落花流水 10


 同窓会の開始時刻となった。幹事・諸岡孝明と恩師・支倉慶喜元教授が挨拶をしたあと、孝明が乾杯の音頭を取った。会は半立食形式だった。
 開始前から会場の雰囲気は盛り上がりを見せていたが、開始後それはいっそう勢いを増して行った。
 静馬は会場内の騒ぎから外れて、受付台の片づけをしていた。全員揃ったのは開始後十五分ほどしてからだった。それまでの間、静馬は律儀にも会場の外で遅刻者を待っていたのだ。
 彼は後片づけをしながら、これでひとつ責任を果たしたと思っていたが、かと言ってひとつ解放されたとも、ひとつ楽になったとも思えなかった。
 責任の重石を乗せて抑えていた感情が、時間を置いてじわじわと上がって来ていた。それはもやもやした黒い霧となり、静馬の中に深く垂れ込めて行った。
 彼は、霧が晴れて自分の立ち位置がわかるまで待ちたい気持ちもあったが、幹事の役目はまだ終わっていないので、それを思って気を取り直し、心を引き締め、さあ、行くぞと思い、身を乗り出しかけた。
 その時、「支倉君」という声がした。
 静馬の上司と、支倉建設の総務部長が揃って彼のそばに寄って来た。二人とも礼服を着ていた。二人が親戚であることを静馬は知っていた。
 彼は思わず姿勢を正していたものの、あまりいい気持を持っていなかった。
「こんなところで会うなんて奇遇だね――。今日は親類の結婚式があって、これから披露宴を、この並びの、あの松風の間でやるんだ」
 上司は言いながら松風の間の方に顔を向け、次に同窓会の会場入り口の案内板に目を留め、
「君は大学の同窓会か――」
 と、機嫌のよい顔を静馬に向けた。
 静馬は、こんな奇遇は歓迎できないと厭な気持ちだったが、勿論顔には出さなかった。
 そこに総務部長が、
「新婦の勤め先が支倉建設の営業部でね、営業部長も来ているよ」
 と、横から口を挟んで来た。
 これが、静馬をますます厭な気持ちにさせて行った。
「僕は幹事ですので、会場に戻らなければなりません。これで失礼します」
「それはご苦労なことだね」
 上司はにこにこしながら言った。
 すると総務部長が、
「離れて見ていた時は、静馬君の姿が会長と重なったんだが、こうして間近で見ると副会長とよく似ている。凛とした品のよさがあるね――。これからも是非頑張ってくれたまえ」
 と、持ち上げるようなことを言って来たが、静馬は彼の目の奥にこちらを探るような意地の悪い光を見ていた。
 静馬は二人に一礼すると、どこに誰の目や耳があるかわかったものではないと思いながら、会場に足を踏み入れた。

 そこでは既にいくつかの人の塊ができていて、それぞれがそれぞれに盛り上がっていた。
 静馬は幾らも進まないうちに立ち止まって綾乃を捜した。祖父と孝明なら直ぐに見つけられた。二人は、それぞれが話に花を咲かせていた。
 それから会場内をじっくり見回して、ようやく綾乃も見つかった。彼女は、岩崎と三田ともう一人女性、それに青木と一緒にいた。こちらに背中を見せていた大柄な青木が、その体で綾乃の姿を上手く隠していた。青木が場所を移動したので、彼女がそこにいるのがわかったというわけだ。
 静馬は綾乃に視線を投げかけた。彼女もこちらに顔を向けていた。
 視線が交わった――、と静馬が感じた瞬間、綾乃の方が視線を逸らしてしまった。岩崎が綾乃に声をかけたのだ。それで綾乃は仲間の方に向き直り、仲間に囲まれるような格好になってしまった。笑いながら仲間と話している綾乃は心底楽しんでいるように、静馬の目には映っていた。
 静馬は綾乃のところにも、祖父や孝明のところにも、誰のところにも行きたいとは思わなかった。華やかなざわめきに満ちた会場内の雰囲気には馴染めなくて、出遅れ感を覚えながら片隅に並べられてある椅子へ向かった。誰も椅子には座っていなかった。静馬は椅子に深く腰を下ろして腕を組んだ。
 考えていたのとは違ったこの状況を、彼は整理しようとしていた。
 綾乃は三人姉妹の末っ子で、上の姉は、静馬たちが大学の三年だったか、二年だったか、四年だったかの時、嫁に行った。彼女が皆川姓のままだったからまだ独り身だと決めつけて安心していた静馬は、自分の考えが足りなかった甘かったと思うしかなかった。彼女がこちらに来たのは、旦那の仕事の関係だろうかとも考えた。
 そんな風に思い巡らしながら綾乃の様子を窺っている静馬は、彼女が時々ちらっとこちらを見るような、そんな気がしていた。
 そうしていたら、綾乃が仲間から離れた。と思ったら静馬に向かって来る。
