何処まで行こうか 3


 香澄は息を殺し、足音を忍ばせて二階の廊下を進み、俊彦の部屋のドア前に立った。さすがにいきなりドアを開けるのは気が咎めて、二回ノックした。人差指と中指の関節で軽く叩いたのだが、ノックの音は静まり返った家の中に嫌に大きく響いた。
 直ぐにドアの向こうから「はい」と返事が返って来た。
 香澄はぎょっとして、思わず回覧板を抱き締めて身体を硬くした。これはまずいことになったと思い、どうやってこの場をごまかそうか考えた。
 「なんだよ」という声と同時にドアが引き開かれた。が、次には、「香澄ちゃん?」という声とともにドアがさっと大きく開かれ、俊彦が現れた。頭はぼさぼさ、トレーナータイプのパジャマはよれよれで、いかにも今起きたばかりのような感じだった。
「てっきりお袋かと思った」
 俊彦は戸惑った様子で言った。
 かける言葉を探していた香澄は、そうだった! と思い出した。
「回覧板でーす」
 そう言ってそれを差し出しながら俊彦の視線から逃れるように頭を下げた。俊彦から呆れているような、怪しんでいるような空気が伝わって来て、香澄は身の置き所がなかった。
「お袋と親父は何をしているんだ?」
 俊彦はそう言って回覧板を受け取った。
「俊彦君が回してくれると言って、お二人で出かけました」
 香澄はそう言いながら、ためらいがちに頭を上げた。
「温泉か? もう行ったんだ。ばたんって音がして目が覚めて、あれはうちの車の音だったのか。――それで香澄ちゃんはわざわざここまで持って来てくれたの? そこまでしなくても良かったのに、ありがとう」
 俊彦はそう言って香澄に笑いかけた。
「いえ、どういたしまして」
 良い方に解釈してくれたようなので、香澄はほっとして顔を緩ませた。
 俊彦は何か考えるような表情を見せたかと思ったら、口を開いた。
「ちょっと待っていてもらえるかな?」
「うん? いいわよ」
「今日、香澄ちゃんのところに行くつもりだったから丁度良かったんだけれど、この格好じゃ俺が良くないから」
 俊彦はドアを開けたまま部屋に引っ込むと雨戸を開けた。澄んだ陽光が室内を照らし、中の様子をはっきりと見せてくれた。ベッドの上の毛布は乱れていたが、それ以外は小奇麗に片づいていた。両親が彼に家の手伝いをはじめ諸々のことを責任を持たせてやらせていたので、彼は子供の頃からこういう風に身の回りをきちんとしていて、家事も一通りこなせた。
 香澄は部屋の出入り口にぼうっと突っ立っていた。
「入ってもいいよ」
 俊彦が言った。
「いいの?」
「遠慮は無用だ。小学校の頃はお互いの部屋を遠慮なく行き来していただろう」
「そうだったわね」
 香澄は彼の誘いの言葉を嬉しく思いながら室内に足を踏み入れた。そうしたかったのだ。十年ぶりくらいに入ったその部屋のにおいは、記憶していたものとは違っていた。これは男の人のにおいだと思った。
「相変わらず片づけが上手ね。弟の部屋なんて足の踏み場もないのよ。埃は積もっているし。俊彦君を見習って片づけなさいって言ってやろうかしら」
「そういう風に誰かを引き合いに出して、何かをやらせるようなことは、止めた方がいい。人には自分に合ったやり方がある」
 香澄は感心したように目を細め、
「今の言い方もそうだけれど、俊彦君を見ていると余裕があるなって思うわ」
 と言った。
「そうでもないんだけれどな……。俺は負けず嫌いだ。だが、世の中には頑張っても越えられないものがあって、これが厄介なんだ」
 俊彦は回覧文章に目を落としながら独り言のように言った。
 香澄は、急に彼の雰囲気が変わったような気がして、
「なんか湿っぽいわね」
 と言った。ところが、俊彦は、
「文化ホールに少年合唱団が来るんだ。全席指定で五千五百円。でも、火曜日の十八時からじゃ、無理だな。――天使の歌声があなたの心にひびく……心がぽっとあたたかくなる贈り物」
 と、また独り言のように呟きながら、回覧文章に見入っていた。
 香澄は、間が持てなくてきょろきょろした。そうしたら、本棚に子供の頃読んだSF漫画の単行本があるのに気がついた。
「懐かしいもの見つけた。ねえ、漫画見てもいい」
 香澄はそう言い、本棚の前に移動した。背後から「どうぞ」という声がした。香澄は、二人で頭をくっつけるようにして読んだ時のことを思い出しながら、単行本を手にして開いた。するとまた背後から、「こっちを見るなよ」と声がした。見るなと言われれば見たくなるもので、香澄は反射的に振り向いた。
「何しているの?」
 香澄は訝しく思って言った。俊彦はトレーナーの上着を脱いでランニングシャツになっていた。
「着替えるんだよ。見るな」
「ああ? はい」
