落花流水 14


 静馬と綾乃はそれぞれの想いを胸に抱いて向かい合っていた。
 静馬の想いは綾乃へ向かってとめどなく流れて行く。彼にとって彼女はかけがえのない存在、唯一無二の愛の対象であった。
 静馬はそれをはっきり感じるのと同時に、彼女を恋しく想う自分をじっと見ているもう一人の自分の存在をも感じていた。
 自分の愛は、彼女に恐怖と苦痛を与えてしまった。彼女にとっては狂気の沙汰としか言いようがなかったのであろう。
 そんな狂気という快楽に溺れて何もわからなくなってしまう自分に、もう一人の自分は畏怖と非難を宿した冷たい眼差しを向けていた。
 綾乃の顔に静かにゆっくりと笑みが広がって行った。
 静馬ははっとした。
 彼女の笑みは滑稽じみた悪戯っぽいものではなく、芽生えたばかりの若葉のような瑞々しく無邪気なものとも違った。それは命を育む母なる海を思わせる深遠な微笑みだった。
 静馬は、海の中を温かな優しさに包まれてゆったりと漂っているような気がした。そのようなことをしたことはないはずなのに、どういうわけかいつかどこかでしたことがあるように感じられ、懐かしくさえあった。
 表面では強気で威勢よかったものの、拭い去れない自分自身への恐怖とそれによる迷いから、裏面ではあと一歩踏み出せないでいた静馬であった。
 彼女はこちらの心の中を見抜いていて、そこにある愛も狂気も全て受け入れて包み込んでくれている。
 静馬にはそんな風に思われた。
 そうしたら今度は、海の底に引き込まれるように沈んで行く感覚に陥った。恐怖は感じなかった。自分は海の奥底で清められ再生されるのだ、と何故か不思議と思っていた。
 綾乃が両の手で静馬の両手をそれぞれ取った。
「私、この春から第一本社で働くことになったの。それでね、こっちに来てなんとか落ち着いた頃、実家の方に同窓会の案内状が届いたのよ」
「そうだったのか――」
「ずっと異動の希望を出していて、やっと望みが叶ったのよ」
「そうか――。頑張っていたんだな」
「そう、私、頑張ったの。頑張って、帰って来たのよ」
 綾乃は言いながら握る手に力を込め、瞳をきらめかせた。
 貴方のところに帰って来たのよ――――。
 そんな綾乃の心の声が、静馬には彼女の手や瞳から伝わって来ていた。
 それから綾乃が言った。
「静馬の綻びは、私が繕ってあげるわね。そうしてあげられるようになりたいから、これからも頑張るわね」
 静馬は一瞬、えっという顔をすると、
「あ……服、破けているのか?」
 と言った。
 二人の手は自然と離れてしまったが、綾乃は愛情のこもった眼差しで、上着の袖や裾、ズボンの裾も真剣に見ている静馬を眺めていた。私の好きなこの人は、真面目になればなるだけ、どんどん的から外れて行くような人であったと思っていた。
「なあ、どこが破けているんだ?」
「わからないでしょうね――」
 綾乃は愉快そうに顔を綻ばせ、
「ねえ、話の続きは部屋でしましょうよ」
 と、静馬の腕を取り、
「私ね、静馬が大好き」
 と、腕に抱きついた。
 静馬は優しげに目を細めた。
 二人はどちらからともなく歩き出した。お互い無言で寄り添って歩いて行った。

 綾乃の部屋に着いた。
 静馬は綾乃の後についてオープンキッチンのリビングに入った。リビングとキッチンを合わせた部屋の広さは十二畳くらいである。
 綾乃は肩から提げていたバッグを楕円形の木製リビングテーブルの上に置き、静馬は無遠慮に室内を見回した。
「これ、ハートファンていうのよ」
 綾乃が言った。彼女は、テーブルの上に置かれてある小さな白い鉢に植わっている植物を指差していた。
「葉っぱがハート型で可愛いでしょう」
 静馬に向かってにこりとした。
 静馬は黙って綾乃とハートファンの間に視線を行き来させていた。嬉しそうに微笑む彼女のことは可愛く見えたが、ハートファンのことはどこにでもあるただの葉っぱにしか見えなかった。
