ぬくもりの記憶 10


 神谷小百合の恋人・紺野直人が、二週間の予定で、北の方に一人旅立ってから一週間経った。
 これまで、直人からなんの音沙汰もなかったが、便りのないのは良い便りでもある。仕事の緊張から解き放たれて、青い空を漂い行く白い雲の如く、風が吹くのに任せてのんびりと過ごしているのだろう、と小百合は思っていた。
 ところが、直人に小さなアクシデントが発生していた。そして、直人当人はおそらくそのことに気がついていないだろう、と小百合は思っている。
 小百合はとにかく直人に連絡を取りたかった。携帯電話を持たない彼への連絡は、彼の書いたメモを頼りに宿に電話をするしかないのだが、なんと彼は宿の電話番号を書き間違えていた。小百合は宿名から電話番号を調べて宿に電話をかけたが、彼はまだ宿に着いていなかった。
 小百合宅に電話をするよう、小百合は宿の人に伝言を頼み、今か今かと直人からの電話を待っていた。

「もう夕方を過ぎたのに、何をしているのかしら……」
 小百合はなかなか電話が来ないことに気を揉みながら呟いた。それからテラス窓の厚手のカーテンを閉めると、気だるそうにベッドの上に横たわって枕を抱え込んだ。
「直人……」
 くぐもり声で言うと、瞼を落として枕をぎゅっと抱き締めた。小百合は直人の肌の匂いや体温を思い出していた。
 雷鳴がひとつ轟いた。
 小百合はびくっとして瞼を上げると、外の音に耳を澄ませた。雨音と、遠くに雷鳴を数回聞いた。こっちに来るかしら、と考えた。
 雨はそれなりに降り続いていたが、雷はもう鳴らなかった。
 小百合はほっとしたような、つまらないような気持ちで身体を起こすと、髪の毛の乱れを指で直した。
「ほんとにどうしちゃったのかしら……」
 困り果てたように呟くと、ベッドから下りてキッチンへ向かった。キッチンでコーヒーポットに水を入れ火にかけて、換気扇を回した。直人用のマグカップに透明なプラスチックのドリッパーを乗せて、ドリッパーにフィルターをセットした。フィルターにコーヒーの粉を入れて、ぼうっとコーヒーの粉を見ながらお湯が沸くのを待っていた。
 固定電話が鳴った。
 小百合は、考えるよりも先に身体が動いて火を止めていた。手がドリッパーに当たって、ドリッパーが落ちて横倒しになり、コーヒーの粉が散らばったのだが、小百合はそれには構わないで居室に戻って、右手で受話器を奪い取るようにして持った。直人からだという確かな予感があった。
「はい」
 気持ちが高ぶっていた小百合は、上擦った声で言った。
<俺だ――>
 果たして電話をかけて来たのは直人であった。
<電話を寄越せだなんて、何かあったのか?>
 直人は言った。不安を感じているような口調だった。
 小百合は思わず左手も受話器に添えて、受話器を抱くようにして耳に当てていた。彼女は彼を抱いているような、彼に抱かれているような気がしていた。甘い喜びで心がいっぱいになって、返事をするのを忘れていた。
<もしもし、そちらは神谷さんのお宅でしょうか……?>
 受話器から戸惑っているような直人の声が聞こえて来た。
 小百合は受話器を耳に当て直した。
「私よ、直人。なかなかかかって来ないから、何をやっているのよって、待つのも限界に来ていたわ」
 小百合はすげなく言った。しかし、彼女の顔には澄んだ瑞々しい笑顔が浮かんでいた。それは、まるで水面から花茎を高く立ち上げて空気の澄んだ早朝より開き始める蓮の花を思わせる笑顔で、優しく甘い香りさえ感じられるものだった。
<お前こそ、何をやっているんだ。かけ間違えたかと思った――。なあ、宿に電話をして来るだなんて、もしかしてお前、体の具合でも悪いのか。それとも何か事故にでも遭って怪我をしたのか。よっぽど酷い怪我なのか。神谷のお母さんとか紅葉さんとか、鈴木さんとか、誰かそばにいるのか――>
 直人の口調は、だんだん急き込んだものなって行った。
「それだったら、直人に連絡しても、仕方がないでしょう」
 小百合は、これといった考えもなく言った。
<仕方がないって言い方はないだろう――!>
 直ぐに怒気を含んだ声が返って来た。
「だって、今の直人じゃ、なんにもできないじゃない!」
