落花流水 1


 平日の昼日中。オフィス内は、電話の呼び出し音、人の話し声や動き回る音、扉を開け閉めする音、キーボードの打鍵音など、様々な音が入り交じって騒がしい。
 その喧噪の中で、支倉静馬(はせくらしずま)は、周囲の喧騒とは一線を画す静けさを醸していた。
 そんな静馬の雰囲気を破ったのは、携帯電話の着信音だった。
 その音に、自分のデスクの椅子に腰かけ、机の上に広げた雑誌を読み耽っていた静馬はふっと我に返った。
 着信音は、デスクの隅に置いた静馬のセカンドバッグの中からしていた。
 仕事用の携帯電話は会社から支給されていた。けれども、今、鳴っているのはそれではなく、身内や親しい人向けの静馬個人の携帯電話である。
 この時、静馬は、あることが脳裏に浮かび、ひどく嫌な感じがした。そうかと言って避けて通れないことでもあり、もやもやとした気持ちでバッグの中から携帯電話を取り出した。そして、発信者を知るや否や、背筋に悪寒が走った。
 ちなみにあることと悪寒とは関係ない。
 発信者は、静馬の学生時代からの悪友であり、傀儡師(かいらいし)の異名をとる男、諸岡孝明(もろおかたかあき)であった。
 静馬が孝明に対してぞくぞくとした寒気を感じるのは、不運に見舞われる前触れ。それは、孝明との付き合いの中で磨かれて行った危険予知能力のなせる業だった。
 静馬は渋い表情で電話に出ると開口一番、
「俺は、お前と話すことはない」
 と、あっさりきっぱり言い切った。
<僕が、静馬と話したいんですよ>
 孝明は妙な色気を含んだかすれ声で切なげにそう返して来た。
 静馬はあたかも耳の中にふっと息を吹きかけられたような感覚を覚え、全身にぞわぞわっと鳥肌が立った。その不快感にじっとしていられず、くるりと椅子を半回転させて身体ごと背後の窓の方に向いた。
 窓にはブラインドが下ろされていた。その隙間から、春の陽光が差し込んでいる。
 静馬は、窓の外には光が溢れているのだろうと思いつつ、自分の中には黒雲が立ち込めて行くような感じを味わっていた。
「八方塞がり……」
 そんな言葉が思わず口からこぼれ出た。
 耳に当てたままの携帯電話から孝明の声が流れて来た。
<静馬。今夜、僕と会えますか?>
 これは普通の口調だった。
「今夜は、先約がある。俺は今、猛烈に忙しい。じゃあな」
 静馬はつっけんどんに早口でまくし立てると携帯電話の電源を切り、安堵のため息を漏らしながらそれを閉じるとバッグの中に戻した。そして、やれやれ、と心の中で呟きながら椅子から立ち上がると窓辺に寄り、ブラインドに隙間を作って外の景色を覗いた。そうしながら、先頃行われた人事異動の内容について考えていた。
 静馬の仕事に直接影響を及ぼすような異動はなかった。
「静馬は今、猛烈に忙しいはずですよね?」
 そんな声が突然、静馬の耳に届いた。
 静馬は反射的に振り返り、思わず息を呑んだ。デスクの向こう側には、何故か孝明がいた。静馬は口を、あ、の形に開いたものの、言葉は出ず、思考も止まっていた。
 挨拶のつもりだろう、孝明がにこりとした。その手には携帯電話を持っている。それを見せびらかすように静馬に向かって振ると、視線を静馬から机の上に移動させた。
「雑誌なんか読んでいて、暇そうじゃないですか」
 突っ込みを入れるような口調で孝明は言うと、前屈みで雑誌を覗き込んだ。
 呆然と立ち尽くしていた静馬は、孝明の態度に不快感が込み上げて来た。
「それは仕事だっ」
 静馬は、怒気を含んだ声でそう言いながらデスクに戻ると雑誌を閉じ、孝明の顔に鋭い視線を当てながら椅子に腰を下ろした。
 しかし、孝明は、静馬の視線などおかまいなしにひたすらにこにこしている。
 このにこにこ顔、この微笑こそが油断ならないものだった。
 孝明と言う男は、人を意のままに操る技を持っていた。こうして穏やかに微笑んでいる時が、最も危険だった。この穏やかな微笑みの陰で、密かに粘っこい糸を張り巡らせている。ぐずぐずしていると、その糸に絡め取られてしまう。そのことを、静馬はよく心得ていた。
「ったく、ふざけたことをしてくれて――。それで、今日は、どんな土産を持って来たんだ。お前に限って手ぶらってことは、まず考えられない」
 静馬は孝明を真正面から見据えている。積極的に切り込んで活路を開くのが、静馬本来の遣り方である。完全な八方塞などありはしないと思っている。
 ところが、そんな静馬の毅然たる態度も、孝明には通じない。それは孝明にとって実にからかいがいのあるものでしかなかった。
「静馬は、こういうところには勘が働くから助かります。今日は、静馬に是非ともお願いしたいことがあって来たんですが……今、猛烈に忙しいんでしたよね……やっぱ、悪いかな……今度にしようかな……どうしようかな……はてさて、僕、どうしたらいいのかな……困ったな……」
 孝明は焦らすような言い方をした。
 静馬は、遊ばれているのはわかっている。こちらは遊びたくなどないのだから、適当に逃げてしまえばいいと思う。
 ところが、静馬は逃げることをよしとしなかった。静馬のこの積極性が墓穴を掘る。
 それに遊ばれたままでは、静馬は気持ちが収まらない。そんな静馬の自尊心を孝明は巧みにくすぐる。
 わかっていながら、結局のところ孝明に乗せられてしまう静馬だった。
「手短に済ませろ」
「それは静馬の返答次第です」
 孝明は閉じられた雑誌の上に小型な紙製の手提げ袋を置いた。
 静馬は、どんな厄介事が中に入っているのかと思いながら、手提げ袋と孝明の顔に交互に目を当てていた。
 ――――今年、大学の恩師がめでたく喜寿を迎える。そのお祝いを兼ねた同窓会を、孝明は計画した。それで、静馬にもその幹事を一緒にやってほしい、と言う話だった。
「何で俺なんだ? 俺よりも幹事に相応しい奴がいるだろう」
「静馬こそが、最も相応しいんです。支倉教授は、静馬の大切なお爺さん、でもあるんですから」
 大切なお爺さん、は静馬を落とす殺し文句だった。
 静馬の扱い方を心得ている孝明は、この一言で、静馬が幹事を引き受ける、と確信していた。