 香澄は手と単行本で顔を覆った。が、隙間を作ってしっかり見ていた。俊彦はランニングシャツも着替えるつもりらしくて、それも脱いだ。次にズボンを下ろしかけた。下着が見えた。香澄はくるりと身体を返すと単行本を本棚に戻した。
 着やせするたちだったのね。あんないい体をしているなんて反則よ。まるでギリシャ彫刻の男性像のような体だわ……。
 そう思った香澄の瞼に彫刻の男性裸体像が浮かんで来た。ところが、何故か顔が俊彦だった。香澄は思わず、消えて! と心の中で叫びながら目を閉じた。しかし、それでかえって想像が膨らんで行った。頭の中がそれで埋め尽くされてしまった。
 「もういいよ」という声がした。香澄は、はっと我に返って視線を巡らせた。俊彦はティーシャツを着てジーパンを履いていた。香澄は自分の想像を思い出してしまって、顔を赤くした。
「香澄ちゃん、どうしたの?」
 俊彦が寄って来た。
「どうしたのって、何が?」
 香澄は狼狽した。
「顔が赤いからどうしたのかと思って」
「ああ、暑いのよ」
「そうだね。初夏を思わせる陽気だね。――香澄ちゃん、香水か何かつけている?」
「何もつけていないけれど、何かにおうの?」
 香澄は手の甲のにおいを嗅いでみたが、自分ではわからなかった。
「愚問だったな。これは香澄ちゃんのにおいだ。でも、いつもより強く香っている」
 俊彦はそう言うと、香澄にずいと顔を近づけた。
「このにおいは俺に向かっているのかな? そうだったら嬉しいな。別に嫌なにおいじゃないから心配するな。むしろその逆。いいにおいだ」
 俊彦は香澄の首に鼻を寄せてくんくんとやりながらそう呟いた。
 香澄は息をするのもためらわれ、目を見開いたままひたすらじっとしていた。動けず、考えられずの状態だった。
「今夜、飲みに行かないか? 俺が奢るよ」
 俊彦はそう言いと香澄から離れた。
 香澄は思わず床に向かって大きく息を吐いた。
「初給料で香澄ちゃんと飲みに行こうと決めていたんだ。就職祝いのお返しをまだしていないだろう。これがお返しだ。今日、誘いに行くつもりだったんだけれど、香澄ちゃんの方から来てくれた」
 俊彦は嬉しそうな顔で言った。
「就職祝い? ああ、ネクタイのことね。待っていてってそういうことだったのね。――俊彦君と飲みに行くなんて初めてね。初給料って嬉しいわよね。そういうことだったら、喜んで行くわ」
 香澄は、徐々に平常心が戻って来て、思考力も働き出した。
「初給料と言えば、俊彦君は学生時代、バイトを頑張っていたんでしょう? いつだったかうちの母が言っていたわ。目的があるからバイトをするんだとは言っているけれど、その目的がなんなのかは言おうとしないって。そんな意味のことを俊彦君のお母さんから聞いたって。私、それが気になっていたのよ。目的ってなんなの。もう達成したの」
「まだだ。どうしても欲しいものがある。それはこの世に一つしかないもので、誰かに先に持って行かれるかもしれないという不安といつも隣り合わせだった。これまでだって手に入れられないわけではなかったんだが、学生のうちでは俺自身がそうすることを納得できなかった。俺にとって幸いなことは、これまでそれが手に入れられる範囲にいてくれたことだ。尤も、危機感を抱いて、さあ、どう出ようかと考えたことも何回かあったが、どれも大事には至らなかった。だが、次はどうなるかわからないからと焦っていた」
「ふーん。この世に一つしかなくて誰かに取られちゃうかもってことは、オーダー品で数量限定ってこと? 職人さんの手作りだと何年も待つことがあって、受けられる仕事にも限界があるって言うわよね。なんかすごいものって気がして来たわ。かなり値も張るんでしょう」
「ああ、すごいものだ。それなりに費用もかかるが、それよりも何よりも一生背負う覚悟がいるもので、その為には自分を鍛える必要があった。――まあ、あれやこれやあって、俺も踏み出せないでいたんだけれど、そろそろいいかなと思うようになった」
「はあ? 言っていることがなんだか抽象的で良くわからないわ」
「誰にも言ったことはないんだけれど、香澄ちゃんになら教えてやってもいいよ」
「本当? 教えてよ」
 香澄は期待に目を輝かせた。
「それはこの部屋にある」
「えっ? だって今、まだだって言ったでしょう」
 香澄は怪訝に思いながら室内を見回した。しかし、この世に一つしかないような珍しいものは見当たらなかった。
「どれがそれなの? わからないわ。隠してしまってあるの……。あっ、わかったわ。カタログがあるのね」
 香澄の目は本棚へと自然に向いた。
「違う。俺の直ぐ目の前にあるよ」
 俊彦は言った。
