落花流水 6(学生時代)


 静馬は階段教室の後方を見上げていた。その視線の先には綾乃がいる。
 綾乃は、先程静馬が言葉を交わした女性二人、名前を三田恵子、岩崎安代、と並んで座って、彼女たちと何か話している。
 こうして離れたところから、改めて客観的に眺めてみれば、静馬には綾乃の様子がいつもとそれ程変わりないように見えたりもする。しかし、三田と岩崎は綾乃に元気がないと言っていたし、綾乃が静馬に見せた態度も今まで経験したことのないおかしな感じを抱かせるものであった。
 会えなかった間に、綾乃に何もなかったとはやはり思えなくて、不安になる。
 何があった、どうして話してくれないんだ、水臭いじゃないか、そう悶々としていた静馬は、ふっと何か気配を感じて首を動かした。そうしたら孝明の顔が目に入り、彼から、久しぶりです、と言われた。孝明の言葉通り、彼とも暫く会っていなかったと思いながら、
「よお、本当に久しぶりだな」
 と言った。
「ここのところ、大学にはたまに来るくらいだったから――。静馬は来ていたんですか」
 孝明が訊いて来た。
「俺も、卒論を出してからは何回も来ていない。それに来た時も、そうだな……、話しらしい話しをしたのは、青木と一回話したくらいだ。そう言えば、青木、いないな」
 静馬は教室内をざっと見回し、ついでに綾乃の様子を窺った。綾乃は、二人増えて四人になった友人たちと談笑している。
「青木大堀ペアは、僕と一緒で午後からです。実はですね、これを静馬に早く返さなくてはと思って――」
 孝明はバッグの中に手を入れた。
「日程表で静馬が午前中というのは知っていましたから、早めに出て来たんです」
 孝明はバッグの中から出したものを静馬に差し出し、
「これ、静馬のでしたよね?」
 と訊いた。それは万年筆であった。
 静馬は、返すと言われてもなんのことか見当がつかないでいたのだが、万年筆を見、それが出て来たことに驚きつつ、そうだ、と答えた。
「このバッグ、暫く使わなかったので、と言うのは言い訳なんですが、今朝になってバッグの中にこれが入っているのに気がついたんです。いつの間に紛れ込んだのか。捜していたでしょう、済みませんでした」
 孝明はひどく申し訳なさそうな様子であった。それもそのはず、その万年筆はオーダーメードされた漆塗りの高価なものであり、その上静馬が両親から二十歳の誕生日に贈られたものであることを、孝明は何かの折に聞いていた。
 しかし、静馬はその万年筆をいい加減に扱っていた。いつの頃からか見かけなくなっていたのだが、ないならないでもいいと思っていた。
「そうか、孝明のところに行っていたのか。あったんだからそれでいいさ」
 静馬は万年筆を受け取ってバッグにしまうと孝明の顔に目を当てて、
「親父たちな、ここひと月ばかり家にいて、今日やっと帰ってくれる。今頃、空港に向かっているはずだ――。俺な、親父たちが仕事をしているところを初めて見たんだが、まさに身の引き締まる思がして、それとなんだか自分を恥ずかしいと感じた。親父たち、仕事の時は顔つきが変わるし、動きも違う。これが一流の企業人の姿なのかと不覚にも見惚れて、そのうちぞくぞくと言うか、わくわくして来た。親父たちのこと少し見直して、あれはこの先、俺が目指すべき姿だと考えるようになった。そうは言っても、企業人としてだけだけどな。それ以外は、我が親ながら、なんともピント外れな人たちだと呆れて頭を抱えるしかない――。孝明、万年筆ありがとう。見つかってよかった。今、そう思った」
 と言った。
 静馬は、これから社会に出るにあたって、あの企業人としては優秀な父と母の血を自分は引いているのだと思うと、力が漲って、自信が湧いて来る。そしてこれからは万年筆を大事にしようと思った。
「有意義に過ごしていたようですね」
 孝明は明るい笑い顔で言った。
 静馬は、ただ一つ綾乃に会えなかったことを除けば、確かに中身の濃い時間を送っていたと思い、答えの代わりに、ふん、と鼻の奥で笑った。
 不意に孝明が何か思いついたような顔になり、
「静馬はさっき、話したのは青木くらいだって言いましたよね。もしかして、皆川さんとも会っていないとか……、どうなんです?」
 と訊いて来た。
「ああ。時間が合わなくて会えなかったんだが、それがどうかしたのか?」
 静馬は、不安な気持ちが甦って来たが、なんでもない風を装って言った。
「あれは、一週間くらい前だったかな。皆川さんに会ったんですよ。三田さんと岩崎さんも一緒だったんですが、その時彼女たちが、皆川さんの元気がないって心配していたんです。皆川さんはそんなことないって笑っていましたけど、確かに様子がおかしかった――。それで今、ひょっとすると静馬と会えなかったから、それで元気がなかったのかなと思いついたものですから。でも、連絡くらいは取り合っていますよね?」
「いや、忙しくて連絡もできなかった……」
「それじゃあ、やっぱりそうかな。皆川さん、寂しかったんでしょうね」
 と孝明は、静馬から視線を逸らした。
 静馬は孝明の視線の先に目を向けた。呼び出しのあった三田と岩崎はもういなかったが、綾乃は残っている友人二人とのおしゃべりに夢中のようだった。
「話しに夢中で、こっちには気づいていないみたいですね」
 孝明が言った。
 静馬は、みたいだな、と言ってその場は孝明に合わせておいた。そうしながら、孝明が寂しかったと言ったこともあり、あれはただ拗ねているだけだ、との考えが浮かんで来ていた。
 全然構ってやらなくて悪かったとは思うが、そうできなかった立派な理由がこっちにはあるのだから、先ずはそれを聞いてくれよな。それに綾乃だけが寂しい思いをしていたわけではない。こっちだって、綾乃に会えなくて寂しかったんだぞ。
 静馬はそう愚痴を内心でこぼし、知らん振りを決め込んでいるらしい綾乃に視線を当てていた。
 その静馬に、行かないんですか、と孝明が声をかけて来た。
 静馬は孝明に視線を移し、どう答えようかと考えた。綾乃はさっき、『話があるから、終わったら待っていて』と言った。
「もう直ぐ俺の順番が回って来る。今、大事なことは、学生としての本分を果たすことだ。俺のあとが綾乃だし、二人とも終わってからの方がいい。その方が落ち着いてゆっくり話せる」
 静馬がそう言った時、男性が一人新たに仲間に加わって来て、話題が綾乃のことから逸れた。
 やがて静馬と綾乃に呼び出しがかかった。
 静馬は教室の出入り口で一旦立ち止まって振り返った。孝明を避けるようにして下りて来る綾乃は相変わらずそっぽを向いていた。静馬は、今までで最大の拗ね具合のようだ、仕方ない奴、と思い、それからはもう振り向くことなく口頭試問の会場である演習室に向かって歩いて行った。
 静馬は演習室の出入り口扉を廊下の向こう側に見て、腕を組み、壁に背中をつけてもたれかかるようにして立った。
 静馬とやや離れて、横に並ぶ格好で立っている綾乃は、本に目を落としている。その様子を静馬は横目で窺っていた。
 口頭試問を無事に終えた静馬は、入れ替わりに演習室に向かう綾乃に対して、
「ここで待っているから、頑張れよ」
 と声をかけたのだが、それを無視して綾乃は演習室の中に入って行った。
「相当怒っているな……」
 静馬は演習室の閉じられた扉を見ながら呟いた。ただし、会えなかったのが寂しくて、それで怒ったり拗ねたりしているのならまんざら悪い気もしなかった。
 綾乃は時々つまらないことに固執して、それを通そうとする。そのわがままには手を焼いて来たものだ。でも結局のところそれは、甘えん坊で寂しがり屋の綾乃が、俺に構って欲しくて、俺の手を焼かせるようなことをわざとやっているんだ。話と言うのは、不平不満をぶちまけたいのだろう。それだったら、確かに口頭試問が終わってからの方がいい。構ってやらなかった分を埋め合わせるつもりで、なんでもはいはいと聞いてやろう。
 静馬はそう考えていた。
 二十分ほどして演習室の扉が開いて、中から出て来た綾乃はほっとした様子を見せていた。しかし、静馬が、どうだった、と声をかけたら、綾乃は怒ったような表情を見せ、ついて来て、と言って、先に立って歩き出した。
 静馬は、やれやれと思った。綾乃の後ろをついて行きながら、こんなはずではなかったのに、こうなってしまったのは、今になって親をしようなんて考えた親父とお袋が悪いんだからな、そう心の中で綾乃と両親と自分に対して言っていた。