 大学教授の職にあった静馬の祖父・慶喜(よしのぶ)は、その道の権威として一目置かれる反面、気さくな好々爺として学生たちに人気があった。教授を退職した後も名誉教授として長く大学に籍を置いていた祖父だったが、静馬の大学卒業に合わせて名誉教授を引退した。現在、好奇心旺盛な祖父は、多彩な趣味を楽しみながら論文執筆も続け、穏やかでゆったりした日々を送っている。
 静馬の父親は英雄(ひでお)、母親は悦子(えつこ)と言う。静馬の曽祖父が始めた小さな事業を受け継いだ二人は、静馬が伝い歩きをするようになった頃から、国内はもとより海外も視野に入れた事業の拡大を図り始め、静馬を祖父母に預けて、国内外を問わず常に飛び回るようになった。
 祖母は、静馬が小学校に入学すると、間もなく亡くなった。
 両親は、静馬が成長するにつれて、海外で過ごすことが多くなった。
 だから、静馬は祖父を親代わりにして育った。
 また、祖父にしても、親代わりとして自分自身に課した責務から、静馬が大学を終わるまで現役を続けたのだった。
 静馬は両親といることよりも、祖父といることを自ら選んでいた。

 孝明は手提げ袋の中身を取り出すと、静馬の前に置いた。それは印刷済みの案内状と少しくたびれた手作り風の薄い冊子だった。
 静馬は案内状を一枚手に取ると、それに一通り目を通し、
「一人で」
 とぽつりと一言呟いた。日時の決定、会場の手配、案内状の用意を一人でやったのか、と訊いている。
「一人で」
 孝明もぽつりと一言答えた。ここは、つうかあの仲のだった。
「それで、俺に何をさせる気だ?」
 静馬は孝明の顔に目を当てた。
「静馬には宛名書きと発送、それに出欠の取り纏めをお願いしたいんです」
「ここまでやったんなら、最後までお前が一人でやればいいだろう」
 静馬は手にした葉書を扇ぐように動かしながら言った。
「ここまで一人でやったから、もう疲れたんです」
 孝明はそう言いながら静馬の背後に移動すると、静馬がしていたようにブラインドに隙間を作って外を覗いた。
「それは、ご苦労様でした――。あのな、孝明さんよ。俺、不思議に思ったんだが、返信の宛名のところ、俺が印刷されているよな?」
 静馬は、実にのどかな口調でそう言うと、大袈裟に首を傾げるしぐさを見せた。
「流石は静馬さんっ、よくぞそこに気づいてくれましたっ」
 振り返りながらそう言った孝明は、嬉しそうに人差し指を立てて静馬の横に立った。
「でも、静馬、がじゃなくて、静馬の名前と住所、が印刷されているですよ」
 ご丁寧にも、孝明はそう付け加えた。
「あのな、そんなのはどっちでもいいし、俺じゃなくても気が付く――。幹事のところにも俺の名前があるし――。お前、最初からそのつもりだったんだろう?」
 苛立ちを含んだ言い方で始まり、呆れを含んだ言い方で終えた。そして、静馬は葉書に書かれた孝明の名前を、恨みを込めてぱちんと指で弾いた。
「今のぱちん、静馬の名前にも当たりましたね」
「言うな」
「何と言っても、静馬の大切なお爺さん、のためですから」
 孝明はそう言うと身体を曲げて、
「引き受けてくれますよね?」
 と、静馬の顔を下から間近に覗き込んで来た。これに、静馬は思わず身体を引き、これ以上のやり取りは時間の無駄でしかないと悟り、
「わかった」
 と、顔と声を引き攣らせながら答えた。
 孝明は静馬の返事に満足した様子で、静馬の机を挟んだ正面に戻ると冊子を指差し、
「これは学生の時に渡された、僕の持っていた名簿です」
 と、真面目な口調で話しながら名簿を開いた。
「見ればわかる。俺のも、家捜しすれば出てくるだろう」
