の歩く速度が自然に速くなった。
 小百合は声をかけるつもりで男子学生二人に近づいて行った。小百合に背中を見せて話しながら歩いている彼らは、小百合には気づいていないようだった。
 すると男子学生の一人が、一際大きな声を張り上げて言った。
「ホンとむかつくヤロウだ!」
「また紺野かよ。今度はなんだ?」
 もう一人の男子学生が言った。
 それを聞いてしまった小百合は、二人の会話が聞き取れるくらいの距離を置いて、二人の後ろをそっとついて行った。
「目が合っちまったんだよ」
「ほおー」
「たまたま顔を向けた先にあのヤロウがいて、どういう具合か見事にかちっと合っちまった」
「それはそれは……それで、どうなった? 奴が微笑んでくれたとか」
「気持ちの悪いことを言うなよ。ついと顔を逸らしやがったよ。まあ、無視ってところか。それはありがたいことなんだが、その様子が気取っていて偉そうで、思い出すと腹が立って腹が立って」
「だったら、思い出さなければいいだろう。――この前はお前、乗った車両に紺野がいてむかついたって言ったよな」
「アイツの存在そのものが、オレは気に入らないんだ。なあ、特待生に選ばれたのに辞退したのを知っているか?」
「紺野がか?」
「ああ。金には不自由していないから恵まれない者に譲る、とこう言ったらしい」
「紺野の家はかなりの資産家だって話だし、あいつならそれくらいは言いかねないな。顔が良くて頭も良くて、おまけに金まであって、羨ましいぜ。神様は不公平だよな」
「性格でマイナスだろう。ナニ様だ、オレ様だ、カミ様だってな。アイツが会話らしい会話をするのは、矢麦くらいだろう」
「高校の時からのつき合いだって、矢麦が言っていた。――おい、矢麦には気をつけろよ。あいつは人当たりが良過ぎて、それがかえって胡散臭い。本当は陰険で底意地の悪い男と見た。陰で何を言っているかわからない。あいつは紺野の腰巾着だ」
「オレ様と腹黒か。絶妙なコンビだな」
 彼らの話を聞いた小百合は、陰で言っているのはあんたたちの方じゃないと思い、彼らがつまらないちっぽけな存在に見えて来た。
「それはそうと、文学部の神谷だけれどよ」
 彼らが話題を変えた。
 自分の名前が出て、小百合はぎょっとした。
「アイツってよく食うよな。食い気百二十パーセント、色気マイナスってな」
「そうそう。それにすっげえー単純で、何を言っても大口開けて馬鹿笑いするのな」
 彼らが大笑いした。
 小百合は思わずかっとなり、くるりと後ろを向いてすたすたと歩き出した。
 あんな人たちだとは思わなかった。好き勝手に言っていればいいわ。もう二度と口をきくもんですか。人のことを馬鹿にして、あの人たちも紺野と一緒よ。私、紺野が大っ嫌い。あいつを見ると寒気がするわ。
 頭から湯気を立てて目的もなく歩いていたら、『豆かん・あんみつ・ぜんざい』ののぼりが目に入った。
 小百合や先の男子学生二人のみならず、紺野直人は同輩から反感を買っていた。それと言うのも、彼は小百合が最初に感じたお前など取るに足りない存在だというような雰囲気を常に持って、蔑んだ目で人のことを見るからであった。矢麦健介を除けば、紺野直人のそばに好んで寄って行く者などいなかった。
 もし、あの冷たい雨の日に直人に会わなかったら、小百合は彼の真実の姿を知ることもなく、彼を嫌いなまま終わってしまっただろう――――。





                                     HOME 前の頁 目次 次の頁