 その次に綾乃は、ソファの横に置かれてある彼女とほぼ同じ背丈で淡い緑色の葉をつけた植物を指差した。
「これはアレカヤシ。静馬、知っている?」
「ヤシ……? 食えるのか」
「観賞用よ。それでね、あれはアイビー」
 今度は、リビングダイニング側に設けられたヌックカウンターの上を指差した。そこには葉っぱがガラスの容器に入れられて置かれてあった。
 綾乃は楽しそうに部屋にある葉っぱの名前を教えてくれるのだが、静馬には聞き慣れないものが多かった。
 静馬は、葉っぱは葉っぱとひとくくりでいいと思いながらカウンターに近づいて、アイビーと茶色い石のようなものを一緒に入れてあるガラス容器を手に取ってみた。
「それ、ハイドロボールを使っているのよ」
「ハイドロボール? そういえば、お登美さんもそんなことを言っていた。住み込みで働いてくれている人がこういう風に葉っぱを植えていた。――部屋をもっとよく見せてもらってもいいか」
「いいわよ。気が済むまでご自由にご覧下さい。私、手を洗って来るわね。それと、いくら探してもここに灰皿はありませんから」
 綾乃はそう言ってリビングから出て行った。
 静馬は部屋のあちらこちらに視線を走らせながらバルコニーに続く窓に近づき、その窓を開けると身を乗り出して外の景色を眺め、また閉めておいた。それから隣の部屋に続いているらしい引き戸を開けて、そこも遠慮なく覗いた。そこは寝室として使っているようだった。そことリビングで、部屋数は二部屋である。
 綾乃は洗面所の鏡の前で化粧を落とそうか直そうか考えた。道具はリビングに置いたバッグの中に入っている。とりあえず指輪を外して手を洗い、洗面台に置いてあったブラシでゆっくり髪を梳かしながら静馬の様子に聞き耳を立てていた。洗面所の扉は開けたままにしてあった。
 来る――――。
 そう思ったら案の定、彼が洗面所に入って来た。
 静馬は扉を開けたままだった浴室の中までしっかり覗くと、
「手、洗わせろ」
 と、綾乃の横に立った。
 綾乃はブラシを洗面台の上に戻して指輪を手にすると静馬に場所を譲った。
「結構広いじゃないか」
 静馬が手を洗いながら言った。
「広いって、この部屋のこと? 予算面ではぎりぎりのところなんだけれど、実家にいたでしょう。入れていた生活費を、母がそっくり貯金してくれていて、異動が決まった時、渡してくれたのよ。それで蓄えがあるからって、思いきって借りちゃった。でも、静馬のお家に比べたら、うんと狭いでしょう」
「綾乃が学生の時に住んでいたアパートに比べたらだ」
 静馬が横のタオルハンガーにかかっているタオルで手を拭きながら言った。
「あのアパート、なくなっていたわ……」
 綾乃は残念そうに呟き、洗面所から出て行った。静馬も洗面所の電気を消してリビングに戻った。
 綾乃は、部屋の中央付近に出入り口に背中を向けて俯き加減で立っている。
「アパートが取り壊されたこと、知っていたのか?」
「大家のお爺さんとお婆さんには随分よくしてもらったから、挨拶に行ったのよ。そうしたら、お二人とも亡くなったって聞いてね……。それを聞いた時は、悲しかったわ……」
「そうか――。でもな、それは仕方ないことだ」
 静馬は綾乃の背後に立った。
 綾乃は肩を落としてため息を吐いた。そして、
「静馬にも、会いに行こうとしたのよ。直接渡そうと思って、同窓会の葉書をずっと持ち歩いたの。だけど、途中で足が竦んでしまって……そんなことの繰り返しで……どうしても前へ進めなかったの……」
 と、寂しそうに話した。それから身体ごと振り返ると、
「ねえ、よく見てよ」
 と、静馬の左手を取ってその掌の上に指輪を乗せた。
 静馬は、指輪を右手の親指と人差し指で摘み上げた。
