ぬくもりの記憶 15(回想編)


 春行き、夏果て、秋立ち、冬至り、そしてまた春が来る。季節は巡りて再生を繰り返すが、人生という季節は過ぎ行くのみ。
 二月。卒業までの時間を、ある者は準備万端整えてゆったり、ある者はやり残しを片づけるのに忙しく、ある者は既に季節を越えて、とそれぞれが様々な過ごし方をしていた。

 神谷小百合、大学四年。冬晴れで風もない二月にしては暖かな日であった。
 小百合は大学の門をくぐり、テニスラケットを持つ女性像の前で立ち止まって顔を上に向けた。女性像を見上げながら何かを考えるような顔をしたかと思ったら、今度は下を向いておかしそうにくすくすと笑った。そして顔に笑いを残しながら、学生食堂に向かった。
 冬の淡い日差しが射し込んでいる学生食堂内は人影もまばらで、そこに小百合の友人たちの姿は一人もなかった。
 小百合はトーストの自動販売機の前に行った。普通のトーストとチーズハムとシーチキンがあった。小百合はコインを投入するとチーズハムのボタンを押した。一分ほどすると銀紙に包まれたトーストが落ちて来た。ここのトーストは厚さは薄いが味の方はなかなかのもので、小百合は小腹が減った時には良く食べていた。それから自動販売機で砂糖とミルク入りのコーヒーも買うとテーブルについてコートを脱いだ。
 小百合はコーヒーをひと口すすると出入り口に目をやり、次に大きなガラス窓の方に目を向けてガラス越しに中庭を眺め、また出入り口の方に目を移して、一人出て行って、二人入って来たのをなんとなく見ていた。そして、小百合が出入り口から視線を逸らしかけたその時、紺野直人が入って来た。
 スーツ姿でコートを手に持った直人は、小百合のそばにやって来た。
「やっぱりな」
 直人は言った。
「あんたのことだから、ここで待ち合わせれば、なんか食べるんじゃないかと思った」
「どうせ、私は色気より食い気ですから。なんとでも言って下さい。――ねえ、なんでスーツなの?」
「爺さんに連れられて挨拶をしに行って来た」
「どこに?」
「爺さんの知り合いのところだ。これが孫です。この春から社会人となります。宜しくお願いします。という感じだ。このところ、そんなことばかりやっていた」
「紺野君のお爺さんは顔が広いって、星野という経済の先生がテレビに出た時、この人とも知り合いらしいって、うちのお父さんが言っていたわ」
「その人とは同期生だ。とにかく爺さんの知り合いのところを色々回って、たいていは話し込むことになるんだが、俺は人付き合いが苦手だから、いるだけで疲れた。だが、これまでは苦手で済んだことも、これからはそれじゃあやって行けない。慣れるしかないと思って、爺さんにおとなしく引きずり回されていた」
「でも、紺野君はいい方向に随分変わったわ。まだまだ変われるわよ。――話しがあるって、その話って、今みたいな、近況報告のようなこと?」
 直人は意味ありげな表情を顔に浮かべながら、小百合の隣に腰を下ろした。
「電話に出た人がお姉さんなのか?」
「そうよ。紺野君が電話をくれたのは初めてでしょう。夕べはびっくりしたけれど、嬉しかった」
 小百合はすっかりご満悦の様子だった。
 直人は小百合に当てていた視線をトーストが包まれている銀紙に移し、
「それ、食べてしまえ。それから本題に入る」
 と言った。
 小百合は銀紙の中からトーストを取り出した。
「今年に入ってから、あんまり会えなかっただろう。会いたくなったから、電話した……」
 直人の言葉を聞きながら、小百合はもぐもぐとトーストを噛んでいた。すると直人が、
「ひと口くれ」
 と言ったかと思ったら、小百合のトーストを持つ手を掴んで引き寄せ、トーストをひと口かじった。
「美味いな」
 直人が言った。
 小百合は目をぱちぱちさせていた。彼がこんなことをしたのは初めてだった。小百合は再びトーストをかじり、噛み締めた。
「うん、美味しい……。もっと食べる? コーヒーも飲んでいいわよ」
 二人で分け合って食べた。
 直人が空の紙コップを持って立ち上がると、小百合も小さく丸めた銀紙を持って立ち上がった。直人は紙コップをごみ箱に捨てると中庭の方に向かった。小百合も銀紙を捨てると彼について行き、中庭に出た。穏やかな日差しの下、二人はコートを手に持ったまま大学構内を歩いた。小百合は黙って直人が話し出すのを待っていた。
 梅の香りがした。白梅が咲き始めていた。
