落花流水 5(学生時代)


 静馬は、ほんのり酔ったいい気分で家に帰り着いた。直ぐに綾乃に電話をかけようと思いながら、玄関の引き戸をがらがらと音を立てて開けた。すると玄関に見慣れない靴があるのに気づいた。男性用と女性用がそれぞれ一足ずつ。客がいるのかと思っているところに、家政婦が姿を現した。
 家政婦はいつもより早足でやって来ると、
「お帰りなさいませ、静馬様。旦那様と奥様がお戻りになっておられます」
 と言った。
 静馬は、両親が今日帰って来るなどとは一言も聞いていなかった。家政婦の言葉はまさに青天の霹靂であった。静馬の和み緩んでいた気持ちは一気に固く引き締められ、その視線は思わず家政婦の顔に当てられ、続いて両親の靴へと投げられた。
 心の中では、あいつらが帰って来たからなんだと言うんだ、と家政婦に噛みつくように問うて、あいつら何しに来たんだ、と両親と言う闖入者を警戒していた。
 そうして、俺はどうしたらいいんだ、と極度の緊張状態に陥ってしまった静馬は、玄関の置き飾りの一つになっていた。
 しかし、そんな緊張状態も一時的なことだった。
 部屋に戻りたい、と堪らなく自室に行きたくなって来て、急いで靴を脱いで上がり口に足を乗せた。
 電話するんだ、と綾乃の笑顔を瞼に浮かばせながら、その声を無性に聞きたくて、家政婦の手で足元に置かれたスリッパを履くと家政婦に背中を見せて大またで歩き出した。
「お二人は大旦那様と一緒に奥のお座敷におられます」
 そんな声が背後から聞こえて来た。静馬の部屋は座敷とは反対方向にあった。
 家政婦は、静馬様、と追いかけ、
「大旦那様から、静馬様がお帰りになったら、必ず座敷に顔を見せに来ること、そう伝えるよう言われております」
 と言った。
 この家政婦の言葉に静馬は足を止め、諦めたように大きなため息を吐き出した。敬愛する祖父の言いつけには、どうしても逆らえなかった。
「部屋に入れておいてくれ」
 憮然たる面持ちで家政婦に荷物を渡すと、座敷に向かった。
 家政婦はやれやれというような表情を浮かべて静馬の後ろ姿を見送りながら、未だに反抗期継続中で、おまけに重度のお爺さん依存症で、いつまでも子供子供しているおぼっちゃんだこと、とつくづく呆れるばかりであった。
 静馬は座敷に嫌々足を運んでいた。
 ――――あの二人が自分の父母であることに、自分があの二人の子供であることに、どうにも慣れなかった。合うところ、合わせられそうなところを見つけられないでいた。何かをしてくれるとしても、感覚にずれがあって、煩わしさしか感じられなかった。
 静馬はいつの頃からか思っていた。
 ―――― 一生の間にこの社会において、自分と多かれ少なかれかかわりを持つことになる人の数を数えていたらきりがない。その中の何人かとの間に不和が生じても、さして問題ではない。どうしても合わない、合わせられない人もいる。つき合わない、つき合いを絶つと言うつき合いの仕方もある。しかし、それが実の親となると、はい、そうですか、さようなら、と簡単には行かない。自分はそれでもいいのだが、祖父が息子夫婦と孫との擦れ違いに心を痛めている。祖父を悩まし、心配させていることが心苦しい。
 廊下と座敷を隔てる障子は閉められていた。障子の向こう側にある座敷の中から人の話し声が聞こえて来る。
 静馬は座敷の中の会話に耳を澄ませながら足音を忍ばせて座敷に近づき、障子を正面に見て立った。
(ちょっと顔を見せればいいんだよな)
 そう考えた。
(そうすれば爺さん、満足してくれるよな)
 そう思いながら障子をそろそろと開け、視線を座敷の中に投じた。
 静馬の左手側には床の間を背にして祖父が座り、座卓を挟んだ祖父の向かい側には手前に母親、奥に父親が並んで座っている。
 祖父と両親の視線は静馬に注がれている。
 静馬は両親の顔に視線を当てながら、
(この前、家に来たのは、確か秋風が立ち始めた頃で、二人揃ってだったな。四、五日いたはずだが、俺、なるべく顔を合わせなくても済むようにしていた……)
 と、思い出しながらも、どうでもいいという気持ちがあった。父親も母親も仕事で日本に来ることはあっても、時間の都合上、支倉邸には立ち寄らない場合があるし、静馬にしても、何やかやと言って会いに行かなかった。
 顔を綻ばせた両親は、静馬に向かってそれぞれに話しかけて来る。
 だが、静馬は黙っていた。どんどん気持ちが白けて行く。
 「静馬や。いつまでもそこに突っ立っていないで、わしの隣に来なさい」
 その呼びかけに、静馬は祖父に目を転じた。祖父は、ここだと言うように、自分の隣に敷かれている座布団を軽く叩いた。
 祖父に逆らうことのできない静馬は、やむなく座敷に足を踏み入れた。尤も、直ぐに退散するつもりだったので、障子を開けたままにしておいた。顔を床の間に向けて、床の間にかけれている掛け軸やら飾られている生け花などに目を当てながら座敷の中を進んだ。祖父の隣まで来ると、今度は目を自分が座る座布団に投じた。そうしながら祖父の隣に腰を下ろし、一呼吸おいてから顔を正面に向かって上げた。両親の笑い顔が目に入った。
(こいつら、こんな顔だったっけ?)
