落花流水 9


 同窓会当日の朝。
 静馬は物音で目を覚ました。ガサガサ、バサバサと聞こえて来る。チチチ、チィチィチィ、チュルルと鳥の鳴き声もしていた。部屋の中は薄暗かった。
 すずめか、うるさいな……。
 静馬は思いながら布団の中で寝返りを打ち、うとうとと過ごしていた。
 室内はだんだんと明るんで行く。
 静馬はベッドの横に手を伸ばして時計を掴み、時計上部のボタンを押してライトを点灯させた。平日の起床時間を過ぎていた。
 同窓会は午後四時からである。その二時間前に孝明と会場のホテルで落ち合う約束をしていた。
 まだ時間的には余裕があったが、静馬はベッドから起き上がった。
 北側の出窓には雨戸はついていなかったが、東側の窓にはついていた。
 隙間から光が差し込んで来る雨戸を静馬は開けた。眩しいくらいのいい天気だった。
 庭ではすずめが二羽、穴にすっぽりと入り込んで砂浴びをしていた。羽をばたばたさせるたびに、砂が飛ぶ。
「可愛いな」
 静馬はほっとした表情ですずめの様子を眺めていた。
 すずめは鳴き交わしながら木の枝から枝へ飛び移っていたかと思ったら、どこかへ飛んで行った。
 静馬は空を仰ぎ見た。太陽は白く輝き、紺碧の空にちぎれた真っ白い雲が浮かんでいる。
「ついに今日になってしまったな……」
 静馬は呟いた。綾乃に会いに行くことができないまま今日まで来てしまったという気持ちと、彼女に会うのを避けることができない今日という日に狙いを定めて待っていたのだという気持ち。その二つが入り交じっていた。
 窓辺に立って煙草に火を点けた。紫煙を吐き出しながら綾乃を思った。
 瑞々しい若葉のような人だった――。
 そういう風に綾乃を想い返した。すると、
 ――――静馬が大好き。
 どこからともなく綾乃の声が聞こえて来た。彼女の笑顔が瞼に浮かんだ。笑うとふっくらした両の頬にえくぼができる。あどけない少女のような無垢な笑顔だった。
 が、別の方向からもまた、彼女の声が聞こえて来た。
 ――――触らないで!
 彼女の笑い顔は真っ二つに引き裂かれ、痛々しい泣き顔が現れた。
 ――――静馬が怖い!
 叫び声と共に彼女は消えて行った。
「俺もお前が怖いよ……」
 そんな言葉を静馬は小さく漏らしながら灰皿に灰を落とし、瞼を閉じた。
 何故、あの時彼女を追いかけなかったのか。そうしていたら違っていたのだろうか。済んだことを考えてもせんないことだが、それでも考えずにはいられない。
 たくさんの楽しかった思い出があるはずなのに、それらをひとつの辛い思い出が覆い隠し、それのみが重くのしかかって来て、苦しくて進むことができなくなる。
「怖いんだよ……」
 そう口にしながら、瞼を開いた。
 愛しいからこそ、男として彼女を愛した。それが彼女を傷つけてしまったのだけれども、今も彼女を愛している自分は、やはり男として彼女の前に立つことしかできない。その時、どこまで平静でいられるのだろうか。それを考えると、静馬には絶対に自分を見失わないでいられるという自信がなかった。
「だけど……」
 煙草を咥えた。気持ちが静まって行く。
 今日は、逃げて行ってしまった綾乃の方から来てくれるのだ。
 そう心の中で自分に言い聞かせた。
「だから、俺ももう逃げない。お前と向き合うよ」
 静馬は煙草を灰皿にぎゅっと押しつけた。
 綾乃が与えてくれた最初で最後の機会のような気がする。静馬はこの機会を無駄にはしないと固く決心した。

 静馬がリビングキッチンに入ると、祖父は朝食を済ませて新聞を読んでいた。
 椅子に腰を下ろした静馬に、お登美さんがお茶を出しながら、
「直ぐ召し上がりますか?」
 と訊いて来た。祖父が、
「昔、二人でよく行ったポートタワーがリニューアルオープンされたそうだ。これに載っている」
 と言って、新聞を静馬に差し出し、
「静馬と出かけるなんて、もうずっとなかったな」
 とも言った。
「そうだっけ? 言われてみれば、久しぶりかもしれないな――。なあ、爺さん。混んでいるかもしれないが、それでもいいんなら、ここに寄ってからホテルへ行こうか」
 静馬は新聞に載っているタワーの写真を指差した。
 十一時頃、静馬はスーツを、祖父は濃紺の着物に枯れ草色の袖なし羽織を着て家を出た。二人をお登美さんが見送っていた。