「ここには、皆の学生当時の住所と実家の住所が載っています。実家の住所に送るのが、間違いがないと思うんです」
「そうだろうな。まっ、お前に言われなくても、俺はそうした」
「住所や姓が変わった人もいると思いますから、この機会に新しい名簿を作って、当日、皆に渡そうかなと考えているんですが」
 そこで孝明は言葉を止めた。どいういわけか、黙ったままでいる。
 それで、それまで孝明の手に目を当てていた静馬は視線を上げた。と、意味ありげな笑いを浮かべている孝明の顔が、静馬の目に入った。
 静馬は直ぐにぴんと来た。
「おい、孝明さんよ。それも俺がやるのか?」
「大切なお爺さん、のためですから、お願いできますか?」
「ったく、それのどこが爺さんのためだ――。それで全部だな? 俺は、それ以上はご免だ」
「後は、当日の受付けをお願いします」
 静馬は眉を顰めながらも、このちゃっかり屋の孝明に振り回されている自分のことが、何だかおかしくなって来た。
「ふっ」
 と小さな笑いを漏らし、
「ああ」
 と呟いて目元を緩めた。そして、先程から気になっていたことを口にした。
「なあ、孝明。爺さんは、このことを知っているのか?」
「教授には、もうお知らせしてあります。楽しみだって、それは喜んで」
 この孝明の言葉を遮るように静馬は、
「俺は、爺さんから何も聞いていない」
 と凄みのある低い声で言った。孝明を見る目つきが険しくなっていた。
 孝明は、今日初めて静馬の視線を痛いと感じ、そろそろ帰る潮時だろうと思った。
「僕、そろそろ会社に戻らないと叱られますから。静馬、お願いしましたよ」
 そう言うや否や、静馬に背中を見せて歩き出した。と、後方で、ばんっ、と言う音がしたかと思ったら、
「待てっ、孝明っ、お前っ、爺さんに口止めしたなあーっ」
 と、大きな声がした。
 静馬が机を叩き付けて立ち上がり、声を張り上げたのだ。
 静馬は祖父のことになると恐ろしいほど真剣になり、人から見たら些細に思われることでも、こうして激昂することがあった。静馬の脳裏に浮かんだあることとは、祖父が倒れた、であった。
「逃げるな孝明っ、俺の話しはまだ終わっていないっ」
 静馬の声がオフィス内に響き渡った。だが、孝明は背後を振り返ることなく、その姿はドアの向こうに消えて行った。
 この様子を見守っていたのは、静馬の下に配属されたばかりの新人一人だけ。この展開に目を丸くしている新人は、どこからともなく「慣れろ」と声をかけられた。
 静馬はぶつぶつ言いながら、椅子を引き座り直すと名簿と案内状に目を向けた。そして名簿を手にすると、その表紙をじっと見詰めた。
(同窓会か……あいつは、どうしているんだ……)
 そんな考えが、ぼんやりと脳裏をよぎった。
 静馬は大きく息を吐き出した。そして手提げ袋の中に名簿と案内状を戻し、それをセカンドバッグと並べて置いた。そうしてから、あいつの顔を思い出せるか試してみようと思い、机の上に腕を組んで乗せ、顔を伏せて瞼を落とした。
「支倉さん――」
 そう呼びかけられて、静馬ははっとして瞼を上げた。視界に書類が入った。静馬に判を押してもらおうと、部下がいつものように書類を差し出したのだ。
 静馬が書類に目を通していると、机の上の固定電話が鳴った。取引先からの電話だった。静馬は雑誌を開くと、その記事について電話の相手と話し始めた。そうしながら部下に目配せすると、部下は小さく返事をして自分のデスクに戻って行った。

 平日の昼日中。ざわざわとして落ち着かないオフィス内。そこは、思い出に浸るのには不向きな場所だった――――。





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