 久しぶりに両親の顔を間近に見て、そんな疑問を感じた。
 両親はあれやこれやと訊いて来る。それに静馬はどこかむっとした顔で生返事をしていた。ところがそのうち、祖父に太腿をつねられてしまった。それでいよいよ面倒になって、静馬は自室に引き上げることに決め、それを口にしかけた。
 その時、秘書の声がした。
 秘書は、家政婦の手配が済んだことを報告すると去って行った。静馬がわざわざ開けておいた障子は、秘書の手によって閉められてしまった。
「三週間の予定で来たから、お父さんとお母さんの身の回りのことをさせるのに、もう一人雇ったのよ」
 それが当たり前であるかのように母親は言うとお茶をすすった。お茶は家政婦に淹れさせていた。
 そんな母親の様子を眺めながら、静馬は考えていた。
 ――――綾乃を初めて見た時に感じた親しく思う気持ちや懐かしさは、昔この母親からも、本当に感じていたのだろうか……? どうも違う気がする……。あれは幼い頃、欲しかったもの、憧れていたもの……そう、俺が心の中で思い描いていた幻だったのかもしれない。だが、綾乃は幻なんかじゃない。俺はずっと欲しかったものを手に入れたんだ、と。
 静馬は幼い頃、泣きながら母親の後を追いかけた。だが、いつしかそれが無駄なことだとわかって、追うのを止めた。それでも、母親を恋しく思わないわけではなかった。
 満たされることのなかった母親を慕う気持ちを、母親を求めて泣いていた小さな子供を、心の片隅に残したまま静馬は成長した。
 そんな静馬は綾乃と出会った。満たされなかった想いは、甘くも酸っぱい親しみと切ない懐かしさを感じる女への恋心に変わっていた。
 静馬は、今日キッチンで楽しそうに料理をしていた綾乃の姿を思い出し、顔にはいつしか笑みが浮かんでいた。
 そんな静馬の様子をどう解釈したものか、両親はやたらほっとした様子を見せて静馬に話しかけて来る。
(こいつら、何か勘違いしているな)
 静馬は意地の悪い気持ちでそう思い、ますます笑いながら両親の相手をしてやった。
 理由はともあれ、その場の雰囲気が和らぎ始めた。
 すると祖父が言った。
「始めるとしよう」
「何を始めるんだ?」
 静馬は訝しげな顔で祖父に尋ねた。
「ホームパーティーだ。悦子さんが料理を用意してくれている」
「それって、お袋が作ったわけじゃないだろう。どこかの料理屋に頼んだだけだろう――。俺、腹減っていないから、いいよ。もう部屋に戻る」
 そう言い終えた途端、静馬は痛そうに顔を歪ませた。太腿を祖父に思いっきりつねられたのだ。
 支倉家の家族が揃ったその夜、静馬は綾乃に電話をかけることができなかった。
 両親の今回の帰国の目的は、静馬を構ってやるためであった。
 会社勤めをすると、時間に追われ縛られる。静馬と落ち着いて過ごせるのは今しかない。そう考えたと言うことである。
 静馬にしてみれば、今更何を言っているんだ、とただただ迷惑でしかなかった。
 静馬は、とにかく一緒にいようとする両親から、何度も逃げ出そうとしたのだが、その度に祖父に先回りされて逃げ出せなかった。
「経営者としてはやり手だが、親としては発育不全だ。親を育ててやっているんだと考えて、つきあってやれ」
 祖父からそう言われた。それでしぶしぶおとなしく言うことをきいていた。
 ただ一つ、両親が静馬の就職先、これは支倉グループ傘下に入っていない、に挨拶に行くと言い出した時には、即座にきっぱり断った。
「うちの子をお願いします、とわざわざでしゃばって来るような親に育てられた奴を、親父たちは雇うのか!」
 静馬は両親に食ってかかった。
「確かに、静馬の言う通りだ」
 父親は納得した様子で頷き、笑った。
「そんな風に考えられるなんて、いつの間にか静馬も成長したのね」
 母親は感心したように目を瞬かせ、笑った。
 これで静馬は、もう何を言う気も起きなかった。
 静馬は、そんな両親の相手をしなければならないところに就職先の研修が重なり、すでに大学にはほとんど顔を出す必要がなくなっていたこともあって綾乃とはなかなか会えなかった。両親と言う闖入者に自分のペースを乱されながら研修で出された課題を消化するのだから、自分のことだけで手一杯になり、気持ちに余裕がなくて綾乃への連絡すらままならなかった。

