ぬくもりの記憶 11(回想編)


 大学生の時だった。神谷小百合は紺野直人と初対面の折、彼の傲慢な態度に不愉快な思いをさせられた。これが尾を引いて、小百合は彼の顔を見るのも疎ましかった。ところが、冷たい雨の中で、小百合はこれまで知らなかった彼の顔を見てしまった。それが、彼に対する彼女のこれまでの想いを一蹴した。それは、彼女にとって彼との新たな出会いとも言えた。彼女の心の中に、彼に近寄りたいという気持ちが芽生え始めた。

 直人があんこ好きと知った小百合は、お汁粉を食べに行かない? と彼を誘った。すると、今日、行こうか? というこの上もなく嬉しい返事が彼から返って来た。一気に世界が薔薇色になった小百合は、
「行く。今日行く。紺野君とお汁粉を食べに行く!」
 と大きな声を張り上げた。
「さっきも言ったが、もう少し静かに喋れないのか……。あんた、今日は何時限まであるんだ?」
 直人の言葉に、小百合ははっと気がついたように腕時計を見た。
「もう三時限目が始まっちゃっているけれど、大丈夫。あの講師の先生、三十分の遅れまでは出席にしてくれるから、気にしないでいいわよ。申し訳なさそうに小さくなって静かに入るわ。紺野君は授業ないの?」
 小百合は調子に乗ってべらべらとまくし立てた。
「あんた、俺の質問を無視しているな」
 直人は言って、小百合をじろりと見た。
「そんなことはないわ、今のは前置きよ。授業は四時限までです」
「前置きが長過ぎる。もう一度言うが、その口の軽さと声のでかさを自覚しろ」
「わかりました……。あの、紺野君は授業は……それとお汁粉……」
「授業は、この時間はない。汁粉は、ちゃんと食べに連れて行ってやるよ。四時限目が終わったら、ぶんぶんちゃんのところで待っている」
 直人が糞真面目な顔で言った。
 小百合は咄嗟に息を止めて顔を伏せると、絞り出したような掠れた声で「はい」と答えた。
 ぶんぶんちゃんというのは、大学の校門を入って直ぐのところにあるテニスラケットを持った女性の等身大の銅像のことである。台座を含めた高さは約二・五メートルで、銘板には『挑戦』とある。これが夜中にラケットをぶんぶん振り回して大学構内を走り回るという怪談めいた噂があって、それでぶんぶんちゃんと呼ばれている。
 精巧な磁器人形を思わせる綺麗な顔をしている直人が、その顔を崩すことなくぶんぶんちゃんと口にした。小百合には、彼の顔にぶんぶんちゃんはあまりにも不釣り合いな発言に思われて、そのアンバランスさがおかしくてたまらなかったのだ。彼女は声を上げて笑いたかった。しかし、そうしてしまったら、矢麦君曰く、冗談が通じない代表格の紺野君、は機嫌を損ねるかもしれない。そして、お汁粉を取り止めにしてしまうかもしれない。それに、口が軽い声がでかい、と言われたのも頭にあって、小百合は笑いたいのを必死になって堪えた。
「それじゃあ、あとでな」
 直人の声が聞こえ、立ち去る気配がした。
 小百合は顔を上げた。直人は研究室の中に入って行った。
「さあ、行かなくっちゃ」
 小百合は心を弾ませながら、授業の行われている教室へ急いで向かった。

 四時限目の授業が終わった。小百合はぶんぶんちゃんのところに向かった。自然に早足になっていた。ぶんぶんちゃんが見えた。直人の姿も見つけた。彼はぶんぶんちゃんのそばで立ち止まった。
 小百合は、紺野君、と呼びかけようとしたものの止めて、小走りで彼に近づいて行った。彼も小百合に気づいたようだった。
「お待たせ。私、急いで来たのに、紺野君の方がちょっと早かったのね」
 小百合ははしゃぐ心を抑えて、普通の口調で言った。
「講義が五分早く終わった。ついて来い――」
 直人は、綺麗だけれども無味乾燥な顔でぶっきら棒にそう言うと歩き出した。
「紺野君も、四時限までだったの?」
「いや。五時限目の教授は出席じゃなくて試験やレポートで評価するから、今日は出なくてもいい」
 直人はすいすいと進んで行く。
 小百合は、彼の背中を見ながらとことことついて行った。並んで歩きたいのだが、追いつけないのだ。実は、お汁粉を食べられるお店なら大学から割と近いところにあった。しかし、そのお店は進行方向とは逆方向だった。彼女はそれを言おうか言うまいか考えていた。
 すると、直人がタクシーを止めた。
 小百合は、なんでタクシーなんて? と思って突っ立っていた。
「早く乗れ。タクシー代は俺が出すから、安心しろ」
 タクシーのシートに座った直人にそう急き立てられて、小百合は戸惑いながらタクシーに乗り込んだ。
「幕田駅に有料道路を使って行って下さい」
 直人は運転手に言って、
「時間があれば電車を使うんだが、もう四時を過ぎている。一時間も待っていられないだろう。有料道路を使えば二十分で着く」
 と、小百合に言った。
 幕田駅というのは、大学の最寄り駅から一時間に一本の割合で出ているローカル線の駅のひとつだった。
「幕田駅近くにある文左衛門という釜飯屋、わかりますか? ――そこに行って下さい」
 直人はまた運転手に言った。