「矢麦さんに会ったんだって」
 不意に直人がそう言った。
 梅の花に目をやりながら歩いていた小百合はぎょっとして立ち止まると、恐る恐る直人の方に目を向けた。彼はじっとこちらを見ていた。
 小百合は、知られてはいけないことを知られてしまったような気がして、動揺した。
「この間、健介から聞いた」
「怒っている?」
 小百合は上目遣いで直人の顔色を窺いながら言った。胸がどきどきしていた。
「怒られるようなことをした、とあんたは思っているのか?」
 小百合はなんとも答えようがなかった。
「はっきり言って、それを聞いた時はいい気持ちがしなかった。でも、あんたなんだからいいんじゃないかって思えて来て、しまいにはお喋りなあんたが良く黙っていられたもんだと感心した。矢麦さんがあんたに何を言って、あんたがどう思ったのか知らないが、あんたは変わらずに俺のそばにいてくれた。そうだったろう?」
 直人は言って、近くにあった日当たりの良いベンチに腰を下ろした。
「突っ立っていないで座れ」
 そう言われて、小百合は緩慢な動作で直人の隣に座ると、コートを膝の上に丸めて置き、その上に両手を乗せて、肩を縮こまらせて自分の両手を見詰めた。
「さっきは変わらずに、と言ったが、あんたの仕草や雰囲気が柔らかくなったと思った時があった。その頃、矢麦さんと会ったらしいな……」
 小百合は両手の指を組んだり離したりしながら聞いていた。
「健介から事情も聞いている。どいつもこいつもお節介で困ったもんだ。矢麦さんと会ったことを黙っていたのは気にしなくてもいい」
「うん……」
 小百合は、これで隠し事がなくなったと思ってほっとした。とは言え、まだなんとなく落ち着かなくて膝の上で手をしきりに動かしていた。
 ぱたぱたという音が頭上から聞こえて、直人は空を見上げた。鳩が一羽飛んで行くのが目に入った。鳩の姿はどんどん小さくなって見えなくなった。
「俺は神谷が好きだ」
 直人が言った。
 一瞬、小百合の手も思考も止まった。そして、
「やっと言ってくれた……」
 と、小百合は顔を伏せたまま小声で、でも嬉しそうに言った。
「やっと言えた……」
 ほっとしたようなその声で小百合が顔を上げたら、空を見上げている直人の横顔があった。小百合は彼の頬がほんのりと赤いような気がした。
「今度の土曜日、ドライブに行かないか?」
 直人が小百合に向かって言った。
「行く!」
 小百合は考えるよりも先にそう口から出た。
「父親がいた頃、三人で出かけたんだ。多分、今頃だったと思う。一面黄色に染まっていて、黄色い海だとか、絨毯だとか、俺がそう言ったんだ。そしたら、あれは菜の花だ、と……母親が教えてくれた。それから魚を見た。ここは海の中だ、と言ったのはどっちだったか……」
 直人は静かに、少し辛そうに語った。
 彼が両親や子供の頃の話をするのは初めてのことで、小百合はじっと聞き入っていた。
「神谷とそこに行ってみたくなった」
 直人は何か吹っ切れたような顔で言った。
 小百合は微笑みを浮かべ頷いた。
 小百合の手に直人が自分の手を重ねた。
「俺はこの先もずっと神谷といたい。一泊する。部屋は一つ。それでいいか?」
 直人は小百合の片方の手を強く握った。
 小百合は流石に戸惑い視線をさまよわせたのち、直人の顔に目を当てた。彼は熱っぽい目でこちらを見ていた。
 小百合は思った。彼が私をじっと見詰めていることがあった。それに気がついて見詰め返すと、彼は目を閉じたり逸らしたりして、私から逃げて行った。
 しかし、今日の直人は小百合の視線から逃げなかった。
 小百合は、直人に握られている手を意識しながら、一緒にいてもこんな風に私に触れて来ることはなかったと思い、もう一方の手を彼の手に重ねて置くと言った。
「もう一度言って」
 直人は少しの間考えるような顔をしてから口を開いた。
「好きだから、ずっと俺のそばにいて欲しい」
 小百合は彼の手をぎゅっと握って頷いた。

 土曜日。小百合は岬の突端に立って海を眺めていた。
 黄金色の太陽が水平線に近づいて行く。海も空も濃いオレンジ色に染まり、海上には一筋の金色の帯が揺らめいて煌いていた。
 小百合は身体の向きを変えた。少し離れた場所に海の方に顔を向けている直人がいた。夕日を浴びてオレンジ色に輝いている彼を、小百合は綺麗だと思うと同時に、寒そうだとも思った。風が出て、気温も下がって来ていたが、そのせいばかりではないような気がした。
