落花流水 8


 屋上で、静馬はしかめっ面をして、フェンスを殴って痛む手を押さえていた。
 そのうち大きく息を吐き、丸めていた背中を伸ばし、やれやれという顔でだいぶ痛みの引いた手を擦り、指を伸ばしたり曲げたりしてみた。そうしていたら、鞄がそばにないことに気づき、しまったと思い、慌てて走り出した。
 鞄には重要書類が入っていた。それを静馬は屋上の床に置き、そこから離れて孝明と話していたのだ。その間、鞄には全く注意を向けていなかった。
 静馬は床にしゃがみ、厳しい表情で鞄の中身を確認した。どこにも異常のないことを認めると一先ず胸を撫で下ろし、次には隙を見せてしまった自分の甘さを痛切に感じて、こんなことだから孝明にいいように弄ばれるんだ、と悔しさが込み上げて来るのであった。
 静馬は鞄をしっかり持って立ち上がると、鋭く挑むような眼差しで孝明のいるビルを見据えながら、
「お前には負けない」
 と言い放った。それから空を仰いでぐるりと見渡した。
 頭上に広がる空は灰色を濃くして、先程までは明るく見えていた遠くの空も、今は薄暗い。
 静馬はある方角に顔を止めると、何かをさがし出そうとするように目を凝らした。
 それは綾乃の郷里の方角であった。高速を使えば車で二時間半で行けるところである。
「たかが二時間半、されど二時間半だ……」
 静馬は呟いた。この距離が近いとも遠いとも感じられて、いかんともしがたいもどかしさが胸に去来していた。
 綾乃との別れから五年が過ぎ、もう六年目に入った。
 綾乃からの返事はまだないものの、綾乃と特に仲のよかった三田と岩崎からは出席するという、静馬とっては綾乃の消息を知る手がかりになる、ありがたい返事があった。
「俺たちの時間はあの時から止まったままだ――。そうだろう、綾乃――?」
 静馬は綾乃の郷里の方角を見据えたまま口ごもった声で問いかけた。
 綾乃の存在を意識する時、彼女に対して憤りのようなものが沸き起こって来る。そして自分の真実を彼女に告げられなかったことが、何よりも残念でならなかった。
 これから雨が降り出すのだろう。水分を多く含んだ密度の濃い空気が身体に纏わりついて来る。
 気分が好転したのは、孝明と話したほんの一時でしかなかった。
「大事な鞄を置きっ放しにするなんて、そんな失敗、二度としたくない――」
 そう口の中で呟き、何をやってもなかなか望むようには行かない自分に苛立たしさを覚え、まるで重厚な鎧を纏っているような身体を引きずりながら持ち場へ戻って行った。

 静馬が、会社が退けて、自宅の最寄り駅に着いた時には雨はたいした降りではなかった。ところがバスを待っている時に、遠くで雷鳴がして、乗り込んだバスが走り出して直ぐ、窓ガラスに大粒の雨が当たったと思ったら、たちまち土砂降りとなった。風もだいぶあるようだった。
 約十分後、静馬はバスを降りた。向こうの空が光って、雷鳴が聞こえた。
 雨が勢いよく降り、風が前方から吹きつける中、静馬は傘を差して自宅までの百メートル余りを歩いた。傘は辛うじて役に立っていた。
 ところが、門をくぐった頃から雨風が弱まって来た。
 なんて間が悪いんだと思いながら玄関の雨除けの下に立った。ひどく濡れてしまった。ズボンはぐしょぐしょだし、靴の中もびしゃびしゃだった。
 静馬が玄関の戸を開けると、祖父が上がり口に立っていた。
「お帰り、静馬。おお、随分濡れたな。――お登美さーん、タオルを持って来てくれー。静馬が風邪をひいてしまう」
 祖父が奥に向かってそう声をかけると、五十がらみの女性がタオルを持ってやって来た。
 このお登美さんこと岩佐登美子は、二年ほど前から支倉家で住み込みの家政婦をしていた。亡くなった祖母と血の繋がりがある、とそれだけは最初に祖父から聞かされた。彼女の一人息子は他家に養子に行き、その息子の父親は今では別の家庭を持っているなどは、この二年の間に静馬が追い追いわかって行ったことである。
「大旦那様は、ところによっては激しい雷雨になるという予報を聴いてから、静馬さんのことを心配して、玄関を出たり入ったりなさっていたんです」
 お登美さんは静馬にタオルを渡しながらそう言った。
 静馬は、ありがとう、と言いながらタオルを受け取った。お登美さんとは気が合った。それから、
