ぬくもりの記憶 16


 小百合は闇の中にいた。
「あたたかい……」
 安心しきったような声がどこからか聞こえて来た。それは直人の声だった。不意に耳に息がかかった。
「いいか。ずっと俺の傍にいるんだ。どこにも行くな……」
 耳元でそう囁かれ、身体を抱え込まれた。首筋に、頬に触れる彼の息も、抱え込まれている腕も、ぴたりとくっつけられた胸も熱かった。
「小百合のぬくもりは俺だけのものだから……」
 彼はそう甘く囁きながら、小百合の身体を締めつけるように腕に力を込めた。
 小百合は息苦しさのあまり身じろいだ。しかし、彼は腕の力を緩めようとはしない。小百合の身体は燃えているかのように熱くなり、意識が熱さで白く溶けて行った――――。

 と、小百合ははっとして瞼を開いた。白い光が視界いっぱいに広がった。そのあまりの眩しさに小百合は思わず眉を寄せた。
 もう朝なの……?
 目のあたりに手をかざしながら、ぼんやりとしてはっきりしない頭で考えた。
 雨が降っているような音がしていた。
 白い光は差し込む朝日ではなく蛍光灯の光で、ここはマンションの自室で、自分は身体に馴染んだベッドの上にいる、とだんだんわかって来た。
 いつの間にか寝ちゃったんだわ、と思いながら上半身を起き上がらせ、ベッドの上を見回した。
 枕の横に写真立てが倒れていた。中には祖母が小百合に遺してくれた写真を修復した写真が入っていた。ネガなど残っていなかったし、たった一枚の貴重なオリジナル写真の退色を心配して修復してもらった。一番いいものだと祖母が言っていた着物の柄が鮮明になっていた。
 小百合はこの写真を見ながら直人のことを考えているうちに寝てしまった、ということだ。
 写真立て手にした小百合は、ベッドの上で居住まいを正すと写真に向かって話しかけた。
「あのね、お婆ちゃん。私、素敵な人に会えたのよ。私、直人のお嫁さんになりたいんだけれど……あの人、してくれると思う?」
 そして、暫し考えるような顔をしていたかと思ったら、肩をすくめておかしそうにくすりと笑った。このせりふを小百合は何度も何度もこの写真に向かって言っていた。
 それから、いよいよもって頭がはっきりして来、小百合は、「あっ」と小さな声を漏らした。
「直人、どうしたのかしら?」
 すごく気になって、そう呟きながらベッドボードに置かれた目覚まし時計に目を向けた。もう直ぐ七時半になる。
「寝ている時に電話がかかって来たら、いくらなんでも目が覚めると思うんだけれど……。それとも気がつかないほど寝ちゃっていたのかしら……」
 小百合は浮かぬ顔でそうこぼし、写真立てを持ってベッドから降り、背の低い棚の前に行った。棚には直人と一緒に撮った写真が写真立てに入れられて置かれてあった。その横に祖母の写真を並べた。
「ご飯の時間だけれども、どうしようかな……」
 珍しく空腹を感じていない小百合は、写真の笑顔の直人を見ながらつまらなそうに呟いた。
 その時だった。
 雨音を切り裂くようにクラクションがけたたましく鳴り響き、甲高いブレーキ音がした。
 窓の外でした危険極まりない音に、小百合はびくりとして息を呑んだ。激しい衝突音こそなかったが、自動車による交通事故が起きたのかもしれないと思った。そうしたら急に恐ろしくなって来て身体ががたがたと震え始め、自分で自分の身体を抱き締め、思わず「直人」とかすれた小さな声で言っていた。
 小百合自身は交通事故に遭ったことはなかった。けれども、事故の瞬間を目撃したことはあるし、事故後の現場なら何度も見ていた。しかし、その時はこんなに怖いとは思わなかった。
 足がすくんで動けない小百合は、直人のことを頭に置きながら窓の外、雨音の向こうの音に耳をそばだてた。特に騒がしくなったわけでもなく、車も自然に流れている様子で、小百合はほっと息を吐いた。しかし、胸はまだどきどきしていた。
 直人のことは信頼しているが、かと言って彼を信頼するこの気持ちが、彼の身に降りかかる災難を取り除くなどということは、万にひとつもあり得ない。よからぬ考えが脳裏をよぎって仕方がなかった。
 小百合は不安の念にさいなまれ、同時に狂おしいほどの恋しさを感じながら「直人……」と呟き、瞼を伏せ、彼への想いに沈んだ。
 しんとした時間が、小百合の中で流れた。
 鳴る!
 小百合は本能的にそう感じた。
 果たして、固定電話の呼び出し音が鳴った。
 小百合は受話器に飛びつくと、受話器を耳に当てる間ももどかしく、「はい」と言った。知らず知らず力んでいた。
<俺だ>
 受話器から直人の声が流れ出て来た。
 それを聞いた瞬間、偉そうな声、と小百合は思った。直人の声を聞いたことで、小百合の意識が現実味を帯びて来た。
<図書館で免許証を受け取って来た>
 これまた偉そうな声だった。
