野辺の邂逅 1


 その日は休日であった。
 野上初音(のがみはつね)は花瓶の花に目を止めた。花が枯れかけている。
「お花、取り替えましょうね」
 初音は清らかな微笑みを浮かべ、そう囁きかけた。それからスーパーの開店時間に合わせて、
「お花、買いに行って来ます」
 と声をかけ、アパートの1DKの自宅から出かけて行った。歩いていたら、シャンプーの残りが少なかったことを思い出した。ついでに買って来ようと考えた。
 初音は道を折れた。その曲がった角から真っ直ぐにもっと行くと、左側に目指すスーパーがある。初音の足の運びがいくらか速くなった。ところが、その足の運びが道の中途で止まった。その時、初音の目は、会社の知人女性の姿を捉えていた。その女性は三つ年上の先輩で、親切な気のいい人であり、初音とも仲がよかった。その女性がスーパーの中へ男性と一緒に入って行った。
(先輩の恋人だわ)
 男性のことをそう直感した初音は、あそこはやめよう、とスーパーに背中を向けた。とにかく今は先輩と顔を合わせたくなかった。あそこにしよう、と今いる場所からわりと離れている、いつもはほとんど立ち寄らないホームセンターをなんとなく考えた。
 そうして行き先の変更を決めた初音は、どうか知り合いに会いませんように、と半ば願うように思いながら、ホームセンターに向かって神経を張り詰めて歩いていた。
 知り合いに会うことなくホームセンターに到着した初音だったが、到着して直ぐにがっかりした。このホームセンターでは切り花を売っていなかった。
 初音は、ないものは仕方ないと諦め、せめてシャンプーだけはここで買って行こうと慣れていない店内を、知った顔がいないか気にしながら、シャンプー売り場を探し見つけた。だが、愛用のシャンプーはなかった。正確には愛用のシャンプーの陳列場所は棚に設けられていたが、そこにシャンプーは陳列されていなかった。
 初音は膝の高さにある棚を身体を屈めて奥まで覗き込んでみたが、やはりシャンプーはなかった。踏んだり蹴ったりだ、と重く沈んだ気持ちで棚を眺め回していたら、棚の最上段に目的のシャンプーを見つけた。それで棚の最上段に向かって手を伸ばしたのだが、ただ手を伸ばすだけでは届かない。どこかに踏み台がないかとその辺を見たが、直ぐに踏み台のことは諦めた。自力でなんとかしようと棚に掴り爪先立って思いきり身体と手を伸ばしたが、あと少しだけ届かない。と、初音の視界に手がもう一つ入って来た。
 初音が思いきり手を伸ばしても届かなかったシャンプーに、その手はいともたやすく届いた。そしてその手がシャンプーに触れたのとほぼ同時に、
「これでいいのか?」
 と、聞き覚えのない男性の声が初音の耳に届いた。
「はい」
 初音は棚の上に目を向けたまま返事をし、シャンプーを取ってくれるのだとわかって、伸ばしていた手を引っ込めた。
 初音にシャンプーが差し出された。
「ありがとうございます」
 初音はお礼を言いながらシャンプーを受け取った。それまで初音の関心はシャンプーにばかり向けられていた。ところが、シャンプーを受け取ったその時にふと、ここ一年近くの間にすっかり慣れ親しんでしまった香りがすることに気づいた。それはお線香の香りであった。そしてその香りは、シャンプーを取ってくれたこの人から香って来るのだと感じた初音は、香りに誘われるように顔を上げ、初めてその人の顔に目を当て、はっとした。
(――オッドアイ?)
 初音はそう思った。この人のように、左右で瞳の色が違う外国の俳優のことを思い出したが、その俳優の瞳の色を明確には記憶していなかった。今、初音の目の前にいるのは、右の瞳はありふれた茶色だが、左の瞳がすみれ色をした青年だった。
 初音は、青年の美しいすみれ色の瞳に吸い込まれて行くような不思議な感覚を覚えながら、
(――綺麗)
 と、心の中でため息を吐いた。
 一方、その青年も初音の顔に目を当てながら何か考えている様子を見せていたのだが、直に何事もなかったかのように無言で去って行った。
 初音はその場に立ったまま去って行く青年の姿を見守り、その姿が視界から消えると、
「――男の美人ているのね」
 と、ため息交じりに呟いた。
 青年にしてみれば通りすがりのなんということもない些細な出来事に過ぎないのであろう、と初音にはわかっている。しかし、見ず知らずの青年が見せてくれた気負いのない心遣い、何気ない小さな親切を、初音は心底ありがたいと思えた。良くないことが続いて重く沈んでいた心に、青年の親切が素直にじんわりと沁みて、初音はなんだか少し気分が晴れたような気がしていた。
 かくして、オッドアイを持つ美丈夫は、その身に纏ったお線香の香りとその美しいすみれ色の瞳、そしてその行為によって、初音の心に強い印象を残した。