 これにはっとした静馬は、思わず腕組みを解いて座り直していた。
 綾乃は静馬の前に立った。
「静馬、幹事ご苦労様――」
 言って、にこりとした。
「飲んでいないのね。私、持って来てあげる。ビールでいい?」
「ああ――。ついでに灰皿も頼む」
「はーい」
 綾乃は一オクターブ高い声で返事をするとくるりと身体を返し、スカートの裾をふわふわと揺らしながら歩いて行った。まるで桃色の空に浮かぶ綿菓子のような雲の上を、春風を受けながらほんわかほんわかと散歩しているような感じだった。
「いい気なものだ」
 静馬は呟いた。自分は、目の前に突きつけられた事実に打ちひしがれながらも、なんとか気張ってこの場にいるのだ。こうなったのはお前のせいだ、と彼女を非難する気持ちが沸いて来た。
 が、静馬はあっと気づいた。元を辿れば、これは、自分がしでかしたことに起因するのだ。
「身から出た錆か……」
 そう呟くと、瞼を落として首を垂れた。あの時急ぎ過ぎなければ、自分が買ってやった指輪が、彼女の左手薬指に今、はめられていたかもしれない。そんな考えが頭をかすめた。
 彼はもともと物事にこだわらない、割り切った性格だった。しかし、そう簡単には割り切れないものが、こだわって捨てられないものが、だんだん増えて来ていた。それらは、彼が生きて行く上で必要なものであり、彼女への想いもまたしかりである。
「どうしたの?」
 その声に静馬は顔を上げた。綾乃が戻って来ていた。
「なんでもないよ」
 静馬は自分でも驚くほど優しい声が出て、それが不思議だった。
「はい、ビールと灰皿」
「ありがとう」
 静馬は差し出されたそれらに手を伸ばした。
「ねえ、静馬」
「なんだ?」
 静馬はそれらを手にしたまま、綾乃の顔に視線を向けた。彼女は口角を上げて、困ったような顔を見せていた。
「隣、座ってもいい?」
 小さな声で言った。
「どうぞ」
 静馬は言って、白い歯を見せた。
 彼女は、
「青木さんが赤ちゃんの写真を見せてくれたの」
 と言いながら彼の右隣に腰を下ろした。
「俺も見せられた」
 静馬はビールを一口飲み、灰皿を置いた左隣の椅子に乗せると、胸ポケットから煙草の箱を取り出しながら、
「元気だったか?」
 と訊き、煙草を咥えた。
「うん。静馬は元気ないみたいね。なんだかつまらなそうな顔をしているわよ」
 静馬は紫煙を吐き出してから、
「幹事だからな」
 と言って、便利な言い訳だと心の中で苦笑しながらビールを飲んだ。
「でも、諸岡君は楽しそうにしていたわよ――」
 綾乃は視線を遠くに飛ばし、「今だって」と言った。
「もてなし上手なあいつと一緒にしないでくれよ」
 静馬は煙草を口から離して言うと、ビールを一気に飲んだ。
 ウエイターがお酒を運んで来た。
 静馬はビールをもらいはしたものの、集めた会費を預かっているので、アルコールは一杯で止めておいた方が無難だと考え、ビールを椅子の上に置いた。そうしたら、綾乃に、
「静馬、不良になっちゃったのね」
 と言われた。
 静馬は、責任を感じてアルコールを控えた自分のどこが不良なんだと首を傾げた。
「静馬、煙草は嫌いだってはっきり言っていたじゃない。だから、灰皿って言われた時、すごく驚いたのよ。でも、タバコを吸う姿、なかなか決まっていたわよ。だけど、不良だとも思っちゃったのよ――。いつから吸っているの?」
「なんだ、煙草のことか。さっきは驚いたようには見えなかったがな。この年で煙草を吸って不良はないだろう。勤めて、二、三箇月した頃かな――。家では煙草を吸うのがいなかったから、それが職場では吸うのが多くてな、環境が変われば考え方も変わるさ。爺さんは快く思っていないんだが、どう思われようが知ったことではない。決めるのは俺で、爺さんは関係ない」
 静馬は言うと、綾乃に不敵で勝気な笑い顔を見せた。
 何故か彼女は目を丸くしていたのだが、
「へえ、感心しないけど、感心したわ」
 としみじみした口調で言い、微笑と苦笑の入り交じった笑顔を見せて、左手で自分の髪を撫でている。
 静馬は足元の床にすっと視線を落とした。指輪がふと目に留まってしまったのだが、それがまだまともには見られなかった。
 ひときわ大きな喚声が上がった。見れば、胴上げが行われていた。
 静馬はそれを眺めながら、
「なあ?」
 とぼそっと言った。綾乃も彼と同じものを眺めながら、
「何?」
 と言った。
「俺な、今、考えているんだけど……」
「あら、私もよ」
「何をだ?」