 あくまでも小百合がそう感じただけなのかもしれないが、とにかくそう感じてしまったのだから仕方がない。小百合はむかむかとして来た。免許証を落とした上に宿の電話番号を間違えていた直人から役立たず呼ばわりされたことが、改めて悔しくなって来た。心配していた反動が来た、ということだろう。済んだことを今更どうこう言っても始まらないが、電話番号の件で彼をとっちめてやりたくなって、小百合は口を開きかけた。しかし、
<世話をかけて済まなかったな>
 と、直人の言葉の方が早かった。今度はなんだか誠実さの感じられる口調だった。
 それで小百合は勢いをそがれてしまい、
「もういいわよ」
 と、自然に口から出、顔を綻ばせていた。内心では自分は何をやっているんだろうと思い、気を取り直すように前髪を掻き上げながら言った。
「無事に受け取られて良かったわね。これも矢麦君のお蔭なんだから、彼にもそう言ってあげてね。それで、一日一回会社に連絡して欲しい、とこれは矢麦君からのお願いよ。直人宛ての問い合わせに回答できないで困っているんですって。――ねえ、問い合わせの件もそうだけれど、二人分の仕事をしている矢麦君、大変そうで気の毒になっちゃった」
<あいつなら上手く処理してくれるさ>
 直人は当然のことのように言った。
「そうね」
 小百合はそう言いながら何か思いついたような表情を顔に浮かべ、それを悪戯っぽい表情に変えると口を開いた。
「矢麦君が恋人だなんて、智子は幸せだと思うわ」
<まるで小百合は幸せじゃないみたいな言い方だな>
 直人の言葉に小百合はふふ、と心の中で笑った。そうして言った。
「幸せになりたいから、これからも言いたい放題に言います」
 途端、受話器から、<くくく……>という直人の笑い声がした。それから直人は、
<それが小百合の幸せとどう関係するのかわからないが、お手柔らかに頼むぞ>
 と、愉快そうに言って、
<連絡の件はわかった。せっかく仕事を忘れようと旅に出たのに、結局仕事ってのは追いかけて来るものだな>
 と、諦めたように、がっかりしたように言った。
「うん、そいういうもんだと思うわ……ねえ、直人……」
 小百合の声はだんだん閨の中で甘えるような声になって行った。
<ん……何だ……>
 直人の声も妙に柔らかくて優しくて、甘かった。
「そっちは雨、降っているの?」
<いや、降ってはいないが……そっちは雨なのか?>
「うん……夕方からぽつぽつ降り始めて、今は本降りになっているわ」
<こっちは、午前中は過ごしやすいいい天気だった。それが、午後からは日が陰りがちで、今も外からかけているんだが、空は雲がいっぱいで、月のあるあたりの雲は光っているが、どんよりしている。空気も湿って来たから、雨がこっちに来るのかもな……。明日の天気はどうかな?>
「天気予報は見ていないの?」
<そういうものはあまり気にしないで、気ままにやっている。だが、会社に連絡を入れるとなると、気分的にもう違って来るな>
「それはご愁傷様でございます。ねえ、帰りは予定通り?」
<ああ、予定通りだ。そっちに着くのは夕方になる>
「着いたら、私のところに来てくれる?」
<俺は小百合の部屋を出る時、帰ったらまっすぐここに来ると言った。小百合はそれに調子良く返事をしたよな。覚えていないのか?>
「ちゃんと覚えているけれど、一応訊いてみたのよ。でね、その日は直人のお誕生日よね?」
<そうだ>
「絶対に来てくれるよね?」
 どうも小百合の言い方はしつこくて、直人には彼女の執念のようなものが感じられた。
<行くって言っているだろう。――なあ、小百合、何か変だぞ。どうしたんだ?>
「どうもしないけれど……早くお土産が欲しいなあ、って感じかな」
 小百合がそう言ったら、受話器から喉の奥を震わせるような直人の笑い声が流れて来た。
<どんな土産が欲しいんだ?>
 直人が笑いながら言った。
「えっと……わかんない。とにかくなんでもいいから欲しいのよ。それで、お誕生日の夕方に私のところに来るのよね?」
<何度言わせる気だ……。俺は、俺の誕生日の夕方に小百合の部屋に絶対行く。これで満足したか?>
「はあい。お夕飯は、お誕生日のお祝い仕様にして待っているわね」
<ああ、待っていてくれ>
「まだ、一週間もあるのね」
<俺は、あと一週間しかないと思っている。――それじゃあ、お休み>
「直人はそうでしょうね。――お休みなさい」
 小百合は受話器を置くと、「はあー」と大きく息を吐き出した。
 無事に事が済んで、ようやく落ち着いた小百合は、自分の夕飯を作りにキッチンに入り、お味噌汁を作りながら直人の誕生日をどう祝ってやろうかと考えた。
 お味噌汁のやわらかな香りがキッチンに広がった。その香りが脳に適度な刺激を与えたのだろうか。小百合はふと、まだ一週間もの時間、余裕があるんだと考えを改め直した。そして、今度こそ直人に美味しいって絶対に言わせてやろうと思った。
 猛烈にやる気の出て来た小百合は夕飯を済ませると、インターネットで『失敗しないケーキ』を調べ始めた。