「俺はもう小さな子供ではないんだ。気にかけてくれるのはありがたいんだが、いちいち心配していてはきりがないし、心配もほどほどにしないと、爺さんの方が参ってしまう。そうなったら、困るのは俺だ」
 と、そんな説教めいたことを言いながら上着やズボンを拭き、上がり口に腰を下ろして濡れた靴下を脱いで足を拭いた。
「濡れて風邪をひいたら、仕事に差し支えると思ってな……」
 そんな祖父の言葉が、静馬には珍しく、押しつけがましく聞こえた。
「爺さん、近頃やたらと細かいことまで気にするようになったんじゃないか……」
 そう言って祖父と向かい合って立つと、その顔をしげしげと見下ろした。祖父との身長差を改めて感じた。そしてこの祖父に抱き上げられていたことが思い出されて行った。
「そうか? そうだとしたら、静馬の心配性がうつったのかもしれん」
「俺が心配性って、なんでそうなるんだ?」
 そう言った静馬の視界が塞がれた。祖父が掌を静馬の顔の前にかざしたのだ。
「おお、わしの手に静馬の息がかかる。確かに生きておるわ――。お前、夜中にわしの部屋に忍んで来るだろう。何しに来るんだ。昔のように一緒の布団で寝たいのか」
 その言葉が終わると静馬の視界は開けた。
「いちいち心配していてはきりがない。お前の方が参ってしまう」
 祖父は皺と見分けがつかなくなるくらい目を細めておかしそうに言った。
 静馬はぐっと言葉に詰り、祖父から顔を逸らした。濡れた靴の手入れをしているお登美さんの姿が目に入り、お登美さん、と呼びかけると、彼女へ向かって手にしていたタオルを投げた。
 お登美さんはタオルと濡れた靴下を持って奥へ戻って行った。
 祖父が口調を変えて口を開いた。
「静馬、今日も同窓会の返事が届いている。座敷に置いてあるが、着替えてからにするか」
「貰って行くよ」
 二人は座敷へ向かって歩き出した。
「今日届いた分は、全員出席になっている」
「そうか」
「それぞれ一言書いてくれて、その言葉に彼らの成長が感じられる。自分の人生をしっかりと歩んでいるそれぞれの姿が見えるようで、嬉しいもんだな」
 祖父はほくほく顔で言った。
 祖父はこれまでも同じようなことを言って来た。
 静馬はそんな祖父の様子を見るたびに、ひょっとすると孝明はこうなることを予想して返信先を支倉家にしたのかもしれないと思っていた。
「四枚来ている」
 祖父はそう言いながら立ったまま座卓の上にある葉書を手にすると、その中の一枚に目を落とした。
「これには、お会いできるのを楽しみにしています、とある」
 そう言って、それを一番上にして静馬に差し出した。
 静馬は、綾乃から来ているかもしれないと考えながら葉書を受け取り、一番上の葉書に目を当てた。と、皆川綾乃の文字が目に飛び込んで来た。
 まさしくそれこそが綾乃からであった。
 静馬は、一瞬胸がどきりとした。が、そこに書かれてある住所にはびっくりした。それは隣町であった。
 こんな近くにいたのか――――!
 静馬は、この考えもしなかったことに愕然としながら、綾乃の手によって書かれた文字を見詰めていた。線の綺麗な柔らか味のある、懐かしい筆跡である。
「静馬や――」
 祖父の声が耳に入り、静馬ははっと我に返り、反射的に首を動かしていた。
「早く着替えた方がいい――。そうだな、なんだか今夜は日本酒を飲みたくなって来た。つき合ってくれるか?」
「ああ、つき合うよ」
 静馬は笑い顔で答えたものの、内心複雑であった。祖父が綾乃を気に入っていたことが思い出され、綾乃の点てたお茶を飲んでいる祖父の姿が瞼に浮かんでいた。
 しかし、それはそれとして、綾乃から出席を知らせる返事が届いたことと、彼女がまだ皆川姓であったことで、どこかほっとしていた。
 自室に入った静馬は、明りを点けるとほうっと息をひとつ吐き、口元に笑みを浮かべた。それから改まった気持ちで、綾乃からの葉書に目を落とした。
 ――――お会いできるのを楽しみにしています。
 この文が、静馬の顔を笑みでいっぱいにさせた。
 静馬は携帯電話を手にした。葉書には電話番号も書かれてある。
 静馬は携帯電話のボタンをひとつ押した。しかし、次が押せなかった。
 何故綾乃は会いに来てくれないんだ――?