 思っていたとおり、タワーは見物客で混雑していたが、それでも海洋展示室を見学し、展望室から360度の大パノラマを楽しみ、展望喫茶室で景色を眺めながら昼食を取って、と二人は満足なひと時を過ごしたのち、ホテルへ向かった。
 前方に優雅な雰囲気の漂う白亜の建物が見えて来ると、
「あれだよ」
 静馬は歩きながら指で指し示した。
「わしは、あそこに入るのは初めてだ」
「俺も今回のことで初めて入ったよ。あそこは孝明の勤め先の関連会社が運営していて、だからあそこでやることにしたんだが、それもあって、この同窓会は、ほとんど孝明が仕切っている。ほんと仕切るのが好きな奴だ」
 静馬はそう言うと、ちらりと時計に目を落とした。二時少し前だった。綾乃のことが脳裏に浮かんで来た。
 今頃何をしているんだろうか……。
 静馬は考えてみた。
「わしが諸岡君と最後に会ったのは、いつだったか……」
 祖父の言葉が、静馬の頭の中を切り替えた。
「俺に隠し事を作った日じゃないのか」
 静馬には、祖父と孝明にしてやられたという思いがあった。
「別に隠し事をするとか、そんなつもりはなかった。だがな、諸岡君が、静馬には頼みたいことがあるので自分が話すと言ってな、彼にも手順があるようだったので、狂わせては悪いと思って協力しただけだ」
「それで俺に黙っていたんだから、それを隠し事と言わないでなんて言うんだ」
 そうして、祖父は何かおもしろいような、静馬はどこか苦々しいような様子でホテルの中へ入って行った。
「爺さん、足元に気をつけてくれ。滑って転んで骨でも折った日にはもう終わりだ」
 静馬はそう言いながら、我ながらなんとこうるさいんだろうと自分で嫌になった。
 祖父は足を止めると、
「絨毯が敷いてあるだろう――。どうも考えすぎるというか、気にしすぎるというか、お前らしくなくなっているぞ――」
 言いながら静馬を見上げて来た。
 静馬は痛いところを衝かれたと思っていて、それで不機嫌な顔になっていた。
「静馬や、春秋に富むという言葉を知っているか? お前は年が若く、この先が長い。もっと積極的に打って出て、経験を積まなくてはいけない。それが、どうもお前は守りの姿勢に入っているようだ。すっかり縮こまってしまって、全くお前らしくない……」
「今は春でも秋でもない」
 静馬ははぐらかすように言った。
「そうだ。静馬は夏だ。挑戦の季節だ。わしはもう冬だがな――。おっ、夏がもう一人やって来た」
 孝明が姿を見せた。
 幹事である静馬と孝明は、会場の準備や担当者との打ち合わせがあった。
「わしはラウンジにいるよ」
「そうしてくれ。いいか、四階の若草の間で、四時からだ。開始時刻の三十分前から入られるから。ふらふらしないでおとなしくしていてくれよ」
 静馬は念を押すような口調で言うと歩き出した。
 それに続いて歩きかけた孝明だが、ふと思い立ち肩越しに振り返った。仕方ないというような顔をしている支倉教授が目に入った。孝明は教授の方に向き直っていた。
 教授が孝明に顔を向けた。そして意味ありげな含み笑いを見せた。
 孝明も笑いを浮かべ、教授に向かってひとつ頷くと、静馬のあとを追った。

 かつての同級生たちが集まり、再会を喜び合う。
 きらめいた季節を共に過ごした人は、脱皮して一回り大きくなっていた。鮮やかに変身したとも言える。
 お互いにそんな風に思いながら、懐かしさに顔を輝かせて声をかけ合い、話を弾ませる。そうしていると、変わったようで変わっていないとお互いに無性にほっとする。
 まだ開始前であったが、会場内は話し声と笑い声でざわざわして落ち着かない。
 受付を離れるわけには行かない静馬は、会場の外から中の騒ぎを眺めていた。中の熱気は外にまで伝わって来ていた。
 孝明から押しつけられた受付係りである。孝明と違ってサービス精神など皆無に等しい静馬は、こんな役回りは自分には合わないと思っていた。
 皆から言われることは、「久しぶり、教授は元気?」とほぼ決まっていた。訊く方は一度だが、答える静馬は何十回も同じことを言わなくてはならない。同じせりふの繰り返しに、もううんざりしていた。
 しかも、肝心な綾乃はまだ来ていない。
 ちなみに、祖父は綾乃の親友だった三田恵子、岩崎安代と一緒にやって来た。三人揃って現れたのを見た静馬は、自分と綾乃の話が出たのではないかと勘ぐってしまった。
 そんなこんなで今ひとつ気分の乗らない静馬の目には、会場内の騒ぎが白々しく映っていた。
 俺は何をしているんだろう……?
