何処まで行こうか 1(子ども時代)


 古田香澄(ふるたかすみ)は、小学校二年生の春休みに隣の市から引っ越して来た。
 それまで団地に住んでいた香澄は、自分がこれから暮らす二階建ての家を見て目を輝かせ、胸をわくわくさせた。新しい家には庭があって、二階には香澄の部屋も用意されていた。
 荷物の運び入れが終わり、引っ越し業者が引き揚げると、香澄は両親に連れられ、五歳下の弟と一緒にご近所に挨拶回りに行った。それから外に食事をしに行って、慣れない浴室に戸惑いながら入浴を済ませたらもう起きていられなかった。
「今日はお母さんと寝てもいい?」
 香澄は言った。これまで両親に挟まれて寝ていたから今日もそうしたくて、自分のお部屋で寝るのは明日からにして、その晩、香澄は母のベッドで寝た。
 翌日、香澄は新しいおうちにいることが嬉しくて、はしゃいでちょろちょろとおうちの中を動き回っていた。後ろから弟がとことこついて来て、香澄のやることを真似していた。そうしていたら、母から自分の部屋を片づけるように言われたので、弟にはついて来ちゃ駄目と言って二階に上がった。自分のお城作りは嬉しいけれど慣れていなくて、なかなか思うように進まなくて飽きて来て、違うことをしたくなった。それで、庭で自転車遊びをすることにして一階に下りた。
 母は弟を遊ばせながら台所を片づけていて忙しそうだった。
 香澄は庭に出た。隣家との境には父の好みで塩化ビニール製竹垣が設置されてあったが、庭にはまだ何もなくて自転車を走らせるにはちょうど良かった。
 香澄は自転車に乗って庭をぐるぐる回った。彼女はほんの数日前に補助輪なしで自転車に乗れるようになったばかりで、頼りない、危なっかしい走り方をしていた。
 直に香澄は自転車遊びにも飽きてしまった。ひとりで遊んでいてもつまらないのだ。
 香澄はフェンスのそばに立って、あっちからだったと思いながら昨日父の車に乗ってやって来た方を見た。さようならをして来たお友だちの顔が一人ひとり思い出され、だんだん寂しくなって来た。
 春風がそよそよ吹いていた。
 突然、香澄は大きなくしゃみを一つした。なんだか鼻がむず痒くて、鼻をこすりながら香澄は見える範囲を見渡した。そこには、どこか白っぽくてぼんやりしている目新しい景色があった。その景色に香澄は好奇心を掻き立てられ、新しい街を探検したくなって来た。
 テラスからおうちの中を覗いたけれど、見える範囲に母の姿はなかった。一人で外に出ないようにと両親から言われていたけれど、直ぐに戻ればいい、自分のおうちなんだからちゃんと帰って来られると思って、内緒で出かけることにした。
 香澄は門扉を音がしないように開けると自転車を押して外に出、そっと閉めた。わくわくしながら自転車に跨り、ペダルを踏み、スカートの裾を翻して、時々ふらふらしながら走った。所々に空き地があり、建築途中の建物が目立つ住宅地の細い道を、鮮やかな青い色の壁のおうちがあるとか、まっ黄色なベランダのおうちがあるとか、黒い猫の絵の描いてある車が止まっているとか、郵便屋さんの赤いバイクが止まっているとか、何があったかを覚えながら走って行った。
 唸るような低い音が後ろの方から聞こえ、だんだん大きくなった。車のクラクションらしき音が激しく鳴ったかと思ったら、香澄は大型ダンプカーに追い抜かれた。
 香澄はダンプカーの風圧にふらついたが、地面に足をついて転倒は免れた。でも、この道は怖いと思って横道に入った。そうしたら前から車が来て、また怖くなって、また横道に入った。香澄はそれを繰り返した。
 探検を楽しむ余裕などもうどこにもなく、車から逃げるように自転車で走り続ける香澄は、自分はどこへ行こうとしているのか、どこまで行ったらいいのかわからなかった。
「ガウ、ガウ、ガウ!」
 恐ろしい犬の鳴き声がした。香澄は、襲いかかられるんじゃないかと気が動転してハンドルを取られた。自転車が左右に揺れた。わけのわからない悲鳴を上げながら数メートルほど走ってから、自転車ごとガシャンと倒れた。
「痛い……」
 香澄は弱々しい声で言うと両手を地面に突いて身体を起しかけた。
「痛い!」
 今度は悲鳴に近い声を上げると、右膝を曲げて立てて抱え込むようにして地面に座り込んだ。それから恐る恐る右膝を見たら、擦り剥けて血が出ていた。