 二人は大学の敷地の外れまで来ていた。背が高く幹が太い銀杏の木があり、その木の近くで綾乃は足を止めた。銀杏は葉を全て落としている。冬晴れの、この時期にしては暖かい日であった。
 静馬は綾乃の間近で足を止めた。すると綾乃は何故か離れてしまった。
 話があると言った綾乃は、ここに来るまで一言も話さなかった。足を止めてからも、よそよそしい距離を取ったかと思ったら、あらぬ方を見て押し黙ったままでいる。
 静馬も、声をかけることをためらわせるような雰囲気を綾乃から感じていて、口を開けずにいた。
 静馬は、構ってやらなかったことを悪いとは思っていたが、構うことのできなかった正当な理由が自分にはあるのだから、自分に非はない、悪くない、との気持ちがないわけではなかった。
 結果、煮え切らない綾乃の態度にいい加減痺れが切れて来た。
 静馬は辺りを見回してみた。近くには誰もいなかった。言葉よりも唇を重ねた方が伝わるものがある、と欲情が沸き上がり、綾乃を銀杏の陰に誘い込もうとして足を踏み出し、手を伸ばした。それとほぼ同時に綾乃が顔を静馬の方へ向けながら、
「生理が遅れているの――」
 と言い、こちらをじっと見詰めて来た。
 静馬は動きを止め、綾乃の顔を見詰め返した。まるで暗号を読み取ろうとしているかのように、綾乃の顔にじっと目を当てていた。やがて綾乃の言葉の意味が呑み込め、綾乃のお腹の中に俺の子供がいる、と興奮を覚えた。
 この楽しくも嬉しい興奮は、静馬をやる気にさせた。
 仕事は決まっている。俺の力で綾乃と子供、どうにか食べさせてやれるよな。早速爺さんに話して……、爺さん、なんて言うかな――。待てよ、こういうことは、綾乃のところへ先に挨拶に行った方がいいのかな……、どっちを優先するか――。俺、綾乃の親にまだ会ったことがないんだよな。母親はおおらかでのんびりしているが、父親は昔かたぎな人間で、門限なんかも厳しかったって話だし、おそらくいい顔をしないだろうな。これはひとつやふたつ殴られると思っていた方がいい――。
 こんな風にあれこれ思い迷っていた静馬の耳に、綾乃の声が届いた。
「嘘。あのあと、ちゃんと生理来たわ」
 これに静馬は身体から力が抜けて呆けたようになり、思わず、
「脅かすなよ」
 と言って笑った。
「静馬、遅れているって言ったら、嫌そうな迷惑そうな顔をしてたわね。嘘だって言ったら、今度は、助かったって顔をして笑った。このひと月の間、ずっと私から逃げていたでしょう」
 綾乃は穏やかならざる様子で言った。
 これに静馬はぽかんとなった。
 綾乃は堰を切ったように語り始めた。