 静馬は疑問を感じ始め、砂を噛むような思いをしながら振り返ろうとした。すると、女の姿が目に入った。
 静馬は目を瞬かせながらその場に立ち竦んだ。甘くも酸っぱい親しみ、切ない懐かしさが込み上げて来ていた。
 あの時もこうだった……。
 初めて彼女を見た時のことが思い出されて行った。
「綾乃……」
 自然に口からこぼれ出ていた。
 静馬の目は、だんだんとこちらに近づいて来る綾乃を捉えている。
 綾乃はベージュ色の柔らかな感じのフェミニンなスーツと襟元の開いている白いブラウスを着ている。学生の頃よりも体つきがほっそりして、大人びた印象、落ち着いた雰囲気があった。
 綾乃は優しい表情を見せながら、とうとう静馬の傍らにまで歩み寄って来た。
「お久しぶりです」
 柔らかい口調で言い、微笑みかけて来た。
「ああ、久しぶりだな――」
 つられたようにそう返しながら、静馬は綾乃と向かい合った。以前と同じに綾乃の両の頬にはえくぼができていた。ふっくらとした唇は薄桃色に染められていた。
 目にしている綾乃の全てが、もう一度二人の時間が始まるような予感を静馬にもたらしていた。
 綾乃が口を開いた。
「静馬?」
「なんだ?」
「幹事だったわよね。会費は静馬に払えばいいのかしら?」
「ああ、こっちで頼む」
 静馬は、自分でも驚くほど自然体で話していた。こんな風に話せるなどとは思ってもみないことだった。この調子でもっと話しがしたいと思いながら受付テーブルについた。そして、
「来て――」
 と言いかけた。「来てくれて嬉しい。会いたかったよ」と言うつもりだった。ところが、それよりも早く、綾乃が、
「一万円だったわよね」
 と、左手でお金をテーブルの上を滑らせて寄越した。
 その時、静馬は、綾乃の左手薬指に指輪がはめられているのを見た。頭の中から一切の考えがすっと消えた。ただ、さっきからずっとそうしていたように差し出されたお金を受け取り、
「領収書を書くから……」
 と言っていた。
 参加者名簿に照らして、皆川綾乃、と領収書に書いた。それを綾乃の真似をして、テーブルの上を滑らせて彼女に差し出した。
 領収書に綾乃の左手が伸びて来て、静馬の手と僅かに触れ合った。それを静馬は見た。が、直ぐに手も視線も領収書から外した。
「ねえ、静馬?」
「なんだよ?」
「案内状の宛名が手書きだったけれど、あれは静馬の字よね。全員のを手書きにしたの?」
 これに静馬はどう答えるべきか迷いながら、綾乃の顔に目を当てた。彼女は凪の海のような平静な表情を見せていた。
 すっかり大人の女性になった――。
 静馬はしみじみ思った。綾乃だからこそ自らの手で書いたこと、それを真っ先に出したことをここで言うのは、自分を惨めにするだけのような気がして来た。
 彼女が隣町にいながら俺に会いに来なかったのは、彼女がもう俺を必要としなくなっていたためであり、俺に向けてくれた彼女の笑顔は表面的には昔と同じであっても、含まれている意味的には同じではなくて、俺の望む彼女の笑顔は、俺の知らない相手に向けられている。
 静馬にはそんな確信めいたものがあった。
 静馬は、どうこの場を過ごそうかと思案していた。そこに、
「支倉」
 という声が飛び込んで来た。
 静馬は咄嗟に声のした方を見た。綾乃も首を動かしていた。
 手を振りながらやって来る男性がいた。男性は、
「皆川さんじゃないか、久しぶりだね、元気だった。俺のこと、覚えてくれている?」
 と言った。
「青木さんでしょう。お久しぶりです」
 ほとんど間を置かずに綾乃は言った。
「青木、待っていたぞ」
 静馬は、助かったと思いながら言った。
「おっ、支倉の口から待っていたなんて言葉が出るとは、どういう風の吹き回しだい――。今までな、病院にいたんだよ。それがどうしてなかなか離れられなくて、女房に遅れると急かされて、やっと腰を上げたって感じかな。女房が、支倉によろしくと言っていた。来れなくて残念がっていたよ。今日は、三人分楽しむぞ」
「てことは……そうか、産まれたのか?」
「ああ、一昨日な。女の子だ」
「おめでとう、よかったな。お前が父親になったのか。――綾乃、大堀を覚えているか? 青木と大堀、結婚したんだよ」
「ええ、覚えているわ。――青木さん、おめでとうございます」
 綾乃はそう言うと、肩からかけているバッグの中に領収書を入れて、
「私、中に入っているわね」
 と言った。
 青木と話し込んでいる静馬は、軽く手を上げただけだった。
 綾乃は会場へ入って行った。
 静馬は綾乃のことを気にしつつも、見ないようにしていた。





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