 初音はアパートに戻って来た。
「ただいまー、帰ったわよー」
 初音は玄関のドアを開けながら帰宅を知らせる挨拶をした。だが、部屋の中からは誰も出て来ないし、返事もなかった。部屋はひっそりと静かだった。
 初音はキッチンに置かれた小さなダイニングテーブルの上に買い物袋と花束、肩にかけていたバッグを乗せると隣の部屋に入った。八畳ほどの洋室で、部屋の片隅には小さなテーブルがあり、その上には小さな仏壇が置かれている。仏壇には平凡な顔立ちの青年が柔和な笑みを浮かべている写真と、戒名を手書きした紙が供えてあるが、位牌はなかった。
 初音は仏壇の脇に置かれている花瓶を持ってキッチンに戻り、枯れかけた花を新しい花と取り替えた。そしてそれを仏壇に供え、仏壇の前に正座してお線香を上げた。

 一年前、結婚の約束をした恋人・浩市(こういち)は、初音に会いに来る途中に建設現場で起きた足場の崩落事故に巻き込まれて亡くなった。
 浩市の葬儀が終わったあとだった。初音は憔悴した浩市の母親からやんわりと言われた。
「浩市とは縁がなかったと思って早く忘れて下さい。亡くなった者を偲ぶのはこの年寄りに任せて、若い初音さんには新しい幸せを見つけて欲しいのよ」
 傍で聞いていると初音への心遣いとも思える、いかにも母親の優しげな言葉だった。
 息子の愛した人の将来を案じてくれているんだ、と初音は何度も自分に言い聞かせようとしたのだが、駄目だった。浩市の母親とは最初から馬が合わなかった。母親だけが浩市と初音の結婚をなかなか認めようとしなかった。娘は二人、息子は浩市一人だった。
 ――――お前と会わなければ浩市は死ななかった。お前のせいで浩市は死んだ。
 母親のそんな声には出さない初音に対する恨みの気持ちが、母親の優しげな言葉には込められている、と初音は感じざるを得なかった。愛する息子を亡くした不幸で悲しい母親は、初音のせいだ、と初音を恨むことによって自分を慰めているんだ、と初音は思ってやれないこともなかった。とは言え、いわれない恨みを抱かれた初音は言うべき言葉を失った。
 母親の仕打ちは結局のところ理不尽であり、その仕打ちは愛する恋人を失った初音の心を完全に打ちのめした。
 浩市の父親が声をかけてくれた。
「いつでも会いに来てやって下さい」
 その言葉に、なすすべもなくその場に立ち尽くしていた初音は父親に目を当てた。疲れた様子ですっかりやつれた父親は、初音を、あるいは自分自身を慰めるかのような複雑な笑みを顔に貼りつけていた。だが、父親の後ろでは、目を赤く泣き腫らした二人の娘に支えられている母であり女でもある人が悲しみと憎しみに顔を歪ませ、そんなこと決して許さないと言うような鋭く冷たい眼差しで初音を威圧していた。
 ――――浩市の死、この悲しみを分かち合う人が私にはいない……。
 初音は荒涼たる砂漠に一人立つような心地だった。
 悲しみを一人で抱え込んでしまった初音は、小さな仏壇を買った。
「私に会いに来るために、浩市は死んだ……私と出会わなければ、浩市は死ななかった……浩市、お義父さん、お義母さん、ご免なさい……」
 悲しみはいつしか自分自身を責めるものに変わり、懺悔と、そして思慕の念を込めて線香を上げ写真に語りかけることが多くなって行った。いつまでもこれではいけないと思うのだが、浩市を失ってから気持ちの奮い立つことがなくなった。離れて暮らす両親や事情を知る人たちに心配をかけまいとして努めて明るく振舞ってはいるが、そうすることがかえって気力を奪い、一人になるとどっと疲れた。
 虚脱感に襲われ続け、空虚な日々を初音は送っていた。