「紺野君、何をする気なの?」
 小百合は訝しく思って訊いた。
「汁粉を食べに行くんだ。言い出したのはあんただろう」
「でも、今、釜飯屋って言ったわよね」
「行けばわかるよ。――口から先に生まれて来たようなあんたに、二十分間も黙っているという高度な芸当が果たしてできるかな」
 直人は小馬鹿にするような口調で言った。
 そのくらいできるわよ、と小百合は心の中で言った。どうやらこれは彼の奢りらしいが、それにしてもお汁粉を食べるのに、タクシーを使って有料道路を走って行くなんて考えてもいなかった。彼のこの突飛な発想に、小百合は恐れ入った。
 二人の間にはそれぞれの鞄が置かれてあって、それが一人分の席を占めていた。
 タクシーが止まった。
「ここなの……?」
 タクシーを下りた小百合は、古民家らしい建物を見上げて言った。力強く風格のある外観を作り出す出桁(だしげた)造りの屋根に匠の技が窺える、有形文化財にでも指定されそうな建物だった。『釜飯と団子・文左衛門』と書かれた看板があった。
「ここの主人は元材木屋で、古民家の解体もしていたんだ。それが、この建物を気に入ったとかで、この場所に移築して天井や柱を生かして改装して、材木屋は息子に任せて釜飯の店をほとんど趣味で始めた。釜飯もなかなかのものだが、とにかく汁粉が美味いんだ」
 直人がそう説明すると、小百合は「へえー」と感心したような声を漏らした。
「随分詳しいのね。良く来るの?」
「これは、紺野の祖母の実家が所有していたんだ。店舗を兼ねた住宅として使われていた頃に何回も行っているし、泊まったこともある」
「なるほどね……」
 小百合はちょっとした感動を覚えながら建物を眺めた。
 直人は年代物の引き戸を開けて店内に入って行った。小百合も興味津々であとに続いた。
 入った途端、ここは駄菓子屋か、と小百合は目を白黒させた。
 出入り口付近には、木製のだるま落としに輪投げにけん玉、万華鏡にしゃぼん玉、スーパーボールに組み立てヒコーキ、ジェット風船に紙風船、ビー玉、おはじき等など。それと一個十一円、二十一円、三十一円と値段がついているお菓子。それらがお祭りの屋台風に並べられていた。お勘定場に『七福神団子』の貼り紙があった。小百合は、どんなのかしらと思って見に行った。小ぶりな団子が四つ連なった串団子七本それぞれに、ごま、みたらし、ゆず、うめ、うぐいす、くり、よもぎの餡がかかっていた。大きめな団子でみたらし餡だけや、あずき餡だけでひとパックになったのもあった。
 格式の高い格天井(ごうてんじょう)の昭和初期を彷彿させる和風レトロの店内には、骨董品だか、ただの古道具だかわからないものが無秩序にたくさん置かれてあった。
 土間にはテーブル席もあったが、直人は当たり前のように板の間の方に行くと靴を脱いで上がった。
 小百合は店内を一通り見回してから靴を脱いで、長年使い込まれたらしい卓袱台の前に、家で寛ぐような感じで座っている直人の向かいに腰を下ろした。
「面白いだろう」
 直人が言った。
「そうね――」
 小百合は応えた。ここに着いた頃から、彼の目つきは柔らかくなっていた。目の前にいる彼の雰囲気は、墓地で祖母と話していた時のものに似ていて、親しげでいい感じだった。小百合は彼の雰囲気を壊したくなくてそう応えていた。
 直人は、してやったりというような笑みを口元に浮かべた。
 こんな笑顔らしい笑顔を向けてくれたのは初めてだわ、と小百合は感激して嬉しくなった。
 店員がやって来て、お茶と小さなお団子を出してくれた。お団子は小皿に三個乗っていて、直人に出されたのにはみたらし餡、小百合のにはおそらくゆず餡がかかっていた。
「汁粉でいいか?」
 直人は小百合にお品書きを手渡しながら訊いたが、小百合はお品書きに目を通さないで直ぐ様「うん」と答えた。
 直人はお汁粉を二つ注文した。
 小百合はお団子を一個口に入れた。やはりゆず餡で美味しかった。直人もお団子を一個口に入れた。
「こっちはゆずよ。こっちのも食べてみる?」
「それはあんたのだから、いらない」
 直人は言って、続けざまに自分の分のお団子を二個口に入れると文庫本を取り出した。
 小百合はお団子を食べ終えると、
「ねえ、こういう昔風なところが好きなの?」
 と訊いた。直人は答えなかった。本に集中していて聞こえていないように見えた。しかし、小百合は思った。
 男の人の耳って、都合良く聞こえなくなるのよね。お父さんがそうだもの。お昼の時にも読んでいたけれど、宮川賢二が好きなのかしら。
 小百合は仕方がなくてお品書きを黙って眺めていた。
 お汁粉が運ばれて来た。
 小百合はお汁粉を食べながらも気になって、ちらりちらりと直人の様子を窺っていた。彼はお汁粉に頭のてっぺんまでどっぷり浸かっている感じで、生き生きとした嬉しそうな顔をして食べている。お昼の時の涼しい顔とは大違いだった。綺麗で精巧な磁器製のお人形のイメージは見事に崩れて、いかにも人間くさかった。
 いつもこんな顔をしてこんな風にお汁粉を食べているのかしら……?