 あの時、怖くて嫌で、それしかなかった。どうにかして逃げようとしていたら、足が何かにぶつかった。それがテーブルだってわかって、その上に並べてある静馬のために作った料理を駄目にしたくはないって思った。
 眠ってしまった静馬の身体の下から抜け出して、風呂場に行った。
 立っているのが辛くて、しゃがんで、シャワーで身体を洗い流しながら、この前の生理がいつだったか考えた。
 部屋にびくびくしながら戻ってみたら、窓にレースのカーテンしか引かれていなくて、それがひどく恥ずかしくて、厚手のカーテンを引いた。
 静馬に布団をかけて、枕元に座って、目を覚ましたら何をしてくれるのかしらって――、優しい言葉をかけてくれるのかしら、優しいキスをしてくれるのかしら、優しく抱き締めてくれるのかしらって考えていた。
 不意に血走った静馬の目を、押さえつけて来る静馬の手の感触を思い出して、身体が震えて来て、自分で自分の身体を抱いて叫びたい衝動を抑えていた。
 この恐怖をくれたのは静馬だけれど、取り除いてくれるのも静馬しかいない。静馬が優しくしてくれれば、この恐怖も不安も痛みもなくなる。
 静馬、優しさを頂戴ってお願いしていた。
 それなのに、静馬は自分の自慢話をするだけして帰ってしまった。
 置き去りにされて、ひどく寒くなって来て、痛いんだけど、どこが痛いのかわからなくて、叫びたいんだけど、声にならなくて、布団の中で朝までずっと震えていた。
 それからの静馬は、私を避けるように逃げ回っていたみたいだけれど、流石に今日は逃げるわけにはいかなかったようね。

 綾乃は涙を流しながら語り終えた。
 その間、静馬は綾乃の顔を眺めながら黙っていた。
 このようにして静馬は、綾乃が置かれていた状況や気持ちを知るにいたったのである。しかし、綾乃はどうも思い違いをしているようであり、誤解を解いてやれば丸く収まると思った。
「話はわかった。だがな、そうじゃないんだ。そもそもなんで俺が綾乃から逃げる必要がある? まあ、俺の話も聞けよ」
 静馬は綾乃に向かって手を伸ばした。
「触らないで!」
 綾乃は一歩、二歩と後ずさった。
「私は静馬が怖い……」
 首を左右に振りながら言った。
「あんなの静馬じゃない。あんな静馬、私は知らない!」
 そう叫び、さっと身を翻し、走り出した。
「待てよ、なんでそんな風に考えるんだよ? 俺は俺だろう――」
 静馬は咄嗟にそう口走っていた。しかし、綾乃はもう遠くに去っていた。
 この時の静馬には、自分は何も悪いことはしていない、全ては綾乃のためを思ってしたことである、そんな気持ちがあった。それを変に捻じ曲げて考える綾乃の方が間違っている、そんな気持ちもあった。
 自分に非はないと信じている気持ちが、静馬をその場にとどまらせていた。
 二人の歯車が狂ってしまった。
 卒業式のあとに行われた謝恩会で、静馬は、綾乃の勤務先が第二本社に決まり、アパートも引き払ったことを人づてに聞いた。
 狂いを直せぬまま、二人は各々の新しい世界へと踏み出して行った――――。





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