 小百合は、ついむきになって言い返してしまった。
<なんにもできないって、なんでそう決めつけるんだ。俺は世界の果てにいるわけじゃないし、こんな気晴らし旅行なんていつだっていいんだ――。知ったら、俺がどうすると思う? 知らせてくれない方が辛いってことが、わからないのか――>
 直人の口振りからは、切ないほどの真剣さが伝わって来る。事情がわからなければ、彼の性格ならこんな話の流れになるのも当然だと思いながら、小百合は聞いていた。
「ご免なさい、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。何かあったら真っ先に知らせるのは直人だって、わかっているわ――。でも、電話をしたのは、私に何かあったからじゃなくて、あったのは直人の方なのよ」
<俺……?>
 直人は怪訝そうに呟いた。
 やはりこの人は気づいていない、と小百合は断定した。
「今日、図書館に行ったのよね――」
 小百合は電話のコードを指に絡めながら遠回しに切り出した。
<何で知っているんだ?>
 そんな少し笑いを含んだ声が返って来た。
「そこで免許証を落しているのよ。図書館の人がわざわざ会社に連絡をしてくれて、それで矢麦君が私に知らせてくれたの――」
<免許証だって……あれ……あ……? ちょっと待っていろ>
 コトン、と受話器を置いたと思われる音が聞こえた。
 小百合は受話器の向こうでしている音をひとつ残らず聞き取ろうとして、受話器を両手で包み込むように持って耳をそばだてた。ザワザワという人の声と、ゴトン、カタン、トットットッなどという正体不明な音が聞こえて来る。
 見えないし、聞こえて来る音もどれが直人のものなのわからないが、彼のやっていることならだいたい察しはつく。服のポケットの中を探ったり、上から叩いてみたり撫でてみたり、リュックの中を覗いてみたり。でも、免許証は見つからないので、床に胡坐をかいて座り込んでリュックの中をかき回す。真剣な顔つきでポケットとリュックの中を、「ないない」と言いながら何度も探す。声も動作もだんだん大きくなって行って、周りの人から奇異なものを見る目で見られていることだろう。そう思いながら受話器を耳に当てていると、直人の声らしきものも聞こえるような気がする。
「いくら探しても無駄なのにね」
 小百合は呟くと、首を竦めてくすりと笑った。
<もしもし、小百合。どこを探しても免許証が見当たらないんだ……>
 直人の弱り切ったような声が受話器から聞こえて来た。
「落したのに、あるわけないでしょう」
<図書館にか……>
「そうよ――。免許証入れの中に名刺が入っていて、それで会社に連絡が行って、それを矢麦君が受けたの」
<会社で健介が……。今日は日曜だよな。あいつ、なんで会社にいたんだ?>
「直人だって忙しい時は休日返上で働いていたでしょう。それを今日は、矢麦君がやっていたの。矢麦君に仕事を任せたんでしょう。それで彼、大変なことになっているらしいわよ」
<おい、俺のせいみたいなことを言うなよ。あいつの手際が悪いだけだろう>
 非常に横柄な口調で、そう返って来た。
 途端、小百合はきゅっと眉を寄せた。彼女は耳から受話器を離すと憮然たる面持ちで受話器を眺めながら、自分のことは棚に上げてよくもそんなことが言えるわね……、と思った。
<小百合――。どうした、いるのか?>
 受話器から直人の声がした。
 小百合は、彼の鼻を思い切りつねってやりたかった。しかし、残念ながらそれはできない。帰って来たらやってやる、と思いながら、顰めっ面で再び受話器を耳に当てた。
「そんな言い方は、矢麦君に失礼でしょう――。矢麦君が会社にいてくれたお陰で、早く連絡が取れたのよ。ありがたいとか助かったとか言うべきでしょう――」
 小百合はたしなめるように言ってから、
「それでね、七時までは図書館で免許証を預かってくれるそうなの。それを過ぎたら警察に届けます、とそういうことです」
 と、ゆっくりはっきり伝えた。
<お前、まだ俺と健介のことがわかっていないな……。免許証のことはわかった。それで、図書館の電話番号は?>
「そんなの知らないわよ」
<おい、なんだそれは――>