 今日は、直人が旅行から戻る日だった。その日は、梅雨入りした西日本の方は荒れた天気になっているらしいが、小百合の地元はいいお天気だった。
 小百合は、晴れて良かった、これは直人日和だわ、と思った。尤も、たとえ雨が降ったとしても、『雨は天からの祝福、幸せが降っている』と祖母が言っていたから、直人が祝福を運んで来るとかなんとか都合のいいように解釈して、やっぱり直人日和になったことだろう。
 今日の午前の早い時間に、直人から重い荷物が届いた。荷物の中身は汚れた衣服と、地方で出版された本と、二リットルのペットボトルの水が六本と、『よろしく』と書かれた紙が一枚。
 小百合はペットボトルのラベルを見た。『やさしく育まれたゆたかで新鮮な天然の湧水を採水し、その場でボトルにパックしたおいしい水です』と書かれてあった。
 小百合は澄んだ水を眺めた。水の向こうに直人の姿が浮かんで来た。彼からどんな旅の話が聞けるか楽しみだった。
 それから小百合は、これでレギュラーコーヒーを淹れたら美味しいかしら? と思い、直人がいつ帰って来てもいいようにしてから、おいしい豆が欲しくてコーヒーショップに買いに行った。
 夕方近くなって、小百合が洗濯物を片づけていたら固定電話が鳴った。直人に間違いないだろうと思った小百合は、受話器に手を置くと咳払いを一つしてから受話器を耳に当てた。
「はい」
<俺だ>
 やはり直人だった。考えてみると、直人からの電話はいつもこの一言で始まった。
<今、駅に着いた>
「お土産は? まさか、あのお水と汚れもの、あれだけがお土産ってことはないわよね」
 小百合は勢い込んで言った。
<あのな、お帰りも言わずにいきなり土産かよ。早速、言いたい放題だな>
 情けないような直人の声だった。
「ああ、忘れちゃった。ご免ねえ。でも、言いたい放題は私もだけれど、直人もでしょう」
<俺は人を選んで言っている。それと土産はちゃんとここにある>
「じゃあ、言われる私は、直人に選ばれた人なのね」
 小百合がそう言ったら、受話器から直人の笑い声がした。それと何か言ったようだったが、それは聞き取れなかった。笑い声が収まると、小百合は口を開いた。
「ささやかですが、紺野直人さんのお誕生祝いの用意をいたしております。でね、ケーキも小百合さんのお手製よ」
 小百合が自慢げに言ったら、
<なあ、これまでにケーキを作って成功したことがあったっけ?>
 と、不安そうな口調でそう返って来た。
「これまでは成功とは言えなかったけれど、今日のは大丈夫、めでたく大成功よ」
<菓子を作るたびにそんなことを言うよな……。まあ、いい。これから行くよ。――小百合の技術向上のためにいつも喜んで犠牲になってやる俺って、偉いだろう>
「ちょっと、誰が偉いんですって?」
 小百合がそう言った時には、もう電話は切られていた。
「もうっ」
 小百合はそう低く吐き出したものの、これから来るんだからいいかと思いながら受話器を置いた。
「今日のはこれまでで一番上手くできたのよ……できたと思うんだけれど……多分、できているはず……」
 小百合はだんだん心配になって来た。
「それとも直人の好きなおはぎの方が良かったかしら? 誕生日におはぎ……ケーキに蝋燭……おはぎに蝋燭……」
 小百合は想像して「ぷっ」と吹き出した。お腹を抱えてひとしきり笑った。やがてそれが収まると口元を引き締め、真剣な表情になった。
 小百合は思った。
 臆病者、と直人に向かって叫んでしまったけれど、私だって臆病者だ。もし直人に何かあったら、もし直人がいなくなってしまったら、そう考えると怖くて怖くて堪らない。でも、怖いからと言って、あの人に向かうこの気持ちを押し止めるなんて私にはできない。そんなことをしたら、私が私でなくなってしまう。
 何かを失うのが怖いのは、その何かがどれほど価値のあるものかを知っているから。そのぬくもりを知っているから。
 私は直人と出会えたことに感謝する。今日と言う日にも感謝する。今日があったから、あの人がいる。今日があったからこそ、私はあの人に会えた。
 間もなく直人が帰って来る。あのぬくもりが私のところに帰って来てくれる。
 私は想いの全てを込めて言うだろう。

『お帰りなさい、直人。お誕生日おめでとう』

 もう直ぐあのぬくもりに会える――――。





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