 香澄は何か予感を感じながら、彼の顔に目を据えた。
 俊彦は目を細め、
「香澄ちゃんのことだよ」
 と言って、指先を香澄の鼻のてっぺんに当てた。
「甘えて俺の背中に乗って来たちびの香澄ちゃんが、俺の背中の上で姉さん風を吹かせるようになった。そうしたらそのうち本当にお姉さんらしくなって、俺の背中から下りて、俺の前を歩くようになった。悔しくて寂しくて、憎らしくて愛しかった。学生時代の一年は大きいんだ。どうやったって追いつけない。早く並んで歩きたいと思っていた。――好きだよ。もらってもいい?」
 俊彦の指が鼻のてっぺんから唇に移動し、唇を撫でる。
 香澄は喜びに心を震わせながら瞼を落とした。頬をそっと押さえられ、唇を柔らかいもので塞がれた。俊彦から口づけされているんだと思った。彼の唇の温かさに、香澄はとろけそうだった。自分は今に溶けてしまって、彼に食べられてしまいそうな気がした。それもいいな、と思った。歯列を割って入り込んで来た舌が口の中を愛撫する。二人の蜜が口の中で混じり合って、どんどん熱く甘くなって行く。
 香澄は甘えるような息を漏らした。
 俊彦の唇が香澄の首に移動した。彼は息遣いを荒くし、身体を火照らせ、服の上から香澄の胸を揉み、腰や尻を撫でていた。
 彼の手がスカートの中に入って来た。
 香澄は、あっ! と思った。今日の下着はまるで色気のないスーパーの特価品だった。この下着では駄目! と心の中で叫んだ。
「あの俊彦君。お母さんが仕事でいないから、お父さんのお昼ご飯は、私が作ることになっているの。だから、もう帰らないと……」
 香澄はスカートの下の俊彦の手を抑えながら言った。
 俊彦は香澄のうなじに唇を這わせながら「んー」と不満そうに鼻を鳴らすと彼女の唇に軽く口づけ、言った。
「六時に迎えに行くから」
 香澄はこくんと頷いた。そして目を剥いた。俊彦の股間がこんもりと膨れていた。勃起しているのを見るのは初めてだった。
 こんな風になるのね……。
 香澄はしげしげと見詰めた。
 香澄の視線がどこにあるのかを知っているのかいないのか、俊彦は、可愛くてたまらないというように目を細めて彼女の頭を撫でていた。

 夕方、香澄はシャワーを浴びて、あれから買いに行った下着を身に着けた。俊彦に贈ったネクタイよりも高かった。
 二人は歩いて行けるところにある小料理屋に向かった。
 俊彦は座敷のある方をちらりと見、店員に声をかけた。
「座敷は空いていますか?」
「空いています」
「俺、座敷がいいんだけれど、香澄ちゃんは?」
「私もお座敷がいい」
 香澄は、今日は最良の日だ、とご機嫌だった。俊彦と二人で飲むお酒は美味しくて、下着もばっちり決めて来たしで、安心感と期待感でお酒の進むこと進むこと。
「香澄ちゃん、ちょっとペースが速すぎない?」
「そう?」
「そんなに飲んで大丈夫?」
「大丈夫よ。私は俊彦君より一年先に飲み始めたのよ」
「あんまり関係ないと思うけれど……」
 俊彦の心配をよそに、香澄は調子に乗って飲んだ。これまでに飲んだことのない量を飲んだ。
「香澄、しっかり歩け」
「んー、しゅっかり、ありゅーてるよ……」
 すっかり酔っぱらってふらふら状態の香澄は、俊彦に支えられて歩いたものの、店の外に出てからいくらも歩かないうちに道にしゃがみ込んでしまった。
「歩けそうか?」
「らいりょーうぶ、ありゅけるよ……」
 香澄はそう言ったものの、膝を抱えて俯いたまま立ち上がろうとはしなかった。
「どうしたらいいんだ?」
 俊彦は頭をかいた。ふと、子供の頃に背中にあった温もりが思い出されて来た。俊彦は優しい笑みを浮かべると、ジャンパーを脱いで香澄の背中にかけた。
「ほら、おぶされ」
 俊彦は地面に片膝を立て、香澄に背中を向けてしゃがんだ。
「んー?」
 香澄は顔を上げた。目の前に大きな広い背中があった。
「これは俊彦君よね?」
「そうだよ。早く乗れ」
 お父さんの背中よりもお母さんの背中よりも好きな俊彦の背中だけれど、いつの間にこんなに大きくなったのかしら、と香澄は酔った頭で首を傾げながら背中におぶさった。
「しっかり掴まっていろよ」
「うん」
 俊彦は香澄を背負って軽々と立ち上がった。

『なあ、香澄』
『何?』
『もし俺が疲れて歩けなくなったら、おぶってくれるか?』
『それは無理よ。でも、抱き締めることならできるわよ』
『それでいい。その時は、頼む』
『うん』
『香澄、どこまで行こうか?』
『俊彦と一緒なら、どこまでだっていいわ』
 俊彦はわざわざ遠回りをして、ゆっくり歩いて帰った。





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