「あのね浩市、ホームセンターでね、すっごく綺麗な男の人に会ったのよ。その人、左右の瞳の色が違っていて、右は浩市や私と同じ茶色なんだけれど、左が綺麗なすみれ色をしていて、あれをオッドアイって言うのよね。ほら、俳優さんでもそう言う人がいるじゃない。でも、実際に会ったのは私、初めてよ。それでね、その人からお線香の香りがしたの。あれはコロンとかじゃなくてお線香よ。――何でかしらね? ちょっと不思議な感じ、神秘的な雰囲気があったわ。――それでね、その人を見て、男の美人ているんだなって思っちゃった。うん、格好よかった。――ねえ、私が他の男の人を褒めたから、浩市、妬いた?」
 初音は床に両手を突いて身を乗り出し、悪戯っぽい笑みを浮かべた顔を浩市の写真に近づけた。写真の浩市は、表情を変えることも答えることもしてはくれない。
「――浩市、なんで黙っているの。なんで浩市はいつも何も言ってくれないの? ――なんでなのよっ!」
 悲しくて寂しくて嗚咽する声は漏れるものの、涙は流れなくなって久しい。
 浩市のために涙さえ流すことができなくなった自分を責め苛みながら、初音は立ち上がった。その途端、眩暈がしてその場にしゃがみ込んだ。
 初音はここ数日、浩市が悲しい顔をして黙ってこちらを見詰めて来る夢を見る。浩市が何も話そうとしてくれないので、こちらから浩市に話しかけようとするのだが、そこでいつも目が覚めてしまう。そんなことで、眠りが浅くなっていた。それに食欲がなくて、食事をするのが億劫になっていた。
 実は、浩市の一周忌が近づいているのだが、初音にはなんの音沙汰もない。
 浩市の父親が初音の勤め先に一度だけ訪ねて来たことがあった。家内には内緒で来たと言って、四十九日忌法要と納骨式を済ませたこと、墓地の場所を教えてくれた。
「いつか、家内の気持ちもほぐれる日が来ると信じている。その時は、初音さん、どうか受け入れてやって下さい」
 それが葬儀後、浩市の家族との最初で最後の接触だった。
 そんなことを思い出しながら、初音は頭を押さえ肩で息をしながら、
「お墓参りに行こうかしら……」
 と呟いた。なんだか浩市が墓地で待っていてくれているような気がしていた。

 いつものことだが、初音は墓地に近づくにつれ、緊張が増して来る。もし、浩市の身内の姿を見かけたら、逃げるつもりでいた。別に悪いことをしているわけではないのだから堂々と顔を合わせればいいと思うのだが、そうできる自信がなく、顔を合わせるのが怖くもあった。
 墓地には今、浩市の身内の姿はなく、初音はほっと緊張を解いた。
 初音は手桶と柄杓を借りると水場で手桶に水を汲んだ。墓石に打ち水をして水鉢に水を入れ、花を供え、お線香に火を点けて香炉に置き、数珠を手にかけて墓前にしゃがんだ。そして心の中で浩市に語りかけた。
(浩市、私に言いたいことがあるんじゃないの? ここに来れば浩市の声が聞こえるような気がして……来なければいけないような気がして……だから私、来たのよ)
 墓石を見詰める初音の脳裏には浩市と過ごした日々が浮かんで来ていた。初音は静かに瞼を落とすと耳を澄まして浩市の声が聞こえて来るのを待った。だが、初音の耳に聞こえて来るのは、鳥の鳴き声と往来を行く車の音、微かな微かな風の囁き。
 お線香が燃え尽きた。
 初音はまだ動かなかった。
 浩市の声は一向に聞こえて来なかった。
 お線香が燃え尽きたあと、暫くしてから、初音は諦めたように深く長いため息を吐くと立ち上がった。するとまた眩暈と、今度は吐き気まで催した。
(手桶と柄杓を返さなくてはいけない)
 何故かそんなことを初音は考え、返せ返すんだ、とまるで誰かに強迫強要されているかのような気持ちで歩き出したが、ついに耐え切れなくなって身体を丸くしてしゃがみ込んでしまった。胸痛と動悸と吐き気、背中を冷や汗が流れ、意識が薄れて来る。
 そんな中で、浩市、浩市、と初音は亡き恋人に助けを求めていた。浩市、浩市、私を連れに来て、連れて行って、と声にならない声で叫んでいた。





                                         HOME 目次 次の頁