 そんな疑問が沸き起こり、静馬は携帯電話にじっと目を当てていた。
 ――――私は静馬が怖い。
 綾乃の声が頭の中に響き渡り、彼女の泣き顔が脳裏いっぱいに広がって行った。
「わからない……」
 静馬は呟いた。
 携帯電話のボタンの上を、親指が彷徨っている。
 静馬はなんだかおかしくなって来て、くっと喉の奥で笑った。
「なあ、孝明さんよ。電話ってのは、どうやってかけるんだっけ。俺、わからないんだよ……」
 静馬はそう言うと、声を上げて笑い出した。濡れた服のまま、まるで足の裏をくすぐられでもしているかのように笑い続けた。

 その日、有給休暇を取った静馬は、玄関周りを掃除しているお登美さんと話していた。そこに祖父が外出する格好をしてやって来た。これを見て、静馬は眉を顰めた。朝食の時、祖父は咳をしていたのだ。
「どこへ行くんだ?」
 静馬は訊いた。
「大学へ行って来る」
 祖父は鞄を肩にかけながら答えた。と、また小さな咳をした。
「なんの用があるんだ?」
「原稿を届けようと、こらっ、何をする――」
 静馬は祖父から鞄を奪い、原稿が入っていると思われる封筒を取り出し、確認した。
「これは、俺が届けてやるから、爺さんは、咳が出なくなるまで外出禁止だ」
「静馬、大袈裟に考え過ぎだ。お前のようなのを心配性と言うんだ」
「なんとでも言ってくれ。この土曜日が同窓会だろう。幹事として、恩師に会うのを楽しみにしている皆をがっかりさせるわけには行かないんだ。それに爺さんの喜寿の祝いも兼ねているんだから、体調不良で主役欠席なんてことになったら格好がつかないだろう。――お登美さん、この爺さんを布団の中に押し込んでおいてくれ」
「承知しました。――大旦那様、静馬さんに心配をかけてはいけません。布団を敷きますから、おとなしくお休みになって下さい」
 お登美さんはそう言って、祖父を連れて行こうとした。
「ちょっと待て。咳が出なくなるまでとは、だったら同窓会当日にわしが咳をしたら、お前はどうする気なんだ?」
「だから、そうならないように、今はおとなしくしていろということだ。――お登美さん、しっかり見張っていてくれ」
「お任せ下さい」
 お登美さんは笑顔で答えると、ぶつくさ言っている祖父の背中を両手で押しながら歩いて行った。
 静馬は、お登美さんがいてくれてよかったとつくづく思っていた。
 久しぶりに大学を訪れた静馬は、原稿を受付で渡してから、大学構内をぶらぶら歩いてみた。
 校舎が改修されて、様子が変わっていた。卒業後、新制度に切り替わり、学部の再編が行われ、在籍していた学部はもうなくなっていた。
 その中で綾乃と何度も歩いた銀杏並木だけは変わらずにあり、葉を青々と茂らせていた。
 静馬はその足で綾乃の住んでいたアパートを見に行った。
 ところが、アパートがあったはずの場所には洋風外観の二階家が並んでいた。
 築年数の古いアパートであったが、最近のものに比べ、壁が厚く柱も太くてしっかりした造りだった。隣に住んでいた老夫婦の大家が進んで学生を受け入れ、また相談相手にもなっていた。その老夫婦の家もなくなっている。
 近くに生垣の手入れをしている人がいたので、静馬はアパートのことを知っているかもしれないと考え、声をかけた。でっぷりした中年女性だった。
 女性は首にかけたタオルで汗を拭きながら、
「大家をしていたお爺さんが先に亡くなって、ひと月もしないうちにお婆さんも追いかけるように逝ってね。アパートは、あの二人が人の役に立ちたいからって、儲けを考えないで、楽しみでやっていたようなもんだったから、子供たちは誰も継ぐ気がなくて、手放したんですよ。そうね、かれこれ一年半くらいになるかしら」
 と教えてくれ、
「あんたも、大家さんに世話になった口かい? この前も、同じことを訊かれたね」
 と言って来た。
 静馬は帰路につきながら、周りはどんどん変わって行くのに、自分だけが置いてけぼりを食っているような気がしていた。
 同窓会まであと数日。
 静馬は、綾乃が近くにいるとわかっても、何もできないでいた。
 物理的な距離が会えない理由であるならば、この距離はなんと言い訳すればいいのだろう。綾乃との心の距離はどれくらいなのだろうか。数字では表せない心の距離は夢幻なのかもしれない。
 そんなことを考えながら、静馬は走る電車の中から綾乃の住んでいる町をぼんやり眺めていた。
 別離後も静馬の綾乃への恋心は、彼の中に生きていた。それは彼自身気づかなかったほど、密やかに息をしていた。
 ひょんなことで皆川綾乃の名に再び触れたことから、恋の息吹は徐々に大きくなり、今や静馬の細胞の隅々にまで伝わっていた。




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