落花流水 7


 静馬は、孝明から同窓会の幹事を頼まれたその日の夜、自室で住所録の作成をしている最中、かつての恋人・皆川綾乃の名前を見、動揺して、作成作業を中断してしまった。
 室内は静まり返っていた。
 静馬は机上に両肘を突き、両手で頭を押さえ、目を閉じていた。
「俺達は子供じゃない……」
 小さく言葉を漏らし、目を開き、机上に視線を当てながら両腕を組んで乗せた。
 あの時、あのようなことを言ったこと自体が子供、幼稚さ未熟さの表れであった。それゆえに感情を爆発させることしかできず、その爆発熱の勢いに任せて一人で突っ走ってしまった。
 静馬は、自分がいかに幼稚で未熟であったのかを今更ながら痛切に感じ、自分のことが情けなくて、恨めしくてならなかった。
 そしてもう一度目を閉じ、俯いた。
 あの大きな銀杏の木のそば、静馬のもとから綾乃は走り去り、見えなくなった。
 静馬は綾乃の走り去った方向を眺めながら、どうしたものかと決めかねていた。誤解を解く必要性は強く感じているのだが、あんなヒステリーを起こしている状態では、何を言っても徒労に終わりそうであった。
 全くとんでもない勘違いをしてくれたものだ――、と綾乃に呆れて、彼女を咎める気持ちと、自分は間違ったことはしていない――、という絶対の自信が、静馬の心の中を占めていた。
 そのうち人の笑うような声がして、向こうの方にテニスラケットを持った男女の一団が現れた。
 それでなんとなく歩き出した静馬は、もう今日は話にならないと考え、真っ直ぐ家へ帰ることにした。
 朝には浮かれ調子で歩いていた道を、今は逆に辿っている。朝と今、予定と現実との落差を考えると、次第に気分が沈んで来る。
 そういう心境で歩いていた静馬は途中で、支倉家出入りの庭師とばったり顔を合わせた。
 庭師は、大旦那様は引退なさるそうですね、と話し始め、支倉の家は大旦那様をはじめとして、旦那様も奥様もたいしたものだ、などと三人をひとしきり褒め、静馬さんもいよいよ本格的な人生の幕開けですね、これからが人生の本番ですよ、と尤もらしいことを口にし、大旦那様に宜しくお伝え下さい、と言って立ち去って行った。
 庭師にそのようなつもりはないのであろうが、静馬は長年支倉家とつき合って来た庭師に何やら言い聞かせられているような気がしてならなかった。
 庭師と別れたあと、静馬は特に何か考えるわけでもなくぼんやりした状態で帰宅したのだが、家政婦に静馬様――と言われた途端、何もかもが馬鹿らしく、厭になった。愛想笑いを浮かべている家政婦に、休むから声をかけるな、ときつい口調で言いつけた。
 布団に潜り込んだ静馬に、疲労感と睡魔が押し寄せて来た。
 静馬が目覚めたのは翌日の明け方だった。
 自分は何も悪いことをしていないという気持ちに変わりはなかった。綾乃が愛しいからこその行為であり、放っておきたくて放っておいたわけでもない。それをきちんと説明しなくてはいけないと思った。
 しかし、綾乃は頑なに口を閉ざして静馬を避け続けた。
 その態度に、自分は悪くないと思っている静馬もまた、そっちがその気ならこっちもと意地になった。綾乃がこの地を去ることを知っても、思いのほかあっさり受け止めていた。
 社会人として会社勤めが始まると、仕事や人間関係などに日々忙殺され、学生時代は、子供の時は、だんだん遠くなり、綾乃のこともいつしか考えなくなっていた。
 社会に出、静馬は思い知らされた。
 祖父の庇護の下、支倉家の総領としてちやほや誉めそやされていい気になっていた。祖父や両親の力、支倉という家の力でなされていたことを、自分自身の力であるかのように錯覚し、思い上がっていた。自分とは、なんと力のない、卑小な存在なのか、と――――。
「綾乃と一緒にいると、いい気持ちになれたんだ。結局のところ、俺は綾乃に甘えていたんだ……」
 静馬は呟いた。
 思えば俺は、自分の都合ばかり考え、それを綾乃に押しつけていた。そんなことばかりしていたのだから、これでは綾乃が俺から逃げたくなったのも当然だ。俺は綾乃の気持ちをわかろうするよりも、俺の気持ちをわからせようとすることに力を注いでいた。俺をわかって欲しいと思うのなら、綾乃の告白をもっと真剣に受け止め、その意味をもっと真摯に考えてやれなくてはいけなかった――。そう思った。
 今ならどうだ。今なら、あの時とは違う別の愛し方ができるのか――? 心の中で自分自身に問いかけた。
 静馬はおもむろに目を開き、顔を上げ、視線を名簿に注いだ。目が優しげに細められ、手が万年筆を握った。