 お母さんに消毒してもらおう。
 香澄はそう思い、急いで帰ろうとしたのだが、どっちに行けばいいのか迷った。来た道を引き返せばいいのはわかるのだが、こっちから来たような気もするし、あっちから来たような気もして、香澄は右に左に首を動かしながら次第に焦りと恐怖を感じ始めた。自分を取り囲んでいる見知らぬ風景が、大きなお化けとなり、牙をむいて襲いかかって来るように思われた。
「おかあーさあーん、おかあーさあーん!」
 香澄は涙を流しながら大声で叫んだ。
「転んじゃったの?」
 そんな声がした。香澄ははっとして、母の顔を思い浮かべながら声のした方に視線を向けた。涙で歪んだ視界に入ったのは母ではなく男の子だった。
「あのさ、僕んちの隣に昨日越して来た人だよね?」
「となり……?」
 香澄は手で涙を拭うと、男の子を良く見た。ひょろりと縦に長いその男の子には見覚えがあった。お隣の門のそばで、そこのおばさんに引っ越しの挨拶をしている時、玄関のポーチに立ってこちらを見ていた男の子だった。
 香澄は、自分を知っている人に会えたのでほっとした。
「僕、大野俊彦(おおのとしひこ)」
 男の子ははきはきと自己紹介をした。
「古田香澄です」
 つられるように香澄も名乗った。
「僕、今度二年生になるんだけれど、香澄ちゃんは?」
「今度三年生になる」
「僕より上なんだ。でも、僕より小さいね」
 俊彦はそう言いながら香澄のそばに膝を曲げてしゃがんだ。
 確かに香澄はちびだった。そして手足は小枝のように細かった。
「香澄ちゃん、こんなところで座って泣いているよりも、早く帰った方がいいんじゃないの?」
 俊彦は香澄の右膝に視線を当てながら言った。
 香澄はむき出しの膝をじろじろ見られるのがなんとなく厭だったのだが、彼がいればおうちに帰られると思って我慢して、彼のしたいようにさせていた。
「俊彦君はおうちに帰るんでしょう? 一緒に帰りましょう」
「ううん。遊びに行くの」
 俊彦は言いながら視線を上げた。
「帰らないの……?」
 香澄はがっかりしながら言った。目の奥が熱く、鼻がつんと痛くなって、また涙が出そうだった。
 香澄の顔をまじまじと眺めていた俊彦は、
「もしかして香澄ちゃん、自分の家がわからないの?」
 と言って小首を傾げた。
「ちっ、違うもん。おうちはわかるけれど、痛くて歩けないだけだもん!」
 香澄は咄嗟にそう言うと、右膝を俊彦に向って突き出した。本当のことを言われて、むきになってしまったのだ。しかし、そんな自分が悲しくなって来て、それに右膝も痛くて、香澄は涙が出て来た。鼻水も出て来た。ハンカチで拭こうと思ってスカートのポケットに手を入れたけれども、ハンカチもティッシュも持っていなかった。仕方がないから、服の袖で顔を拭いた。もう二度とおうちには帰られないような気がして、だったら自分のお部屋で寝ておけば良かったと思った。
 香澄の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
 そんな香澄を見ていた俊彦は、ポケットからハンカチを取り出すと、それで香澄の右膝を縛った。そしてしゃがんだまま身体を返しながら、
「歩けないなら、僕がおぶって家まで連れて行ってあげる。こういうのを、隣のよしみって言うんだ」
 と言って背中を向けた。
 香澄は、よしみの意味なんてわからなかった。ただ、家に帰りたい一心で、鼻をすすりながら俊彦の背中におぶさった。
 俊彦は低いうなり声を上げながらゆっくり立ち上がった。しかし、よろめいた。
「大丈夫、重い?」
 香澄は心配そうに言った。
「重くなんかないさ。しっかり掴まっていなよ」
 俊彦は汗をかき、少しふらふらしながら歩いた。
「香澄ちゃんの誕生日はいつ?」
「七月二十四日」
「本当? 僕は七月二十三日だよ」
「本当? すごいね」
「うん、すごいね。膝小僧、痛くない?」
「痛くない」
「この辺りは道がわかりにくいって、僕んちに来た人が言っていた。僕が香澄ちゃんに道を教えてあげるね」
「うん」
「あの角を曲がれば、僕たちの家が見えるよ」
 香澄が転んだ場所は、家からそれほど離れていなかったのだ。