「その石の名前は、アクアマリン。私の誕生石よ」
「アクアマリン? へえ、そういうのがあるのか……」
 静馬はそう言ってから、ふと前にもこんなことがあったような気がして、母なる海の色をした石のついた指輪をじっと見詰めた。そうしたら綾乃が言った。
「私が何かおねだりすると、静馬は仕方がないなって顔をしながら、大抵のことは叶えてくれたわ。あの時も、欲しいっておねだりしたのよね。だけど、どうやら静馬さんの穴だらけの石頭からは、抜け落ちてしまっているらしいわね」
 静馬は綾乃の顔に目を当てた。彼女はとても嬉しそうな表情を顔に浮かべていた。この顔が見たくて色々やっていたと静馬は目を細めて懐かしく思い返した。そして、あっという声を漏らし、目を瞬かせた。

 大学構内で、静馬は腕を引っ張られたと思ったら、
「ねえねえ、静馬。今の人、左手の薬指に可愛い指輪をしていたわ。彼に買ってもらったのかしら、いいなあー」
 という綾乃の底抜けに明るい声を聞いた。静馬は、またかと心の中でこぼすと、
「何か言ったか?」
 と、空とぼけて言いながら綾乃の顔におもむろに目を落とした。
「聞いていなかったのおー」
 綾乃は尖った声で言いながら上目遣いでこちらを見た。
「あっ、いや、指輪がどうとか、ちゃんと聞いていました……。露骨に物欲しそうな顔をしているな……」
「だって、欲しいんだもん」
「欲しいってのは、その、指輪をか?」
「静馬に指輪を買って欲しいなあー」
 綾乃は甘ったるい声でねだって来た。
 静馬はひとつ唸った。そして考えた。駄目だと言う理由などどこにも見つからなかった。
「わかった。バイト代が貯まっているから、それで買ってやるよ」
 と、ほとんどその場の成り行きで言った。
「ほんと? 静馬、だーい好き!」
 綾乃がぎゅっと身体にしがみついて来た。
「こら、場所を考えろ! どうしてそう直ぐにくっつきたがるんだよ」
 後日、静馬は自分の知っている店に綾乃を連れて行ったのだが、何故だか彼女は目を丸くして言った。
「静馬、ここ、ティ……、しかも本店……。こっ、ここで買うの?」
「お袋と一緒に来たことがあるんだ。俺、ここしか知らないから。ここでは、嫌なのか」
「嫌とかそういうのではないんだけれど……。はあ、静馬って、やっぱりお坊ちゃまだったのね……。でも、あの、ここ……、ねえ、予算どれくらいって、訊いてもいい?」
 どことなくびくついているような綾乃の様子を不思議に思いながら、静馬は彼女の耳元で囁いた。
「わあ、結構貯めているのね。考えてみれば、静馬はバイト代を生活費に回す必要がないものね。うん、静馬がそう言ってくれるんだからここで買ってもらう。私、アクアマリンがいい。私の誕生石なの」
「アクアマリン? ふーん、そんなのがあるのか。――まあ、何でもいいから自分で選んでくれ。言っておくが俺に訊くなよ。俺には宝石や指輪なんてどれも同じに見える」

 静馬は、遅まきながら気がついた。
「確か二人で指輪を買いに行ったことがあったよな。これ、もしかして、その時の指輪か?」
 静馬は、自分が買った指輪をよく見ていなかったので、どんな指輪だったか思い出したくても思い出せなかった。更に今の今まで、指輪を買いに行ったことすら忘れていたのだ。おまけに再会直後、この指輪は現在の想い人から贈られたものだと決め込んでしまったから、それを抜きにして考えることができなくなっていた。
 穴だらけの石頭――――。
 静馬の脳裏に綾乃の言葉が浮かんでいた。
「そうよ。やっとわかったの? 静馬が覚えていると思っていた私の方が間抜けだったわ。見事なまでに忘れていたのね……」
 綾乃は、呆れたような表情でそうこぼした。