 静馬は遠く離れてしまった綾乃を懐かしく思いながら、彼女の住所と名前を一字一字丁寧に書いた。
「今日はここまでにしよう」
 綾乃の住所氏名を書き終えると、静馬はほっとしたような口調で言った。
 時刻は間もなく午前一時になろうとしていた。
 静馬は風呂に行こうとして部屋を出た。廊下は薄暗く静まり返っている。
 不意に静馬は胸騒ぎを覚えた。
 近頃、しばしばこのように不安で気持ちが落ち着かなくなることがあり、こうなると自分の目で確かめないと収まらない。
 静馬は踵を返し、自分の部屋の前を通り過ぎ、祖父の部屋へ向かった。
「爺さん――」
 静馬は障子越しに声をかけた。障子の向こうは僅かに明るかったが、祖父からの返事はなかった。祖父はもう寝ていると思われる。
 静馬は音を立てないように障子を開けた。
 室内には小さな明りが灯っていた。
 静馬は、畳の上に敷いた布団に寝ている祖父のそばへそろりと近づき、祖父の口元にそっと手をかざしてみた。祖父の規則正しい寝息が手にかかった。それで静馬は気持ちが落ち着いた。
 静馬は浴槽に張られたお湯に浸かりながら、あんな別れ方をするとはな――、俺に会う気があるかどうか――、と綾乃のことを考えていた。そして、綾乃への案内状を今日出勤の途中でポストに入れようと決めた。

 その日は朝からどんよりした曇り空だった。
 静馬は営業から戻り、一人でエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターは途中の階で止まることなく、静馬の勤め先のある八階に着いた。そこでもこのエレベーターに乗り込もうとする人はいなかった。
 そうしたことに特に意味はなかった。単なる気まぐれで静馬は屋上へのボタンを押していた。
 エレベーターは扉を閉じて動き出した。
 静馬が営業に出向いた先は、支倉グループ傘下にあった。
 相手方の営業一筋二十五年というベテラン担当者は、かなり無理な条件を押しつけて来た。それを静馬は、この人は俺の力量を試している、俺という人間を値踏みしている、と感じていた。それは会社勤めをするようになってから、しばしば感じるものであった。支倉グループ内外を問わず、支倉家の総領である静馬の器量を見極めようと者は多かった。
 静馬は、祖父・支倉教授を尊敬し、祖父が籍を置く大学へと進んだ。支倉教授が祖父であることを初めはただ誇りに思うだけだったのだが、やがて何がしかのプレッシャーをも感じるようになった。
 そして静馬は今、支倉グループの後継者として世間から見られていることを強く感じざるを得なかった。
 静馬は屋上に出た。ゆっくりと流れて行く灰色の大きな雲の塊が、驚くほど近くに見えた。二羽の黒い鳥が、からすだろうか、戯れるように飛び交っている。遠くの空はほのかに明るいが、頭上の空は薄墨色をしている。
 静馬は胸に何か詰っているような、或いは得体の知れないものに首を締めつけられているような感じがして息苦しく、気分が優れなかった。覆い被さるように迫って来る陰鬱な空を見ていると、なんだか空に押し潰されそうな気がして来る。別に解放感を求めて屋上に来たわけではなかったのだが、もう少しどうにかならないものかと思うのは、心のどこかで何かから解き放たれることを期待していたのかもしれない。
 静馬は低く唸りながら思い切り身体を伸ばした。
「どこにいても同じだな……戻るか……」
 仕方ないとばかりに言った。
 その時、携帯電話に着信があり、静馬は背広の胸ポケットから携帯電話を取り出した。
 電話をかけて来たのは孝明であった。これで静馬の気分が切り替わった。
「こんな昼日中にかけてくるとは、随分と暇らしいな、孝明さんよ」
 静馬は嫌味たらしく言った。
<昼日中、屋上でぼんやりと突っ立っている人に、そんなことを言われたくないですね、静馬さん>
 孝明がすかさずそう言い返して来たものだから、静馬はぎょっとして、慌てて辺りを見回した。ビルの屋上には女性の清掃員が三人、お喋りに興じているだけであった。
「おい、一体どこにいるんだ?」
 静馬は訝しげに訊いた。
<僕ですか? 自分の会社にいますが――>
 これに静馬は、どっちだったかと一瞬考え、次にはフェンスに走り寄っていた。この屋上から孝明の勤め先の入っているビルを一部ではあるが、見ることは可能だった。
 静馬は自分の背丈よりも高いフェンスを片手で掴んで、孝明はあそこからこっちを望遠鏡で見ているんじゃないか、と考えながら、微かに見えてはいるものの、そこに誰がいるのかなど肉眼では到底わかるはずのない、遠くにあるビルの屋上に目を据えていた。