 今日の直人はおかしかった。小百合から目を逸らしがちで、つくでもない、離れるでもない微妙な距離を保とうしているようだった。話しかければ返事は返ってくるものの、小百合は彼とのやりとりにしっくり来ないものを感じた。
 小百合は直人のそばに近づいて行った。すると直人が前を向いたまま口を開いた。
「俺、事故のあと目覚めた時、お父さんと出かけたはずなのになんでここにいるんだろうと思ったんだ。車道に出て車にはねられたことは、言われるまでわからなかった。暫くは車を見ると気分が悪くなったんだが、それはそのうちなくなった。車は怖くない。ちゃんと運転もできるだろう……。寒いな、行こう」
 独り言のように言うと、小百合には目もくれずに行ってしまった。
 海風が強くなって来た。背後から吹きつける冷たい風に小百合は身震いし、全然面白くないと思った。直人が車に乗り込むのが見えて、小百合は仕方なしに歩き出した。
 小百合が助手席に座ると、直人は黙って車を発進させた。彼は無愛想なバスの運転手のようにただ車を走らせた。小百合は口をきく気も失せて、むすっとしていた。
 夕飯をホテルの外で済ませてから二十時にチェックインすることになっていた。あらかじめ決めてあったすし屋で夕飯を取りながら、小百合は直人の様子がいよいよおかしいと思うようになった。近頃はなくなっていた、かつての取っつき難い雰囲気があって、話しをするのはためらわれた。小百合がそんなことで喋らないものだから、実に静かな食事風景だった。
 ホテルに着いたら、直人の話とは違っていた。直人は二部屋取ってあった。
「三階の方がいい部屋だから、あんたがこっちを使え。俺は二階だ。部屋の前まで一緒に行ってやるよ」
 直人は部屋のキーを渡しながら言った。
 小百合は納得していないような様子を見せていた。
「朝のうちに言っておけば良かったな。何も急ぐことはないと思ったんだ」
 小百合にはそれは下手な言い訳に聞こえた。
 本当にそう思っているのなら、なんで私から目を逸らしながら言うのよ。
 小百合はそう思い、すっきりしないものを感じながら三階の部屋のドア前まで来た。
「今日はつき合ってくれてありがとう。楽しかったよ。それじゃあ、また明日。お休み」
「待って!」
 小百合は去りかけた直人の手首を咄嗟に掴んでいた。
 僅かな間を置いて、ゆっくりと直人は振り返った。決して機嫌が良いとは言えない小百合の顔があった。直人は困ったように顔を顰めると、
「やっぱり不満だったか……」
 と、わかっていたような口調で言った。
「それもちょっとあるけれど、それよりも心配なのよ。今日の紺野君、絶対おかしいもの。なんだか、どんどん以前の紺野君に戻って行くようでたまらないのよ。ねえ、何があったの?」
 直人は眉根を寄せた思案顔で、あらぬ方へ視線を落としていた。
「なんで目を逸らすの? 好きって言われて、そばにいて欲しいって言われて、私、嬉しかったのよ。ずっとそう言ってくれるのを待っていたんだもの。それなのに今日の紺野君は、私から逃げているみたいだわ。何かわけがあるんでしょう。ちゃんと話してくれなければ、私、どうしていいのかわからないわ。こんなのってひどいよ!」
 痛いな、と直人は思っていた。異常なほど強い力で握られている手首もそうだが、それよりも小百合の言葉が心に突き刺さって来て痛かった。
 ドアの開く音がした。向こうの部屋から人が出て来た。
「何か話す気なら、入って……」
 小百合は言って部屋に入り、ドアを見詰めながら立ち尽くしていた。なかなかドアは開かなかった。最初で最後の旅行になってしまったような気がして、悲しくなって、目の奥が熱くなって来た。
「馬鹿」
 そう呟いた。潤んだ目から涙がこぼれた。その時、ドアが開いて直人が入って来た。涙を見られたくなくて、小百合は慌てて顔を背けると手の甲で目の辺りを拭った。
 直人には小百合が泣いていたのがわかった。一瞬苦い顔をして立ち止まり、そして小百合に歩み寄った。
 小百合は直ぐに彼の方を見る気にはなれなかった。
「俺、車は怖くない。怖いのはなくすことなんだ。神谷と約束したあとに、事故の時の夢を見た。父親が直人って叫んで駆け寄って来た。俺が最後に見た父親の姿だ。今の今まで目の前にいた人が、次の瞬間どこにもいなくなってしまった。俺にはそんな感覚がある」
 小百合は迷い迷いしながら首を動かした。目の前にいる直人は辛そうに眉根を寄せて、口元を震わせていた。