 二人は角を曲がった。そうしたら、俊彦も香澄も、自分の母親が路上に立っているのを見た。母親たちは顔を見合わせていた。そこには香澄の弟もいた。その弟が香澄たちの方を見た。すると母親たちも顔を動かした。
「香澄!」
 香澄の母親はそう叫ぶと、子供たちに駆け寄って来た。その後ろから俊彦の母親が、香澄の弟を抱いてやって来た。
「どこに行っていたの?」
 香澄の母親はそう言いながら香澄を俊彦の背中から下ろすとほっとしたようにしゃがみ、香澄を抱き締めた。
「ちょっとだけ自転車でお外を走ってみたくなったの……。ごめんなさい」
 香澄は小さな声で言った。
「一緒だったのね。古田さんに香澄ちゃんを見かけなかったかって訊かれて。香澄ちゃんが自転車ごといなくなったって言うから、どうしようかって話していたのよ」
 俊彦の母親が香澄の弟を下ろしながら言った。
「この先で転んでいて、膝から血が出ていて、歩けないって言うから、おぶってやったんだ」
 俊彦が言った。
「これ、俊彦君がやってくれたの」
 香澄はハンカチで縛られている右膝を母親たちに見せた。
「まあ、ありがとう」
 香澄の母親が俊彦にお礼を言った。
「隣のよしみだから。僕、自転車を取って来るね」
 俊彦はそう言うなり走り出して、あっという間に角まで行って曲がった。
「俊彦君は香澄よりひとつ下でしたよね。身体も大きいし、しっかりしているわ。よしみなんて言葉も知っていて、大したものですね」
「父親の言葉を真似ているだけで、意味なんてわかっていないんですよ。それよりも、香澄ちゃんの膝の手当をしないと」
「それでは、後ほど改めてお礼に伺いますので。――香澄、行きましょう」
「俊彦君が戻って来るまでここにいる」
 香澄は俊彦の曲った角をじっと見詰めながら言った。
 香澄は俊彦の姿が角に消えた時、あっと思って、さようならをして来たお友だちのことを想っていた時のような寂しさを感じた。さっき母の手で俊彦の背中から下ろされる時も、あっと思った。して欲しくないことをされたような気持だった。
 香澄は膝に巻かれたハンカチに視線を落とした。俊彦に何かお礼をしなければと思った。一番お気に入りのくまさん柄のハンカチが頭に浮かんだ。これはそのくらいしなければならない大変なことなのだと思って、意を決してそのハンカチを俊彦にあげることにした。
 間もなく、俊彦が自転車に乗って戻って来た。
 軽快に自転車を走らせる俊彦はすごく格好良く見えた。香澄は頬を赤らめ、目をきらきらさせながら彼を見詰めた。
 この時より古田家と大野家の交流が始まり、仲が深まって行った。
 香澄は俊彦と二人でいる時、良く転ぶ真似をした。
「またなの? ほんと香澄ちゃんって平衡感覚が鈍いね」
 俊彦が呆れたように言う。
「痛いの……」
 香澄は地面に転がったままそう言い、父の背中よりも、母の背中よりも俊彦の背中が好きだと思いながら上目遣いに俊彦を見る。
 果たして俊彦が香澄の気持ちを見抜いていたかどうかわからなかったが、彼は仕方がないような顔をすると香澄に背中を向けてしゃがんだ。
 香澄は俊彦におんぶされながら言ったことがあった。
「ほかの女の子をおんぶしちゃ駄目だからね」
「香澄ちゃんの言い方、なんかお姉ちゃんみたいだ……」
 俊彦は俯き加減でぼそぼそと言った。
「だって私、お姉ちゃんだもん」
 香澄はさも当たり前のように言った。香澄は弟からは勿論お姉ちゃんと呼ばれていたが、両親からもそう呼ばれることが多かった。
「香澄ちゃんだからだよ……」
 俊彦は呟いた。
 ところが、俊彦が香澄をおんぶすることがなくなった。香澄が転ぶ真似をしなくなったのだ。
 香澄はちびではなくなっていた。体つきも丸くなって、胸も膨らんで、お姉さんらしい感じになった。
 香澄は、自分のぷっくらと出っ張った胸が俊彦の背中に触れることに恥ずかしさを感じ始めた。それに俊彦の身体を足で挟んだり、彼の手がお尻に触れたり、膝にかけられたりするのも恥ずかしかった。
 細長かった俊彦は肩幅が広くなって、体つきががっちりして来た。それに香澄には彼のにおいまで変わって来たような気がした。
 香澄は自分とは違う彼の体の変化に戸惑った。
 俊彦が香澄を背負わなくなった頃から、二人でいる時間は次第に減って行った。





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