 小百合はそんなことを考えていた。
 お汁粉を飲み干した直人は、自家製と思われる漬物を食べてお茶をすすった。
「美味いだろう」
 直人が言った。彼の表情には甘くて暖かいお汁粉の余韻が残っているようだった。いつもの冷え冷えとした感じはなく、ぽかぽかした感じがする。
「ええ、美味しいわ。この味を知っているのなら、ここに食べに来たくなるわね」
 小百合は言った。本当に美味しかった。今度、祖母を連れて来てあげようと考えていた。
 直人は機嫌の良さそうな顔をしていた。
「紺野くんは、こういうところが好きなの?」
 小百合はもう一度訊いてみた。
「ああ、好きだ」
 直人は、今度は素直に答えた。
「ここには良く来るの。その時は電車?」
「そこそこ来る……。電車の時もある……」
 彼は今度も一応答えた。
「誰と来るの。やっぱり矢麦君?」
 小百合は彼しか思い浮かばなかった。
「もういいだろう。冷めないうちに食べてしまえ」
 直人はつっけんどんにそう言うと、また本を読み始めた。
 こんな風に彼が相手にしてくれないことには慣れていたはずなのに、小百合は妙に悲しくて辛かった。
 店員がお茶を淹れ直してくれた。
「紺野君、お茶飲む」
「ああ」
 小百合が湯呑みを取りやすそうな位置に置くと、直人は本から目を離さずに手を伸ばして湯呑みをぐっと掴んだ。
「あつっ!」
 直人はたまげたような声を上げると、湯呑みを倒してしまった。
 小百合は板の間の上から身を乗り出して調理場の方に向かって、
「すみませーん、こぼしちゃったんで布巾を貸して下さーい!」
 と大きな声を出した。
 店員が来て、大丈夫でしたかと言って、卓袱台の上と床を拭いた。直人はジーパンを自分のハンカチで拭いていた。
「大丈夫だった?」
 小百合も言った。
「少しかかっただけだ」
 直人はハンカチをポケットに突っ込んだ。
「新しいお茶をお持ちします」
 店員が言った。
「いえ、もういいです」
 直人は断ると、
「食べ終わったのか」
 と小百合に言った。
「終わったわ。ご馳走様でした」
「それじゃ、行くか。確か、五時半くらいの電車があるはずだ。――おい」
 直人は立ち上がると、意味ありげな目で小百合を見た。
「何?」
 小百合はどきっとして目を見開いた。
「ご馳走する気はない。自分で払え」
 直人はしっかりはっきり言った。
「はい……」
 小百合はがっかりした声で返事をした。と、床の上に文庫本があるのに気がついた。
「紺野君。本を忘れている」
 小百合は文庫本を手にしながら言った。
「おう。忘れていた」
 靴を履き終えていた直人は、今思い出したような顔をして文庫本を受け取った。
 この人って案外抜けているのかも……。
 小百合はそう思った。
「別々に会計して下さい」
 直人がお勘定場で言った。
 でも、しっかりしているところはしっかりしているのね……。
 小百合はそう思いながら財布を取り出した。
 直人は七福神団子を買うと、
「お婆さんに渡してくれ」
 と、それを小百合に差し出した。
「ありがとう。紺野君からだって言ったら、お婆ちゃんびっくりして、心臓が止まっちゃったりして」
 小百合は言いながら団子を受け取った。
 その時、直人は眉を顰めた。それに、彼からお土産をもらってすっかり舞い上がってしまっていた小百合は気がつかなかった。
「五時二十七分の電車がある。駅まで歩いて五分くらいだから間に合う。これで帰ろう」
 直人が、お勘定場に貼られてあった時刻表を見て言った。
 店の外に出ると、太陽は既に沈んでいたが、空はまだ明るかった。
「逢魔が時……」
 小百合がふと呟いたら、直人が、
「怪しいものに出会うには、まだ時間が早いだろう……」
 と呟いて、一瞬二人の視線が交わった。
 大学の最寄り駅までの電車代は、小百合の分も直人が出した。
 クロスシートに並んで座った。
 小百合は電車の揺れに身を任せていた。そうしていると、時々肩が直人に当たるのだ。
 直人が喋らないのは勿論だが、小百合もほとんど喋らなかった。





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