「あの日、父親と恐竜展を見に出かけた。楽しかった。途中で雨が降って来たけれど、何故か雨が楽しい気持ちを何倍にも膨らませてくれて、おとなしくなんてしていられなかった。父親の言うことも聞かないで、傘を振り回してはしゃいで走って、知らないうちに車道に出ていた。まだ、あの場所にはガードレールがなかった……。父親が死んでから、母親はいつも泣いていた。俺は泣いている母親に抱きつきたかった。あの頃はその気持ちを上手く言葉にできなかったけれど、抱いて慰めてやりたかったんだ。でも、泣かせたのは俺なんだからと思うと、そんなことをしてしまった自分が嫌で、こんな自分が母親に触れてはいけないんだと思って、どうすればいいのかわからなくなった……。父親のことも、母親のことも大好きだった。それなのに、父親は勿論、目の前にいる母親にも触れることができなくなってしまって、なくしてしまったと思った。なくすというのは、こんなにも悲しくて寂しいことなんだなって思った。だったら、誰とも関わりを持たずに一人でいれば、なくすものなんてないんじゃないかって思うようになった。それでも、神谷のお婆さんのように、どうしても心を許してしまうような人もいた……。そして……小百合に会った……」
 直人は訥々と話し続けた。
「俺は神谷のことが好きだよ。そばにて欲しいと思う。でも、手に入れた先にあるものは、なくすことだろう。それが怖いんだ。では諦めるのかと言えば、それはできない。触れぬ言い訳と逃げ道を用意して、適度な距離を置いてぎりぎりまで考えていた。俺から誘って、俺が望んだことなのに、神谷にはひどいことをしていると思う。夢のせいで色々思い返してしまって、神谷の言うとおり以前の俺に戻りかけている。気持ちが行ったり来たりしていて定まらないんだ」
 全身全霊をかけた告白だったのだろう。話し終えた直人の顔は土気色で、頬はこけ、目の下にはくまができていた。
 小百合は胸に込み上げてくるものがあって泣きたかったけれど、我慢していた。泣いている母親を見ていた直人の気持ちを考えると、ここで泣いてはいけないような気がした。それでも目の奥が熱くなって行くのは、どうにも止められなかった。追い詰められて行くような気持ちになって、頭に血が上って来た。そうしたら僅かに残っていた不満が急に膨らんで来た。
「臆病者!」
 小百合は思わず知らずそう叫んでいた。
「その通りだ……」
 直人は口ごもった声で言った。
 小百合ははっと我に返った。彼を労わるよりも自分の感情を優先させてしまったことが情けなくて、涙が溢れて来た。
「ご免なさい……こんなことを言うつもりじゃなかったの……」
 小百合はしゃくりあげながら言った。
「全部俺が悪いんだから、何を言われても仕方がない。俺、どうしたらいいんだ……」
 直人は生気のない表情で呟いた。
 彼はひどく寒そうにしていた。小百合にはそう見えた。暖めてやらなくては、とふっと思った小百合は、彼の身体に両腕を回してぴたりと頬をつけると少し考え、そして言った。
「休めばいいのよ。紺野君、慣れようとして頑張っていたんでしょう。それで疲れたから、そんな風に色々考えちゃったのよ。こうしていてあげるから、ゆっくり休んで」
 直人から返事はなかった。しかし、離れて行く様子もなかった。
「お婆ちゃんが亡くなった時、私、悲しくて寂しかった。それは、私がお婆ちゃんのぬくもりを知っていたから。お婆ちゃんは私にたくさんのものをくれた。お婆ちゃんがいたからこの身体があるんだし、お婆ちゃんが与えてくれた想いは私の中で生きている。私はお婆ちゃんからもらったものを、誰かに伝えたいって思うの……」
 小百合は独り言のように呟いた。
 祖母の想いを伝えたいのは、まだ生まれぬ生命。それがこの人の命を受け継いだ者であればいい。
 そう思いながら小百合は両腕に力を込めた。
「紺野君にもお父さんからもらったものがあるでしょう?」
 少ししてから、「あるよ」と直人は呟き、小百合の背中に腕を回した。
 それから暫く静かな時間が流れ、おもむろに直人が言った。
「小百合はあったかいな。こうしていると、臆病が治って行くような気がする……」
 腕の中で小百合が頷くと、直人は愛しそうに目を細め、彼女の頬に手を添えた。





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