<もしもし静馬――、あの、どうかしたんですか?>
 手にしている携帯電話から孝明の声が流れて来た。
「おい、会社のどこにいるんだ?」
<自分の席に座っていますが――>
 孝明の言うことを、静馬はどうにも信用できなかった。
「それでなんで俺が屋上にいるってわかるんだ?」
<なんとなく口から出ただけで、意味なんかないですよ――。あれっ、もしかすると静馬、本当に屋上にいるんですか?>
 この問いかけに静馬は口をつぐんでいた。
<返事がないってことは、本当の本当に今、屋上にいるんですね。不思議だな。僕、どうしてわかっちゃったんでしょうか?>
 孝明の声ははしゃいでいた。
 静馬は、孝明も本当は屋上にいるのではないかとの考えを捨てきれず、遠くにあるビルに目をやりながら、
「そんなこと俺が知るか。そう思いたければ勝手に思っていろ――。それでなんの用だ?」
 と言ったものの、孝明の用件が同窓会の出席状況についてであろうことは、見当がついていた。
 同窓会の計画を孝明から聞かされた日以来、孝明とは街中で偶然に数回短い時間会っただけであった。連絡は電話で、それもいつも孝明の方がかけて来た。
<同窓会の出席状況についてです。返事の締め切りが迫っているので、どんな具合になってるのかと思って>
「そのことだったら、思ったよりも集まりそうだ」
<それはよかった。僕の方から言い出さないと、静馬は何も言ってくれないから>
「俺に任せたお前が悪い」
 返事は八割以上戻って来ている。住所が変わっているもの、新旧の姓が併記してあるものもあった。三人に二人は出席になっていた。
 しかし、誰よりも先に届いているはずの綾乃からは、まだ返事が戻って来ていなかった。
 静馬は、綾乃のことはさておき、孝明に対してはなんとも痛快な気分になった。今日初めて晴れ晴れとしたものを味わいながら空を仰いだ。天気の方はだいぶ怪しくなって来ていた。
「締め切り日が過ぎて、決まりがついたら連絡する。結果だけわかれば、それでいいだろう?」
<静馬の意見は、至極ご尤もなんですが……>
 わかっているが納得できない、そんな口調であった。
「だから、俺に任せたのがそもそも間違いだったんだよ」
 静馬は全く愉快であった。と、ひょっこり思い出した。
「あのな孝明、新しい名簿作成のことなんだが、何か考えがあったら、一言添えるようにしてあっただろう」
<名簿は個人情報になりますから、皆の意見を聞いた方がいいと思いましてね――。それで、反応はどうでした?>
「厳しい意見もあってな。そのうち見せるが、俺としては止めた方がいいと思う」
<そうですか……まあ、そうでしょうね……それが世の中の流れですから……>
「お前にしては、また随分間抜けなことを考えたものだな」
<そう思いますか……まあ、否定はしませんけどね……>
 孝明は意気沮喪したような感じだった。
 名簿作成は、孝明のサービス精神がさせたことであろうが、全員の意見が一致しないこと、辛辣な見方もあることなど、孝明ならわかっていたはず。悪用する奴がいるとは思いたくないが、万一のことがあったら、幹事の責任を問われかねない。返事はいい調子で戻って来ているし、参加者も多い。宛先不明で戻って来た十名のうち七名まで居所がわかり、再度送った。しかし、十年後二十年後のことは誰にもわからない。そう静馬は思っていた。
「そういうことだ。わかったら、これからは仕事中に私用電話なんかかけて来るなよ」
<それだけじゃないんですが……>
「まだ何かあるのか?」
<今、ちょっと行き詰ってまして、なんとなく静馬の声が聞きたくなったものですから……>
「はあ? なんで俺の声なんだよ。俺なんかより、落ち込みにてきめんに効く声の持ち主がいるだろう。そっちにかけてやれよ」
<仕事中の彼女に迷惑をかけることはできません!>
 孝明にきっぱりと言い切られ、静馬は、
「おい、俺になら――」
 と文句を言いかけたのだが、それより先に孝明から、
<友人の方がいい場合もあるんですよ。それでは静馬さん、いつまでも屋上でさぼっていては駄目ですよー>
 と言われてしまった。そして孝明の方が電話を切ってしまった。
 静馬はどうしてそんなことをしたのかわからないが、畜生ー、と叫びながらフェンスに鉄拳を食らわしていた。しかし、そんなことをしても自分が痛いだけである。
 そんな静馬の様子を、清掃員たちは面白そうに眺めていた。





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