 直人は呆れたような馬鹿にしたような口調で言った。
<連絡を取るためには大事なこと、基本中の基本だ。まったく、肝心要の時に役に立たない奴だな。そんな中途半端なことばかりしているから、お前はいつまでも下っ端なんだ>
 それはなんとも傲慢な言い方だった。
 これに小百合の片頬がひくっと引き攣った。
 小百合は、
 それは直人のことでしょう――! 
 と、心の中で叫んだ。
 私がどうしていたかも知らないくせに、こいつはあー……! 
 と、恨めしさと腹立たしさを胸中に渦巻かせながら思った。
 電話番号を書き間違えていたことを言ってやりたいところなのだが、それを言ったら、彼は自分を正当化しようと躍起になるだろう。結局、水掛け論になりそうな気がする。今はそんなことをやっている場合でもないので、言うのを我慢した。
「あのねえ、免許証を落としたのは直人でしょう。電話番号は自分で調べるから、くらい言えないの」
 小百合は言い争いにならない程度にちくりと言って、
「それと矢麦君が――」
 と言いかけたのだが、
<奴の話だったらあとにしてくれ!>
 と、直人にぴしゃりと遮られた。彼の声には妙な迫力があった。
<免許証が先だ。場所は図書館、タイムリミットは七時。それでいいんだな!>
「うん、それでいいのよ……」
 小百合はそれしか言葉が出て来なかった。いつの間にか直人が話の主導権を握っていた。
<微妙な時間だから、これから図書館に連絡を入れるよ。急ぐから、もう切るぞ。あとで俺の方からかける。以上>
「ちょっと待って直人、まだ……」
 小百合はそう言ったのだが、受話器からはツーツーツーという音がしていた。
「ああー、切れちゃったあー……」
 小百合は身も世もないような声を出した。まだ話は残っているのにと思ったが、もうどうしようもなかった。小百合は受話器を戻すと、がくっと項垂れた。そして、嫌みったらしく小声で、
「威張り屋……」
 と言った。それから、だんだん声を大きくしながら、
「高慢ちき……横暴、気まぐれ」
 とも言った。さらに、
「傲慢、天狗、どじ、間抜け、むっつり、根暗あー!」
 と悔しさを吐き出すように声を張り上げ、
「帰って来たら鼻をぎゅっとつまんで捻って、頬っぺたをむにゅむにゅびっろーんってやってやるうー」
 と言って、両の拳をぐっと握り締めた。
「ふう……」
 小百合はひと息吐いた。あまり気分が宜しくなかった。一人ではいくら騒いでもすっきりしない。小百合は誰か話し相手が欲しかった。親友の鈴木智子にしようかな、と思った。が、自分と同じく直人からずけずけものを言われている矢麦健介の方がいいかな、とも思った。お互い直人には振り回されているものね、と健介のことを考えたら、不意に、健介から言われた言葉を思い出した。確か、大学卒業後、新緑の頃に街で偶然健介に会った時のことだったと記憶している。

『直人、どうやら脱け出られたようですね。これも神谷さんのお陰です。誰にもできなかったことを、貴女はやってのけた――』

「矢麦君は感心していたようだったけれど、私はそんなことをしてもらう覚えはないって思っていたわ。だって、自分のことしか考えていなかったんですもの――。あの人のことが好きになっちゃって、どうしたらあの人に届くのかわからなくて、勢いに任せて言葉をぶつけちゃっただけなのよ――」
 小百合は呟くと、遠い目をした。そうしてしばらくその場に佇んでから、キッチンに入った。流し台のカウンターの上に散らばっているコーヒーの粉を、どうしよう、使っちゃおうかなと思って見ていたら、ふと脳裏を掠めたものがあった。
「調べてみようっと」
 小百合はそう言ってにっこりすると、換気扇を止めてカウンターの上を片づけてから居室に戻り、ネットで調べ始めた。
「あった! 直人が連れて行ってくれたお汁粉屋さん。初めて直人と二人で行って食べたお汁粉……美味しかったわ」
 小百合は幸せそうな顔で思い出していた。そうしたら、また脳裏を掠めるものがあった。
「お婆ちゃんの写真――」
 小百合は立ち上がった。





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