 両親はほぼ一箇月滞在し、いよいよ今日発つ。今日は、静馬が口頭試問を受ける日でもあった。綾乃も今日だった。掲示板に張り出されていた日程表では、静馬の後が綾乃となっていた。
 静馬は、今日は間違いなく綾乃に会える、と高揚感を抱きながら、早めに控え室として指定されている教室に入った。
 教室に綾乃の姿はなかったが、広い階段教室後方の高い席に綾乃の友人女性が二人、座っていた。
 静馬はちょっとした思いつきで彼女たちを目指して軽い足取りで階段を上がって行くと、机の上に論文のコピーや資料を広げている彼女たちに向かって気軽な口調で声をかけた。
 たわいのない言葉を二言三言交わした後、片方の彼女が静馬に向かって言った。
「近頃の綾乃、元気がないようだけど、どうしたの」
 これに驚いた静馬は、怪訝な顔を見せながら、
「綾乃の元気がないって……それ、どういうことだ」
 と聞き返していた。
「えーっ、支倉君、気づいてなかったの」
 もう一方の彼女が、とても驚いた様子で言った。
 静馬は彼女たちから思ってもみなかったことを言われて当惑し、彼女たちは綾乃の様子がおかしいことに静馬が気づいていなかったと知って戸惑った。
「おい、もっと詳しく教えろ」
「私たちだって詳しいことは知らないのよ。いくら訊いても、綾乃はなんでもないとしか言わないし……それで支倉君だったら何か知っていると思ったんだけど……」
「綾乃って、一度こうと思い込んだらてこでも動かない頑固なとこがあるからね。一旦口にしないと決めたら、あのこ絶対にしないわよ。でも、支倉君にだったら……綾乃もなんか言ってるんじゃないかって、ね……」
 彼女たちは顔を見合わせ首を傾げ合っている。
 静馬は、こいつらでは駄目だと思い、教室の出入り口を見下ろした。
「支倉君、結構鈍いから」
「ほんと……あっ、ねえ、もしかすると、綾乃はそれで悩んでるんじゃない? 気づいて欲しいことがあって、その想いを送っても、相手に上手く受け取ってもらえないと気持ちが沈んじゃうもの。そんなことが度重なると、愛情を疑っちゃうのよね」
「それに支倉君は、黙って俺について来い、なところがあるから。それも悪くはないんだけど、たまには、こう優しく手を取って一緒に歩いてくれたりすると、胸がきゅんとするものよ」
「そうね」
 そんな外野の言うことなど聞く耳を持たない静馬は、気持ちを苛立たせながら教室の出入り口に目を凝らしていた。
 と、綾乃が教室に入って来た。
「綾乃ー」
 そう呼びかけると、静馬は急ぎ足で階段を下りて行った。
「支倉君、吹っ飛んで行ったわよ」
「鈍くて、俺様で、純情ハートの持ち主で。あれじゃあ綾乃、苦労も多いでしょうに、それでもやっぱり好きなのよね」
 友人二人は感心するように言った。
 綾乃は静馬の方に顔を向けると足を止めた。
 静馬は満足そうな幸せそうな表情を見せながら綾乃の前に立った。胸に甘く酸っぱい懐かしさが込み上げて来ていた。それは綾乃だけに感じる特別な感情だった。やっと会えた、と心中ほっとしていた。
 ところが、綾乃は表情を強張らせ、よそよそしい目つきで静馬をねめつけている。
 それで静馬の表情がわけがわからないと言うものに変わった。えっと……? と、静馬は何か考えようとしたのだが、何を考えたらいいのか何も思いつかない状態にあった。
 綾乃は黙ってふいと顔を逸らし、すいと離れ、出入り口から遠い位置の誰も座っていない一列目の席に腰を下ろした。
 静馬は何かすっきりしないものを感じながら、
「綾乃?」
 と、俯いている綾乃の正面から机を挟んで声をかけた。しかし、綾乃は何の返事も返してくれず、顔も伏せたままだった。
 静馬は机に手を突いて綾乃の耳元近くに顔を寄せると、
「元気がないみたいだな、どうしたんだ、綾乃?」
 と柔らかく囁くように訊いた。すると綾乃が、
「私の前よね」
 と低く口ごもった声で言った。
「口頭試問のことか? そうだよ」
「話があるから、終わったら待っていて」
 綾乃が不機嫌な声で言った。
「勿論、そうするつもり――。綾乃?」
 綾乃はすっと席を立つと速い足取りで階段を上って行った。
(どうしたんだ、何があったんだ、綾乃……)
 静馬の胸中に不安が広がって行った。





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