 静馬は返す言葉がなくて、思わず顔を逸らして視線を宙に泳がせた。指輪を買いに行ったのが卒業論文完成の前だったか後だったか考えてみたのだが、わからない。買ったあとに卒業論文を提出して、それから綾乃との関係が狂ってしまったのは間違いない。事態が思わぬ方向に展開して、その衝撃は大きかった。そのためか、あの頃の記憶はごちゃごちゃしていて、前後が上手く繋がらなかった。
「もういいわ。なんと言っても静馬のやることだから、そんなところでしょう。――静馬の手書きの宛名が、おいでって私を呼んでいるような気がしたの。静馬が待ってくれているような気がしたの。そう思っても、いいのかしら?」
 綾乃の言葉が強く胸に響いた静馬は、彼女の顔に視線を止めた。彼女の住所と名前を書いた時のことが、思い出されていた。
「締め切り日も近いし、どうしようかって困っていた時、ポストが目に入ったの。何かこう私を突き動かして来るものがあって、その場で一言書いてポストに放り込んじゃったのよ。あーあ、入れちゃったって急に力が抜けて、暫くポストの前で項垂れていたわ。今日もね、勇気を振り絞って行ったのよ。――考えたら、何かおかしいわね」
 綾乃は言って、頬を染めた顔を手で扇いだ。その姿はかわいらしくて、おかしい。静馬はなんだか楽しくなって来て、自然と顔が綻んで行った。
「お会いできるのを楽しみにしています、だったな……。もっと早く会いに来るべきだった」
「私も会いに行けなかったから……。そういうことあるわよね」
 綾乃の口調は柔らかであった。
 静馬は綾乃の左手を取って薬指に指輪をはめた。彼女はうっとりした表情を見せていた。
「綾乃。俺のしたことはお前を傷つけてしまった。だが、お前を愛しいと想う気持ちに偽りはなかった。それは今も変わらない。俺はああいう愛し方しかできない男だ。ここで謝罪の言葉を口にしたら、俺はもう二度とお前を愛せなくなってしまう。だから、俺はお前に謝ることをしない」
 綾乃は静馬の顔に目を当てた。彼は曇りのない目でこちらを見据えている。綾乃は瞼を落として呼吸すると瞼を上げ、静馬に向ってはっきりと言った。
「私は静馬にひどいことを言った。でも、あの時は本当にそう思っていた。だから私も謝らない。あれもまた私の真実であると、静馬に知っていて欲しい」
 静馬は白い歯を見せて頷くと、両手で彼女の頬に触れ、
「だがな、気にしていないわけではないんだ。不意に綾乃の泣き顔が頭の中に現れて苦しくなる。綾乃がそばにいない心細さに怯え、綾乃のことを何もわかってやれなかった自分の愚かさに怯える。これを和らげ、取り除いてくれるのは、綾乃だけなんだ。綾乃でないと、俺は駄目なんだ」
 と、きつく眉根を寄せて、切々と言葉を継いだ。
 綾乃は目を赤く潤ませていた。と、涙をこぼしたかと思ったら、
「ご免なさい!」
 と声を上げながら胸に飛び込んで来た。
「おい、ずるいじゃないか。お前、謝らないって言っただろう。お前に謝られたら、俺はどうしたらいいんだ」
 綾乃は胸に顔を埋めて泣きじゃくりながら、
「ご免なさい……ご免なさい……」
 と繰り返している。
「俺は絶対に謝らないからな……。済まなかったなんて、絶対に言わないからな……」
 静馬は綾乃を抱き締めて言った。
 どのくらいの時間、身体を寄せ合っていたのだろうか。
「抱いて……」
 微かな囁き声が腕の中から聞こえた。

 静馬は綾乃の裸体に視線を這わせていた。
「こんなに綺麗だったんだ……」
 感極まったようにそう漏らし、白く滑らかな肌に唇を押し当てた。
「還りたい……」
 柔らかな胸に頬を寄せて甘えるように囁いた。
 静馬のために開いた綾乃の中に、彼は還って行く。
 言葉にならないあまたの想いが合わさり、深く繋がり、ひとつに溶けて、止まっていた二人の時間が再び流れ始めた――――。





                                         HOME 前の頁 目次