「多分、静馬と同じこと……」
 二人は顔を見合わせ、一呼吸間を置いて、同時に「ぷっ」と吹き出した。
 大学三年の時、ゼミの旅行でそれは起きた。酔った勢いで部屋の中で胴上げをした奴らがいたのだが、勢いがよ過ぎて天井に激突し、大きな穴を開けてしまった。
「あの時は、ほとんど怪我がなかったからよかったけれど、あれ以来、私、胴上げってちょっと怖いのよね――。あの人たち、大丈夫かしら」
「あそこの天井よりは高い」
「でも、シャンデリアが下がっているのよ。ほら、上げている位置がずれて来ているし、そのうちぶつかるんじゃないの。――ねえ、青木さんが引っ張られている、今度は青木さんを投げ上げる気かしら? お父さんになったのにもしものことがあったら」
「そうなっても、それは乗せられた青木の責任だ。綾乃が心配してやることではないよ。怖いんだったら、もう見るんじゃない」
 そう言っているうちに、大柄な青木の体が宙に投げ上げられた。
「うん。そうするわ――」
 綾乃は顔を伏せて目を閉じ、耳を塞いだ。そうしていたら、左の方に、かたんという音を微かに聞き、同時に立ち上がるような気配も感じ、それで顔を上げてみた。
 静馬が気難しくて怖い顔をして、それを前方へ向けていた。胴上げに参加していた男性と祖父が話しているのだ。それに綾乃も気づいた。
 彼女は否定の意味合いを込めて、
「あれは教授を胴上げに誘っている、なんてことはないわよね」
 と言ってみた。
「俺はそう考えている」
 静馬はそちらに目を据えたまま言った。
「そう、やっぱり考えていたのね……。でも、いくらなんでもそんなことしないわよ」
 彼女はあくまでも否定的に捉えていた。
 しかし、静馬は、
「胴上げをしている奴らをよく見てみろ。あいつら、目立つのが好きで、無謀なことを好んでしていただろう。それにかなり酒が入っているようだ。酔っ払いのやることはわからない。何よりも、あの爺さん、やる気になりつつある」
 と、確信したように言った。
 彼女はもう一度よく見てみた。
「静馬がそう思うんだったら、そうかもしれないけれど……。でも、あそこに諸岡君がいるわ。もしそうなっても、その時には彼が止めるわよ」
 孝明は、ホテル側の担当者の男性と顔を見合わせていた。
「爺さん、このところ無茶をすることが多いんだ。ここでひとつ灸を据えてやるよ」
 静馬は言って、好奇心旺盛なのもほどほどにして欲しいと思って眉を顰めた。そうしたら、綾乃に、
「静馬、たくましくなったね」
 と言われた。彼女はとても嬉しそうに顔を綻ばせている。
 静馬はどうしたわけか、身体が熱くなって行くのを感じていた。
「直ぐ戻って来るから、待っていろ」
 覇気のこもった声でそう言ってふっと笑いかけると、充実感に包まれながら大股で歩いて行った。
 祖父に注意する静馬は、周囲の注目を集めてしまった。彼は断ったのだが、祖父や孝明と並んで椅子に無理矢理座らせられ、取り囲まれてしまった。その中心となっているのは胴上げをしていた連中で、静馬が思っていたとおり、彼らは酔いが回って調子づいていた。次々と言葉をかけられて、その中には自分は支倉グループの会社に勤めていると言うものもあった。静馬は直ぐには解放されそうにないと判断し、観念するしかなかった。
 静馬は人と人の間から綾乃を盗み見た。彼女の左右の椅子には、彼が灰皿を置いておいた椅子にも、人が座っていた。彼女には彼女の世界ができているようだった。
 やがて綾乃は椅子から立ち上がると、会場から出て行ってしまった。
 つまらないことになってしまった――。
 そう思った静馬は、ふと彼女の左手の使い方が不自然だったような気がして来た。彼女は右利きのはずなのに、受付でもそうだったが、左手の方をよく使っていた。左手で持っていた灰皿を渡してくれたあと、その手を静馬の前でちらつかせるようなこともした。その時、彼は意識して左手から、と言うよりも指輪から視線を外していた。
 指輪には石がついているのを、彼は受付で会費を受け取った時に見ていた。石の色までははっきりと憶えていない。白っぽかったような気も、青っぽかったような気も、翠っぽかったような気もする。
 間に合わなかった――。
 静馬は思わず心の中で言っていた。昔、母親のあとを追いかけたことが思い出されて来た。
 彼は、取り残されたような寂しさを感じていた。





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